仏像 着衣

2015年8月20日 (木)

三都旅行(京都編)京博ー鉄舟寺千手観音

 最後の京都は、これまた見学箇所は京都国立博物館のみです。
京都国立博物館平成館の常設展に展示されている、寄託品の静岡県清水の鉄舟寺千手観音立像を見るのが目的でした。

Photo_2作品は、ガラスケースに入っていて、ぐるりと見ることができました。
この仏像に対する事前の知識は、奈良時代末から平安時代初期の作品といわれていることで、この点についてじっくり観察したいとおもったこと。
当然、頭上で組まれている脇手は、当初のものかどうかの検証をすること、でした。
まず、多くの脇手は、合掌手と、宝鉢をもつ手の二の腕に取付けていました。普通は、背中にカバンのような膨らみに手を取りつけるのが普通ですが、二の腕に取付るのは、いかにも後から付けたというのが明白です。
頭上手も肩に取付ています。あきらかに、当初は千手観音ではなかったことがうかがえます。
淺湫毅氏は「古代檀像の一遺例ー静岡鉄舟寺の千手観音立像」『学叢』24 平成14年5月20日 で、造像当初は六臂または八臂像であった可能性もある としています。

なぜ、奈良から平安初期の作品かの説明は、淺湫氏の論文にまかせて、ひとつ気になったのは、その着衣です。
肩にかかる布は、背面からみると2枚になっています。外側の幅の狭い布は、天衣で、腰の両脇で、輪のように結び、下にたらしています。内側の布は、スカーフのような、長方形の布のようで、前をあけて肩にかけているようです。

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下半身の着衣は、まず裙をつけ、さらにその上に腰巻ストールを2枚つけています。仮に幅広ストールと幅狭ストールとします。幅広ストールは、布の端に連珠などの模様がほどこされていますが、幅狭ストールにはそれがありません。つまり、この腰巻ストールはあきらかに2枚別で、1枚の布を折って着けているのではないことがわかります。さらにバンドは、模様付きであらわされていますが、その上にある前後の折り返しの布がいったい、裙の端なのか、腰巻ストールの端なのか判定に苦しみます。

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普通は、裙の折り返しがバンドを覆って、バンド自体表現されることは少ないのですが、前部分がこんな小さな折り返しでは、2枚の腰巻ストールの結び目が隠れませんし、腰巻ストールがどう着けられているのか想像がつきません。
また、この折り返しが腰巻ストールのものだとすると、見えるバンドの内側に、裙をとめるバンドがなければなりません。つまり、バンドを2つ締めているということになります。
また、2枚の腰巻ストールは、前中央部分に対称的な折り返しをしており、布の端が不明です。
2枚の腰巻ストールを着ける仏像は、古代では見かけません。また、菩薩像でスカーフをするのも大変珍しい形状です。
この辺は、もうすこし、他の作例を検討した上で、考察すべきかもしれません。
ちなみに、淺湫氏以下、普通の彫刻史研究者は、着衣の部位について、上記の表現とはちがった言い方をしています。

 スカーフ→肩布
 腰巻ストール→腰帯・腰布
 バンド→石帯・腰紐
 裙→裳(裙)

以前、春秋堂日録にも書きましたが、紛らわしい意味を持つ用語は、できるだけさけて、言葉からもつイメージと実物をできるだけ一致したものにしないと、正確な説明ができません。たとえば、”腰布”という言葉の一般的なイメージはポリネシア人が着ている”パレオ”を連想します。すると、普通の読者は”裙”と”腰布”の区別がつきません。これは、美術史で使われる用語だといってもだれも納得してくれないでしょう。また”腰帯”という表現は、普通は、着物を固定する為の細長い布を連想します。しかし、仏像に着けている”腰帯”は、そのような目的で着けていません。つまり、特定の分野しか通用しない言葉は使わないようにしましょうということです。

さて、最近、清水寺式千手観音について、新しい情報が2件ありました。

その1つは、福島県南相馬市小高区にある泉沢石窟のうち、観音堂石仏の清水寺式千手観音の製作年代が特定できる発見があったことです。

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観音堂石仏の前には、覆屋がありましたが、東日本大震災とその余震により倒壊してしまいました。それで、市教育委員会は、新たに覆屋を建設することにし、事前に石仏前の覆屋跡の発掘調査をおこないました。
すると、倒壊した覆屋以前に、2乃至3期にわたる建物遺構を掘り当てました。そして、平安時代の土層から、煤のついた赤焼土器が発見されました。時代は10世紀前半で、灯明器として使われていたものです。
これによって、10世紀前半には、千手観音像の礼拝施設があったということになります。
いままで、清水寺式千手観音で、年代の特定できるものは、三十三間堂の胎内納入品の版画(長寛2年(1164))が最古でしたが、これで10世紀前半までさかのぼることができました。
国指定観音堂石仏発掘調査 現場説明会 Part1 (平成26年1月21日)https://youtu.be/MbSgb919lCc

2つ目は、清水寺式千手観音像に関する論文が発表されたことです。

濱田瑞美「清水寺式千手観音の四十手図像に関する調査研究」『鹿島美術研究』年報第31号別冊 2014年11月15日 P297~P308

濱田氏は、まず絵画の清水寺式千手観音像を12件とりあげて、化仏手のあらわし方をしらべ、文献からは、『千光眼觀世自在菩薩秘密法経』に「二手拳頂上安置化佛」とあることに注目し、清水寺式千手観音はしかるべき経軌に基づいていることを証明しました。さらに、経典には、この図像が大陸に由来していることを記しており、実際、四川省邛崍石筍山磨崖の千手観音(中唐8世紀後半)にすでにあらわれているとしています。
中国の千手観音像は、たしかに頭上で化仏をささげている形をとりますが、日本のように手の平と甲をあわせて、その上に化仏をのせる形とは違い、両手をささげて、指を上に向け化仏を挟んでいる形に見えます。
ちょっと、これは日本の像と同じ像容だといわれてもというところはありますが。
清水寺式千手観音像の像容は、すくなくとも日本で発生したものではないということが証明されたのは、確実な進歩だと思います。あとは、濱田氏も記しているように、中国での源流の究明と、日本での展開の究明という次の課題が待ち受けています。そのためには、前記の観音堂石仏もそのきっかけをつくってくれるかもしれません。

2011年6月11日 (土)

阿修羅の天衣

南亭琴音袮氏のブログに、『天平の阿修羅再び』という本の紹介がありました。

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そういえば、本はすでに買ってありましたが、まだ読んではいませんでした。それで、パラパラめくっていると、松永氏が阿修羅像の模造を製作するにあたって、最初の注文は現状模造だったのに、当初の赤い極彩色を復元した後、古色づけをする予定をやめて、そのままで押し通した。と書かれていました。

編著者のコメントには、

「この阿修羅像の模造は、模造事業が現状模造から復元模造へと替わっていくきっかけになったということで注目された。

とあります。

この阿修羅像は「復元模造」なのでしょうか?なにかひっかります。

松永氏は、この阿修羅像の復元率は100パーセントではないにしても、一つの提示になるのではないか、

と書いていますが、いったいどこが、100パーセントでないのかが、書いてありません。

思うに、阿修羅像の二本の腕は、新納忠之介が明治年間に新たに付けたものです。いはば、松永氏は、新納忠之介の復元の模造をしたのです。

100パーセントでないと、松永氏が言うもうひとつは、想像するに天衣の復元ができなかったことだと思います。

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天衣は、肩にかかる部分にのみ残っていて、両肩から前に垂れるはずが、肩のうえで切れています。

結局、この天衣がどう垂れていたのか、まるで想像がつかなかったために、復元をとりやめたのでしょう。

ということは、極彩色の赤は、復元しましたが、天衣は復元できませんでした。ということなのです。

「復元模造」で、思い出すのは、森川杜園の模造した、法隆寺九面観音像です。

この像は、頭頂の仏面の復元をしています。また、耳朶の穴が現状ではかなりうすくなっているのを、当初の形状にもどしています。

まさに、本物が製作された当初の像を作り上げたのです。

こうなると、模造と本物の違いがわからなくなってしまいます。いはば模造は贋作と紙一重なのです。

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では、模造と贋作の明確な違いは、何なのでしょうか。製作段階での、取り組む意識が違うという、精神的な問題なのでしょうか。

「永仁の壺」事件のように、昔の技術の習得のために、「模造」製作をしたとしても、製作者の手から離れれば、製作者の意図などどこにも作品に現れてきません。簡単に贋作となり得るのです。

そのことを、修復技術者は、そうならないための仕組みを考えているのか、とても危惧しています。

そうならないための仕組みは、徹底的な情報公開にしかありません。模造、修復に際して、材料、技法、製作工程など、すべて公開することなのです。

修復技術者は、いわゆる創作者とふたつの役割をもっているのに、その意識としての使い分けをどうもあいまいにしているようです。

創作者は、作品こそが、すべてを語るものだという信念をもっているのは当然ですが、それでは、修復技術者が、同じように、作品のみで、何も説明をしなかったとしたら、後世の人は、その修復が何時の時代か判別できなくなるのは、あきらかです。

修復者は、そのために、模造にかかわることで、判明したこと、どうしてもわからなかったこと、などあらゆる情報を公開すべきなのです。模造は、その解説書とセットではじめて模造作品といえるのです。

この問題は非常におおきな問題なので、もうすこし整理してから、掘り下げてかんがえてみようとおもっています。

阿修羅の天衣は、あるのはわかっていたけれど、どうしても復元する材料がなかった、と模造の解説書にしっかりと書いておくべきだったのでしょう。

2010年6月13日 (日)

吉祥寺不動明王立像

 和歌山県立博物館で開催していた『移動する仏像』展に出品されていた吉祥寺不動明王立像がどうも気になってしょうがありません。
しかし、どう説明したらいいのか、まとまりがつきません。そんなこんなで、いたづらに時間が過ぎていってしまいました。
そこで、とりあえず、この仏像の形状を文章で記述するとどうなるのかをやってみました。

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不動明王立像 平安時代 吉祥寺蔵
形状:
単髻、炎髮、天冠台。三眼、見開く。牙上下出。右手臂を張って曲げ、腹前で宝剣を執る。左手稍臂を曲げ垂下し、羂索を執る。着衣は袴をはき、裳を巻き、腰布(腰巻ストール)をつける。上半身は大袖の衣を着、鰭袖の衣を着、さらに襟付で、臂先までの短袖の衣を着、胸部にはスカーフを巻き、胸前で結ぶ(結び目は欠失)。獣皮を背中に垂らす。腰帯(結び目なし)を獣皮の上から締める。沓をはき、両足をそろえて立つ。

 

 

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ということになるのですが、背中に垂れている獣皮らしきものが、前面になると不明確になっています。短袖で、二の腕で縛っている衣とは同じではありませんし、獣皮とすると、前面に結び目がなくてはいけませんが、それもありません。また、襟付の衣も袷になっていながら、スカーフの下にはその袷目がありません。ということは、スカーフと腰帯の間には腹甲というべきものがあると解釈すべきなのでしょうか。スカーフを胸で結ぶということは、腹甲があってそれを固定するためのものという、頂法寺毘沙門天立像と同様の機能をもって着けているのでしょうか。
着衣方法から見ると、これは天部の着衣です。しかし、両手の位置は明らかに、宝剣と羂索を持つ形です。炎髮、三眼は明王形ですが、不動明王の形ではありません。
カタログでは、同寺にもう一体ある不動明王立像の眷属の童子像が、この不動明王立像と作風が類似し、大きさも合うことから、眷属が入れ違ったのではないかとしています。
とすると、不動明王像を本地仏とする神仏習合像ではないか。と推測しています。
確かに、儀軌では解釈できない像容です。しかし、この仏像を不動明王像としたのは、印相と牙上下出相だけで判断していることになります。もし両手が後補だとしたら、この仏像は“天部形立像”という名称になっているでしょう。かといって、“明王形立像”というのも、違和感があります。どちらともとれる仏像なので、名称を付けるのに非常にむずかしい判断をせまられてのものなのかなとおもいます。

2010年5月29日 (土)

肩布考(六)

 以前のブログで、「肩布」と「領巾」とは違うものだ、ということを書きましたが、別の観点から、同様な論考を見つけました。
宮本勢助「肩巾考」(第一回)(第二回)『民俗學』5-9,5-10 昭和8年9月18日、11月5日 民俗學會 です。
この論文は、“「肩巾」と「領巾」とは全く異なれる服物と解せられるのみではなく、肩布は全く獨自の服物として考ふべきもの”という結論ですが、私とはアプローチの仕方に違いがあります。

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宮本氏はまず、埴輪土偶や天寿国曼荼羅に“一條の帯状のキレ(巾)の宛ら現代の勲章の綬の如き服物を一方の肩から斜めに他の一方の脇へ懸けて居るものが存在する。”ことに注目して論を始めています。

この綬の如き服物について、従来の研究から四説を検証しています。

  • 明治三十年 ヒレ(領巾・肩巾)説 八木奘三郎「常武兩國新發見の埴輪に就て」『東京人類學會雜誌』131、137 明治30年2月28日、8月28日 東京人類學會
  • 明治四十年 袈裟説 福地天香『裁縫雜誌』5-6 【筆者未見】
  • 大正九年 チハヤ説 高橋健自「奈良時代の服飾に對する二三の考」『人類學雜誌』10-8 大正9年4月5日
  • 昭和二年 スキ(繦)・巾明衣説 高橋健自「古墳墓壁畫の一二に就いて」『考古學雜誌』17-5 昭和2年5月

 まず、それぞれの説を批判して、宮本氏は「領巾」と「肩巾」とも「ヒレ」と読んでいたために両者を混同して使われてきたことに注目し、これを整理しています。それは、書紀編纂当時普通ヒレは領巾と書かれていたのに、日本書紀に「肩巾、此云比禮」と殊更に訓を示したのは、領巾とは違うことを示している。と考え、しかも、領巾は女服のみで、肩巾は男女通服としたのです。領巾は唐代服飾であり、天武十一年以前にはなかったとし、その当時のヒレとは肩巾であった。その肩巾とは、長さは五尺程度で、綬の如き肩に懸けるものだったのではと推測しています。

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確かに、埴輪や天寿国繍帳の人物の肩から斜めに懸けている布を、「肩巾」とするのは理解できます。以前にも書きましたように、「領巾」とは仏像では「天衣」です。しかし、これを「肩巾」としてしまうと、以前取り上げた仏像の両肩にかけて胸元で結んでいる布を何と呼んだらいいのでしょうか。埴輪の布と仏像の布が同じ「肩巾」でいいのでしょうか。形状はおなじようでも、着装方法は明らかに違います。現代人のファッションから見れば、前者はいわゆる「襷(たすき)」であり、後者は「スカーフ」です。

というふうに考えていくと、もうひとつひっかかることがあります。埴輪や天寿国繍帳の人物の肩に懸ける布は、仏像でいう「条帛」とそっくりなのです。これを何故「条帛」と言わないのでしょうか。これも、「領巾」と「天衣」との関係と似ています。普通の人物では「肩巾」で、崇拝対称物では「条帛」というのでしょう。今までぼんやりと「条帛」を見てきましたが、この「条帛」の歴史についても調べなければならなくなりました。

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と書いていくと、東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存専攻保存修復彫刻研究室『年報2008』の研究実績のコーナーで、「個人蔵木造矜羯羅童子・制多迦童子立像修復研究」P205~P218 の形状の項目で、

<制多迦童子像>条箔(筆者注:条帛か)を肩にかけて胸前で結ぶ。

と書いているのにひっかかりました。矜羯羅童子像は普通に条帛を着けていますが、制多迦童子像はいわゆる肩布を両肩から懸けて、胸前において左手でその先を掴んでいる、という願成就院の制多迦童子像と同じ形状です。これを「条帛」というのは初めてです。すごい発想です。

 

 

参照ブログ

2010年4月 8日 (木)

吉祥天の服装

 法隆寺金堂吉祥天立像を例にとって、どういう服を着ているかの記述をしていこうとおもいます。

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まず、腰に裙(裳)を巻きます。裙とは足元から胸まである長方形の布で、腰紐でむすびます。つぎに内衣を着ます。胸元で袷せ、袖は筒袖になっています。内衣とは、服の名称ではなく、下着という意味です。「正倉院の遺品の中には内衣として、半臂、襖子、襦、布衫などがある。半臂は短い袖がつき、裾に襴がついている垂領の衣である。襖子・襦はいずれも筒袖の短衣であり、布衫は単の窄衣で夏の内衣として用いられた。」(谷田閲次・小池三枝共著『日本服飾史』 1989.1.10)としていますが、この仏像の内衣はそのどれに当たるか不明のため、とりあえず「内衣」としました。
次に、盤領大袖を頭からかぶります。盤領とは「あげくび」とも読み、いはば、まるえりで、大きな袖をもつ衣ということになります。大きく開けた襟は、後述の衤蓋襠衣の下に隠れて、表に現れているのは大袖のみのようです。
その上に鰭袖のついた衤蓋襠衣を被ります。これも、臂の部分と、裾にわずかに現れる程度です。
そして、一番上には背子を被ります。背子とは『和名類聚抄』では「からぎぬ」と読んでいますが、ここでは「はいし」とします。これは、半袖の盤領で、裾は膝上までの短衣です。襟に巾広の置口をつけています。
腰に蔽膝を着けますが、腰紐は蔽膝に付いているものかは不明です。天衣は肩からかけ、両腋にはさんでいるので、長さはそれほど長いものではないようです。
以上ですが、衤蓋襠衣と盤領大袖が、袖と裾しか現れておらず、襟元からは見えないので、どうもこれでいいのかな、と思いますが、袖を見てみると、あきらかに上半身は4枚の衣を着ているのが確認できます。
ただ、いまだによく納得できないのは、背子の襟の巾広の置口です。これは、背子の折り返しなのか、輪状の巾広の布を被っているのか、彫刻からはよくわかりません。これについて、江馬務は「Ⅰ 王朝の服装/奈良朝から平安前期に亘る服飾界ー特に女装の動向」『江馬務著作集』第三巻 S51.6.20 で

「さて平安初期の女装で、先ず特筆すべきことは背子の斬新な形式が生まれたことである。それは襟の形がV形にならずに円く刳られた形式のもので、その襟には置口がついていた。」

としています。また、「背子が襟や袖口にフリル様のものをつけたのは、裲襠の模倣である。」としています。

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しかし、東大寺法華堂塑造吉祥天立像は襟は袷ですが、法隆寺塑造吉祥天立像は、円い被る形の襟ですので、猪川和子氏の指摘しているように、この襟の形では時代の判定はできないようです。(「吉祥天彫像」『美術研究』 210 S38.7)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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また、醍醐寺吉祥天立像を見てみると、服装の着方はほぼ法隆寺金堂像と同じなのですが、裾に盤領大袖と衤蓋襠衣が背子に隠れて表現されていません。根立研介氏は『醍醐寺大観』第1巻 2002.10.29 の解説に

「内衣、大袖の衣を纏った上に、襟際と裾に縁飾りのついた衤蓋襠衣を着けて腰紐で締め、両肩からは天衣を垂らしている。下半身には、裙、蔽膝の着用が認められる。」

として、注釈で、衤蓋襠衣に縁飾りをつける例を広隆寺薬師如来像に求めています。伊東史朗氏も、「27 吉祥天立像」『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』 1992.7.21 で、

「衤蓋襠衣の上下についている大きな縁飾りは、ほかの吉祥天の彫像では見られないもので、珍しい表現である。」

とし、これを宋風表現のひとつと解釈しています。しかし、醍醐寺像の袖を見ると、衤蓋襠衣の鰭袖の上の二の腕部分に背子の端があるので、胸の縁飾りは背子のそれであることは明確に解ります。これを宋風表現とすると、法隆寺塑造吉祥天像との形態の違いを説明しなければなりません。これについては、例をあげて、もう一度検証してみることとします。

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服装について調べ始めると、これがなかなか奧が深いテーマと解りました。まして、服飾史という分野があり、彫刻史とは別のアプローチをしているのですが、それぞれが、もう一方の分野と一線を画しているので、両方の分野での研究を阻害しているように見えます。そのため、彫刻での、服装の記述が実に不揃いの用語を使い、服飾史の研究成果の吟味すらしていないように見えます。服装の用語など、まだまだ調べなければならないことがありそうですので、この問題は、今後の課題として、また登場することになるでしょう。
消化不良のままで書いてしまいましたが、これ以上このブログをほったらかしにできないので、まとまらないままでとりあえずの執筆となってしまいました。お許しください。

2010年2月 7日 (日)

肩布考(五)

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 肩に布を掛け、胸元でそれを結ぶ着衣を何と呼ぶのがいいのか、考えてみました。

まず、『田中千代服飾事典』 1973年6月15日 同文書院、丹野郁編『総合服飾事典』 1980年10月5日 雄山閣 で用語を拾ってみますと、以下の項目がありました。

  • えりまき【襟巻】
  • かたかけ【肩掛】
  • ショール【Shawl】
  • スカーフ【Scarf】
  • ストール【Stall】
  • ひれ【領巾】
  • マフラー【Muffler】

まず【襟巻】ですが、事典では、首に巻き付けるものの総称を言うようで、おもに防寒などの目的で使う布の意のようです。

【肩掛】も襟巻と同様の総称としての意味に使われるようです。

【ショール】は婦人用の正方形、三角形、長方形の布製、あるいは毛糸製の肩かけのことで、言葉の起源はペルシャ語だそうです。ヨーロッパでは19世紀に作られたようです。日本では、明治時代に洋風化にのって、ショールは和服の肩に装飾用にかけるようになり、一般化していったようです。

【スカーフ】は一般に首に巻いたり、頭をおおったりするのに用いられる正方形、あるいは長方形の薄手の布または編物のことをいっています。西洋風のスカーフは戦後以降の流行ですが、日本の女装に「御高祖頭巾」(おこそずきん)というのが江戸から明治時代にあったようです。

【ストール】は主として、長方形の帯状の装飾用布片で、長さは床にとどくほど長いのもあります。カトリックの聖職者がしているのも「ストール」と言い、中世期以来使用されているものです。

【マフラー】えり巻の一種。19世紀以降は、防寒用として使われ、素材は毛織物、絹織物など多様のようです。ふつうは男子用の襟巻きを指すことが多く、婦人用は「ショール」と呼んで区別しているらしいです。

これらの用語の中では、仏像の肩に着装している布は、現代でいう【スカーフ】が一番近いように思います。胸元で結んでいることから、薄物の布を使用しているようですし、マフラーのように防寒用に着けているようにも見えません。またストールほど長い布ではないようです。

また、現代のスカーフは普通、90㎝角程度の大きさで正方形をしているのが多いようですが、有名ブランドのエルメスのサイトを見てみると、必ずしも正方形とは限らなくて、長方形(ロングスカーフというらしい。33㎝×130㎝~53㎝×160㎝程度)もあるようです。

今の女性は普通、正方形のスカーフを対角線に折って肩に掛けているのですが、それを長方形に折って(バイアス折りというらしい。)肩に掛けて胸元で結ぶ方法もあり、それならば、仏像のようになります。

使い方も仏像と現代の女性も同じように装飾用として、着装しているのがわかります。

ということは、仏像の肩に掛けて、胸元で結ぶ布は、それが仏像に着けるものか否かにかかわらず【スカーフ】あるいは【ロングスカーフ】といってもいいのではないでしょうか。

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このスカーフはかならずしも肩に掛けるばかりでなく、腹上のところで、胸甲を固定するために結んでいる仏像があります(頂法寺毘沙門天立像)。これもスカーフと言った方がいいのではと思います。

ところで、アントキノ猪木は赤いタオルを肩から掛けていますが、本物のアントニオ猪木は「マフラー」を肩からかけているのでしょうか。それとも、かなり長いし、結んでいるように見えないところを見ると、「ストール」かな?

参考ブログ

2010年2月 1日 (月)

肩布考(四)

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 「領巾」について、もう少しまとめて見ようと思います。
まず、前回紹介した原田淑人著『唐代の服飾』に、中国では「帔帛」と「帔子」と呼ぶものがあると言いましたが、事物紀原衣裘帯服部帔子の條を引いて、「處女帔帛を用ゐ、出嫁すれば帔子を用ゆることに徴すれば、帔帛の方おそらく長く、帔子の方短かきものには非るなきか。」としています。しかし、「領巾」という言葉も唐代には使われており、「帔帛」「帔子」とどう違うのかは不明です。岩崎雅美・岡松恵・片岸博子・原田順子・馬場まみ「薬師寺吉祥天像の服飾における中国西域の要素についてー髪型や衣を中心にー」『日本服飾学会誌』20 2001年6月1日 では、「領巾は帛・披帛・帛巾などと称されるもので、大別して二つある。幅が広くて稍短い「披帛(被巾)」(ショール)と、細くて長い「被子(被帯)」である。披子は大きなリボンのようであり、さらに薄いと飛天の天衣のようにもみえる。」として、唐代の絵画で、「披帛」と「披子」の使用例を挙げて分類しています。

この「披帛」「披子」について、論文で採用しているのは、島田修二郎「鳥毛立女屏風」『正倉院の絵画』1977年(島田修二郎著作集1『日本絵画史の研究』1987年11月7日)です。この論文では島田氏は原田氏の説を註で紹介していますが、鳥毛立女屏風に描かれる女性の肩には「披巾」をまとう、としています。

田中陽子「薬師寺吉祥天女像の服飾に関する一考察ー中国歴代女子服との比較からー」『国際服飾学会誌』16 1999年9月30日 では「帔帛」という言葉を使っています。
そうはいっても、薬師寺吉祥天画像、東大寺法華堂塑造吉祥天像などには、「領巾」という説明をして「ひれ」という読みを入れているのが多数です。しかし、「領巾」をいつから「ひれ」と呼ぶようになったのでしょうか。錦織竹香『古今服装の研究』1927年10月15日 によると、第九章第一節 領巾 の項で、「領巾」の書かれている史料を15冊ほど挙げていますが、「領巾」という語が出てくるのは、『日本書紀』巻五 崇神天皇10年、『倭名類聚抄』巻四衣服、『倭訓栞』前編二十五比、『永仁御即位用途記』、『歴世服飾考』巻三 ぐらいでしょうか。あとは、「比禮」がほとんどです。『日本書紀』天武天皇11年の項では「肩布、此云比例。」としています。つまり、「領巾」という語はあきらかに中国から入ってきた言葉で、それ以前に日本では、「ヒレ」という着衣があって、その着衣方法を「領巾」という語に当てはめたということのようです。

これについて、増田美子『古代服飾の研究ー縄文から奈良時代ー』1995年3月7日 では、古事記などで、「領巾」が呪力をもつ布であることが記述されていることについて、「領巾は古墳時代中期以降に入ってきた外来の不可思議な服飾であったのではないか。埴輪にその姿がみられないのは、関東まで普及していなかったため。」とし、「インドで発達し、特に領巾を掛けて空を飛ぶ飛天の姿と深く結びついて、その長い布が呪力を持つという概念が生まれたのであろう。・・・これらは、仏像等の装束と結び付いて特別な力を持つと考えられた領巾がわが国にも伝わり、装われるようになったのではないだろうか。」としています。

増田氏の論考は、「領巾」と「天衣」について、曖昧な形で述べているようです。仏像の「天衣」は呪力を持つために着装しているという根拠があるのでしょうか。また、「領巾」は呪力をもつために女性が掛けるものなのでしょうか。単なる装飾ではないのでしょうか。そのことについて『倭名類聚抄』では「領巾所謂婦人項上飾也」と明確に装飾品としています。

「領巾」と「天衣」については、田澤坦「藥師寺の繪畫」町田甲一・坂本万七『薬師寺』1960年5月15日 実業之日本社 では「領巾ー或は披子、佛教像では天衣ー」としています。どうみても、「領巾」と「天衣」は同じもののようです。前回書いたように、崇拝対称物か、人物(女性)が着装するかで言い方が違うとしていいのではないでしょうか。

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さて、まだ本題にもどれません。法隆寺四天王立像や観世音寺大黒天像の肩に掛けて、胸元で結んでいる布は、何と言ったらいいのでしょう。すくなくとも「領巾」ではありません。領巾=天衣だと、天衣を2つ着ていることになりますから。

2010年1月24日 (日)

肩布考(三)

 「領巾」とは、首に掛ける細長い薄布のこと。女子が首から肩へ掛け垂らし、その布は左右へ長く垂れる。と定義しています。すると、「天衣」とその着衣形式がよく似ています。「領巾」と「天衣」とはどう違うのでしょうか。
Photo すぐに思いつくのは、「領巾」は女性という人間の装身具のひとつであるのに対して、「天衣」は菩薩・神将・天部などいはば崇拝対称が着けている布である。その長さも、「領巾」はおおよそ身長の2倍程度の長さに対して、「天衣」はそれよりももっと長く、数mにおよび、仁王像は、腰紐としても使われている。ということでしょうか。
それでは、女子の服装をした仏像がこの「肩布」をかけていたら、何と呼ぶのでしょうか。その例が、「薬師寺吉祥天画像」と「薬師寺神功皇后坐像・仲津姫命坐像」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_2 「薬師寺吉祥天画像」の解説を見てみると、確かに執筆者によって「領巾」と「天衣」と二通りの記述があります。泉武夫氏は「領巾(天衣)」と併記しています。(『日本美術名宝展』カタログ 1986年9月23日)

 

 

 

 

 

 

 

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それでは、「薬師寺神功皇后坐像・仲津姫命坐像」はどうでしょうか。いつくかの解説を見てみると、どうも「肩布」を着装している記述が少ないようです。『奈良六大寺大観』6 薬師寺の解説者(上原昭一)の解説ではその布の記述がありません。古くは白畑よし氏が『美術研究』39 1935年3月28日 の図版解説で、「領巾」の記述があるのに、その後展覧会には何回か出品されていても、その解説では、その記述が抜けています。着衣の説明ですから、当然記述しなければいけないのですが、あまり関心がなかったかもしれません。
最近の展覧会図録によると『神仏習合展』 奈良国立博物館 2007年4月7日 で稲本泰生氏の解説には、「注目すべきは、女神像の首のうしろにかけた布が、肩から前に出て、腋をくぐって後方に至る表現であり、天衣をあらわしたものと考えられる。」と「天衣」と断定しています。その翌年の『国宝薬師寺展』東京国立博物館 2008年3月25日 では、丸山士郎氏の解説では「肩を覆う領巾」と記述しています。
どうも微妙な問題です。崇拝対称であっても、その表現が、その当時の女性の着衣形式を採用したのなら、これは「領巾」でしょう。しかし、「吉祥天画像」は、「天衣」のように肩から臂にかけていて、「領巾」よりも長い布を使っています。こうなると、これは「天衣」でしょうか。法隆寺塔本塑像では、「領巾」の片方の端を胸の衣の中にいれて、片方を垂らしています。この方が実用的なのでしょう。つまり、実際に着用している様子を写しているように見えます。しかし「天衣」は、風になびく様子や、布の垂れ方は実際には、あり得ない表現が多くあります。そんなところが、違いなのでしょうか。

2010年1月21日 (木)

肩布考(二)

 肩に布を掛け、胸元でそれを結ぶ着衣形式について、仏像の形状の記述で、「領巾」という用語を使っている研究者がいます。いま、ざっと挙げてみると以下のようになります。

  • 濱田耕作「法隆寺金堂の四天王像」『東洋美術』1 1929年4月8日
  • 石崎逹二「勝軍寺四天王像」『夢殿』16 四天王の研究 1936年12月20日
  • 井上正「四天王像 教王護国寺」『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 重要作品篇1 1973年7月30日
  • 山本勉「持国天像、多聞天像 覚音寺」『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代 造像銘記篇1 2003年4月15日
  • 松田誠一郎「當麻寺金堂持國天立像(四天王像のうち)」『國華』1337 2007年3月20日
  • 奧健夫「[新指定重要文化財紹介]京都・清凉寺木造毘沙門天坐像」『佛教藝術』305 2009年7月30日
  • 川瀬由照「厨子入羅睺星立像 輪王寺蔵」『國華』1367 2009年9月20日

まだ、この「領巾」という記述をしている仏像解説は他にあると思いますが、その作例から見ると、ほんの一部の研究者が使用しているだけで、その用語が定着してはいないようです。
しかし、この「領巾」という言葉はかなり前から使っているようで、何かの根拠があってのことなのでしょうが、誰が最初に使ったのかの追跡は今のところ、濱田耕作氏までです。
Photo それでは、「領巾」という言葉は、いつ頃から用いられていたのでしょうか。唐代の服飾については、原田淑人著『支那唐代の服飾』東京帝國大學文學部紀要第四 1921年 が文献・遺物から考究をおこなっています。それによると、「女子肩背に掛くる被帛披子といふ巾あり。・・・本邦奈良朝前後に行はれし領巾(比禮)亦之と關係あらんか。」としていますが、宮本勢助は「唐代の領巾及び裙帯」『考古学雑誌』12-2 1921年10月5日で、「領巾」という語は、早く隋書五行志に見え、其他唐代には樂府雜錄・支諾皐・酉陽雜爼などに書かれている、としています。その後、原田淑人はこの本の再版に際し、発掘調査で判明した服飾資料を加えて、『唐代の服飾』東洋文庫論叢第51 として1970年3月25日に刊行して、増補した唐墓の壁画人物の服飾の検討で、侍女などの人物に「領巾」を着装していることを述べています。

 

 

 

Photo_2 それでは日本では、どうでしょうか。古くは『万葉集』巻5に松浦左用姫が夫大伴狭手彦との別れ際に高い山の嶺に登り「領巾」を振ったという。この左用姫が「領巾」を振った山を「領巾振の嶺」と呼ぶようになった。と書かれています。また、『延喜式』第14 縫殿寮 の中宮 春季の項に、「領巾四條料。沙三丈六尺。別九尺。」と書かれており、「領巾」を「ヒレ」と読んでいます。他の史料をみても、日本では「領巾」のことを「比礼」「比例」(ひれ)と読んでいます。何故訓読みが「ヒレ」になったのかは、不明ですが、「領巾」という語が輸入される前に、日本ではすでに「ヒレ」という着衣方法があったとみるべきでしょうか。

 

 

 

 

Photo_3Photo_4 関根真隆著『奈良朝服飾の研究』 1974年3月31日 には「領巾」の項目があり、日本での用例をあげています。それによると、薬師寺の「吉祥天画像」、正倉院の「鳥毛立女屏風図」、法隆寺五重塔塔本塑像(西10号、西13号、東11号)に見られ、また、彫刻では、薬師寺神功皇后像、仲津姫像にも見られます。正倉院の楽装束に「□呉女領巾」の墨書のある「呉女夾纈羅領巾残欠」(中202 90号櫃 玻92 墨書No195)があり、これが「領巾」の現在残っている実例のようです。
延喜式などの史料によると、「領巾」は沙で、長さが九尺のものを使っていたようです。神祇式では七尺と書かれています。関根氏は「つまり、「領巾」とは、女性がショール様に着用した薄物の巾で、四季にわたって身にまとったようである。」とし、「中国における領巾着装の習俗は、確実な記録、遺品からみれば唐代からのようで、」日本では「隋唐のそれによってもたらされたものと解釈すべきであろう。」としています。
Photo_5 ずいぶんと、話がそれてしまいましたが、「領巾」とは、仏像の肩に掛けて、胸元で結ぶという短い布とはあきらかに違うものだ、ということです。濱田耕作氏は、何で法隆寺金堂の四天王立像に着装している布を、「領巾」と言ったのでしょう。その根拠がわかりません。以後の執筆者は、単に踏襲して記述してきたのでしょうか。

諸橋『大漢和辞典』では、「領」を「えり」 としています。それからすると、襟に巻く布で、「領巾」としたのでしょうか。しかし「領巾」とは 「古、夫人の頸にかけて飾とした布帛。」 としています。
どうみても仏像に着用している布を「領巾」というのはいただけません。それでは「肩布」でいいのでしょうか。(次に続く)

2010年1月17日 (日)

肩布考(一)

 仏像の着衣で、「肩布」というのをご存知でしょうか。いわゆる、肩に布をかけ、胸元でそれを結ぶ着衣です。現代で言えば、スカーフを肩にかけ、それを胸元で結ぶ、というよく見かけるファッションです。ボーイスカウトでは、「ネッカチーフ」というらしいです。もっとも、ボーイスカウトでは、結ぶのではなく、布をリングに通しているようですが。

仏像にかける布は、現代のスカーフとはちがって、どうも細長い布を使用しているようです。その使用例は、飛鳥時代から江戸時代まで、ほぼ全時代の仏像で見られます。尊像の種類は、不動明王二童子のうち、制吒迦童子像に多く、四天王立像ではどれという決まりはなく使われています。その他、法隆寺五重塔塔本塑像のうち北16号像、興福寺八部衆像のうち迦楼羅像、観世音寺大黒天立像、興福寺板彫十二神将立像、三十三間堂風神雷神像、金剛峯寺八大童子のうち制吒迦童子像、興福寺天燈鬼龍燈鬼像にも着用しています。

Photo なぜ「肩布」というのかについては、例によって、それについて解説している論文が見あたりません。日本での最初の例である、法隆寺金堂の四天王立像の着衣が肩の下のほうで巻いていることからきたのでしょうか。

当麻寺金堂の四天王立像も、肩の下の方にまで覆っています。この像の着衣形式について、毛利久氏は、「当麻寺の彫刻」『当麻寺』近畿日本叢書 1962年10月20日 でこの源流は中国の斉・隋式であり、唐になると、肩に巻く布はなくなる。としています。

ところが、法隆寺像、当麻寺像は、肩を覆うような着衣になっていますが、それ以後、奈良時代にもその使用例があり、たとえば、戒壇院厨子扉絵の四天王立像、東大寺法華堂四天王立像の内増長天立像、新薬師寺十二神将像の内珊底羅大将・摩虎羅大将立像などです。毛利久氏は唐時代にはこの「肩布」はなくなるとしていますが、日本の奈良時代にその例がありますので、その着衣形式での様式の源流の判定はできないとおもいます。

Photo_2 平安時代の東寺講堂の四天王立像の内、持国天立像になると、肩よりもむしろ首に巻いているといったほうがいいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

Photo_3Photo_4  また、不動明王二童子のうち、制吒迦童子像では、結び目をつくらないで、単に巻いている表現もあり(十輪院制吒迦童子像)、肩にかけた布を左手でつかむといった表現をしている像(願成就院制吒迦童子像)もあったり、個性的なファッションセンスを表しています。

さて、この「肩布」という用語は、適切な表現なのでしょうか。腰に巻くのが「腰布」で、単に肩にかけるから「肩布」なのでしょうか。使用位置だけでその言葉がちがうというのは、その機能を表しているとはいえません。前回書いたように「帯状布」では、その形を単に表現しているにすぎません。単体で見ると、単なる布でしかないということになります。

こういう形状で、素材はこういうもので、このように使うというものが、「○○」である。という定義をしたいのですが、そこまでの検討はまだおこなわれていないようです。

ところが、肩布を着装している仏像の形状を記述している論文の中に、この布を「領巾」と表現しているのがあります。この「領巾」とは一体どういう意味をもった言葉なのでしょうか。それに、これは何と読むのでしょうか。それは次回ということで。

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