仏像 坐法

2017年11月16日 (木)

“半跏趺坐” という言葉

 結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。という疑問に曲がりなりにも答えようとしている論文を見つけました。

岡田健「中国仏像彫刻における如来像の坐のかたち」『東アジア美術における人のかたち』平成5・6年度科学研究費補助金(一般研究A)研究成果報告書 1996年3月 です。

この論文は、インドから中国唐までの時代における仏像の内、如来像の坐勢について整理したものです。
まず、仏教美術は個々のモチーフと教義が一体になって意味を与えている、といった前提は実際はかなり曖昧なものである。と伏線を張っています。
その上で、インドから坐勢の歴史を解き、中国にいたって、組んだ右足の足首先だけ見せて、下にあるはずの左足を見せないものがあり、これは南北朝の時代と地域の全般を通じてかなり徹底して行われている表現である。と指摘しています。

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その後の論について、正確を期するために、岡田氏の論文を引用します。

“ここで一つの問題となるのは、いま見ている南北朝期の片足を見せない、中国的と言える坐勢表現の場合、これが確かに結跏趺坐なのか、ということである。
-中略-
 いま誰かに、ではこのような表現の場合、なに坐と呼ぶのかと問われれば、筆者自身もやはり、「結跏趺坐」と答えるであろう。いまのところ、そうではない、という根拠が見つからないからである。もっとも本当の正直な理由は、美術史の世界でそれを結跏趺坐と呼ぶのが習慣になっているからである。(2)
(注2)しかし、同じように片足を隠すようにして表された菩薩の坐勢については、これをいわゆる「菩薩坐」としての半跏坐として認識する場合がある。外見上全く区別がないのに如来像の場合だけこれを半跏と認識しないのは、論理的には不完全である。”

この岡田氏の弁明というべき説明は、まるで論文という体をなしていないことを露呈しています。“なに坐”と呼ぶかと問われて、「結跏趺坐」しかおもいつかない選択肢のなさ。「半跏趺坐」という言葉が、筆者の辞書にはないのでしょうか。一歩譲って、結跏趺坐の定義に合わない、ということも言えないのでしょうか。
さらに、おどろくべきは、美術史の学界の習慣のせいにして、筆者自身の作品に対する観察眼の自身のなさをさらけ出し、さらに(注2)で、自己矛盾に陥ってしまったたことです。

“われわれは、すでに経典の上からと実際の作例から、如来の坐勢に結跏趺坐、半跏趺坐、倚坐(中国では善跏趺坐と呼ぶ)の三種類があることを知っている。このうちの結跏趺坐と半跏趺坐との区別がどうも不明瞭なのである。”
“少なくとも経典の上からは、これは明確に区別される。両方の趺(こむら=足の甲)を交え、それぞれ反対の足の股の上に置いて坐るのが結跏趺坐、片方の趺を他方の股の上に置いて坐るのが半跏趺坐である。”
-中略-
”あるいは如来の坐勢表現に対してかなり無頓着な時間が、中国仏教彫刻の流れの中に存在したのであろうか。それが結果的には、やがて六世紀半ば以降に次々と起きた坐勢表現の変化、すなわち、結跏趺坐における右足上と左足上という足の組み替え、右足を上にしながら左足は組まずにそのまま下に敷く表現、これらの出現を、より際だたせることとなったのかもしれない。”

結跏趺坐と半跏趺坐の定義がちゃんとできているのに、”右足を上にしながら左足を組まずにそのまま下に敷く表現”を“結跏趺坐”と呼ぶのですか? これこそ岡田氏が定義した“半跏趺坐”でしょう。まるで矛盾しています。
さらに、岡田氏は、右足を上にした坐勢で、その右足の脛の下に、左足先をのぞかせている例を数例あげています。これこそ、岡田氏自身が定義した“半跏趺坐”の具体例なのに、そのことに一言もふれず、彦坂氏の論の引用から、
(注)彦坂周「仏像坐法にみられる南インド的特徴ーその源流と展開ー」『インド学 密教学研究ー宮坂宥勝博士古稀記念論文集ー』上巻 1973年7月10日

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“彦坂氏がこれを論文中敢えて「半跏」と称さなかったように、少なくとも漢訳の仏教経典に見える半跏の定義にあてはまるものではないわけで、その呼称については一考を要するものである。”

とあくまでも、“半跏趺坐”ではないと言い張っています。この論でいえば、中国では、経典に書かれている「半跏趺坐」の像は存在しないことになります。そして、

“六世紀の中国の如来の坐勢表現には、結跏趺坐の足の組み替えと、結跏趺坐ではないいわゆる「半跏趺坐的」表現の登場とが見られた。”

と結論づけられては、いったい、どういう坐勢の仏像が“半跏趺坐”と呼べるのか、具体例を示してもらわなければ、説得力がまるでありません。なぜ「半跏趺坐」という言葉を抹殺しようとするのでしょうか。

ここで、別角度から、日本の仏像について書かれた論文、解説の中で、「半跏趺坐」と記述しているものを掲げてみます。

半跏趺坐と記述している論文・解説集

  1. 法隆寺金堂 銅造釈迦如来坐像(三尊の内)【奈良県斑鳩町】
    村田靖子「【奈良西部】/いかるが/法隆寺/釈迦三尊像 金堂所在 」 『奈良の仏像ー古都の寺々と名品を訪ねてー』 1997年12月15日 大日本絵画 211p~220p
  2. 法輪寺木造薬師如来坐像【奈良県斑鳩町】
    鏡山智子「本文/法輪寺薬師如来像・伝虚空蔵菩薩像をめぐって 」 『美術史』 64-2(178)  2015年3月31日 美術史學會 332p~349p
  3. 観音寺木心乾漆造菩薩坐像【京都府和束町】
    副島弘道「論文/京都府和束町観音寺の木心乾漆菩薩像について 」 『鴨台史学』 4  2004年3月31日 大正大学史學會 27p~50p
  4. 願興寺脱活乾漆造聖観音菩薩坐像【香川県さぬき市】
    「本文編/一 観音菩薩坐像 願興寺」『研究資料 脱活乾漆像の技法』 2011年5月20日 學藝書院 3p~5p
  5. 大善寺木造薬師如来坐像(三尊の内)【山梨県甲州市】
    鈴木麻里子「第3章 彫刻/3,木造薬師如来及両脇侍像 大善寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県 483p~485p
  6. 賢林寺木造十一面観音坐像【愛知県小牧市】
    伊東史朗「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/38 十一面観音菩薩坐像 賢林寺(小牧市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 252p~253p
  7. 観明院木造虚空蔵菩薩坐像【滋賀県大津市】
    岩田茂樹「図版・作品解説/10,虚空蔵菩薩坐像 観明院蔵 」 『企画展 大津の仏像ー一千年の造形(カタチ)ー』 1997年4月26日 大津市歴史博物館 30p~31p
    「主要仏像詳細データ/28 観明院/1,木造虚空蔵菩薩坐像 」 『大津市歴史博物館研究紀要』 10 比叡山延暦寺里坊等所在・未指定彫刻調査目録(下) 2003年7月31日 大津市歴史博物館 50p~51p
  8. 庵寺観音講(上野庵寺)木造大日如来坐像【滋賀県米原市】
    山下立「各個解説/12 大日如来坐像 米原市(伊吹町)・庵寺観音講 」 『大湖北展ー伊香・浅井・坂田三郡の風土と遺宝ー』第52回企画展 2016年1月9日 滋賀県立安土城考古博物館 56p~56p
  9. 教王護国寺伝僧形文殊菩薩坐像【京都市南区】
    奥健夫「本文/東寺伝聖僧文殊像をめぐって 」 『美術史』 42-2(134)  1993年3月25日 美術史學會 164p~179p
  10. 神護寺木造五大虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    津田徹英「特集 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像/神護寺密教空間の中核をなす尊像 」 『週刊朝日百科 国宝の美 17 彫刻7』 17 平安時代の密教彫刻 2009年12月13日 朝日新聞社 24p~27p
  11. 清凉寺木造観音・勢至菩薩坐像(三尊の内)【京都市右京区】
    田邊三郎助「13,阿彌陀如來及兩脇侍像 京都 清凉寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇5』 1997年11月10日 中央公論美術出版 4p~10p
  12. 広隆寺講堂木造虚空蔵菩薩坐像【京都市右京区】
    金森遵「廣隆寺講堂脇侍菩薩像に就いて 」 『考古學雜誌』 28-6  1938年6月1日 日本考古学会 357p~367p( 『日本彫刻史の研究』 1949年4月15日 河原書店 201p~211p)
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第六節 空海から道昌へ/広隆寺講堂虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 609p~613p
  13. 松尾大社木造男神坐像(壮年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  14. 松尾大社木造男神坐像(老年相)【京都市西京区】
    伊東史朗「各個解説/三神像 」 『松尾大社の神影』 2011年6月30日 松尾大社 84p~84p
  15. 神応寺木造行教律師坐像【京都府八幡市】
    紺野敏文「第三編 平安彫刻の成立/第四章 神像の成立と習合像/第六節 聖僧像の系譜/行教像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 366p~369p
  16. 金剛峯寺旧金堂木造虚空蔵菩薩坐像(焼失)【和歌山県高野町】
    紺野敏文「第五編 虚空蔵菩薩像の成立/第二章 求聞持形の展開/第五節 金剛峯寺の虚空蔵菩薩像 」 『日本彫刻史の視座』 2004年2月15日 中央公論美術出版 604p~606p
  17. 善根寺木造薬師如来坐像【広島県三原市】
    濱田恒志「広島・善根寺収蔵庫の諸像について/一、諸像の基礎データ/(一)薬師如来像 」 『美術史学』 35  2014年3月31日 東北大学大学院文学研究科美術史学講座 2p~3p
  18. 法性寺木造阿弥陀如来坐像【愛知県あま市】
    山岸公基「第三章 作品解説/第一節 名古屋・尾張/87 阿弥陀如来坐像 法性寺(あま市) 」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年3月31日 愛知県 340p~340p
  19. 伊崎寺木造不動明王坐像(三尊の内)【滋賀県近江八幡市】
    寺島典人「Ⅱ 比叡山の仏像/延暦寺の仏像・仏画/20 不動明王坐像 近江八幡市・伊崎寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 40p~41p
  20. 小槻神社木造男神坐像(伝大己貴命)【滋賀県栗東市】
    「彫刻/4,木造男神坐像(伝落別命)・木造男神坐像(伝大己貴命)(滋賀・小槻神社) 」 『平成10年度指定文化財修理報告書 美術工芸品篇』 1999年0月0日 文化庁 118p~120p
    「各個解説/4 男神坐像 滋賀県栗東市・小槻神社 」 『戦国・安土桃山の造像Ⅱー神像彫刻編ー』開館15周年記念 平成19年度秋季特別展 2007年10月13日 滋賀県立安土城考古博物館 89p~89p
    山下立「各個解説/【第Ⅱ部】神像と狛犬ー神仏習合美術の世界ー/15 男神坐像 栗東市・小槻神社 」 『大湖南展ー栗太・野洲郡の風土と遺宝ー』第55回企画展 2017年2月25日 滋賀県立安土城考古博物館 59p~59p
  21. 旅庵寺木造地蔵菩薩坐像【滋賀県近江八幡市】
    山下立「各個解説/13 地蔵菩薩坐像 近江八幡市・旅庵寺 」 『蒲生郡の風土と遺宝』開館20周年記念 第46回企画展 2013年2月23日 滋賀県立安土城考古博物館 55p~55p
  22. 東光院木造菩薩形坐像(伝七仏薬師の内)【千葉市緑区】
    津田徹英「千葉・東光院蔵 伝七仏薬師坐像の図像表現をめぐって 」 『密教図像』 12  1993年12月21日 密教図像学会 21p~43p
  23. 醍醐寺大講堂木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  24. 醍醐寺伝法学院木造不動明王坐像【京都市伏見区】
    益田佳苗「醍醐寺大講堂の不動明王像と脇侍二童子像 」 『美学・美術史学科報』 23  1995年3月 跡見学園女子大学美学美術史学科
  25. 東大寺俊乗堂木造愛染明王坐像【奈良県奈良市】
    「Ⅳ 調査報告/2,仏教美術史的調査/解説/金胎寺諸堂安置仏像【東大寺俊乗堂】/39 木造 愛染明王坐像 」 『第1期南山城総合学術調査報告書 鷲峰山・金胎寺とその周辺地域の調査』同志社大学歴史資料館調査研究報告書 第3集 2002年9月30日 同志社大学歴史資料館 117p~119p
  26. 大通寺木造不空羂索観音坐像【岡山県矢掛町】
    浅井和春「岡山・大通寺の不空羂索觀音菩薩坐像 」 『佛教藝術』 246  1999年9月30日 毎日新聞社 69p~85p
    浅井和春「岡山・大通寺 不空羂索観音菩薩坐像 」 『密教のほとけー曼荼羅・仏像・仏画ー』善通寺創建千二百年記念 2006年4月0日 総本山善通寺 25p~25p
  27. 寂光寺木造菩薩形坐像(聖観音)【滋賀県大津市】
    寺島典人「Ⅴ 長等山麓の仏像/82 聖観音坐像 大津市藤尾奥町・寂光寺蔵 」 『比叡山ーみほとけの山ー』大津市歴史博物館開館25周年記念企画展 2015年10月10日 大津市歴史博物館 113p~113p
  28. 随心院木造金剛薩埵菩薩坐像【京都市山科区】
    山口隆介「随心院所蔵彫刻に関する調査報告/二 金剛薩埵菩薩像 」 『小野随心院所蔵の文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその展開 Vol.Ⅲー随心院調査報告・国際研究集会報告・笠置寺調査報告』平成19年度科学研究費補助金 基盤研究(B)17320039研究報告書 2008年3月19日 荒木浩 288p~289p
  29. 現光寺木造十一面観音坐像【京都府木津川市】
    山口隆介「各個解説/116 十一面観音坐像 京都・現光寺 」 『御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶ー鎌倉仏教の本流ー』 2012年4月6日 奈良国立博物館 247p~248p
  30. 金剛寺木造降三世明王坐像【大阪府河内長野市】
    大澤慶子「図版解説/148 降三世明王坐像 行快 金剛寺・大阪 」 『日本美術全集 第7巻 運慶・快慶と中世寺院 鎌倉・南北朝時代Ⅰ』 2013年12月30日 小学館 250p~250p
  31. 高山寺木造不動明王坐像【岡山県井原市】
    和田剛「井原市・高山寺所蔵の仏像について」『岡山県立博物館研究報告』34 2014年3月1日 岡山県立博物館 1P~30P

これだけの例があることが、多いのか、少ないのかは、判断の分かれる事かもしれませんが、この例の数十倍かそれ以上の論文・解説文は、「半跏趺坐」像を「結跏趺坐」と呼んでいるのです。さらに、このリストの中にも、他の仏像の解説で半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している執筆者がいて、自身が、結跏趺坐、半跏趺坐の区別ができているのか、ちゃんと観察した上で判断しているのか疑問におもう執筆者がいることは事実です。しかし、たった数十人の研究者であっても半跏趺坐について曲がりなりにも理解して発表していることは、心強い味方です。特に、この中で、唯一、戦前の論文で、金森遵氏が、広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像を半跏趺坐と活字に残しましたが、その後に続く研究者が残念ながら現れませんでした。

さらに、このリストの中で、唯一、『日本彫刻史基礎資料集成』の形状の解説で、清凉寺阿弥陀三尊像の両脇侍を田邉三郎助氏は“半跏趺坐”と記述しています。ところが、『基礎資料集成』には、半跏趺坐像を結跏趺坐と記述している形状解説が今までに8件あります。

  1. 真光寺聖観音菩薩坐像
    水野敬三郎「12,聖觀音菩薩像 滋賀 眞光寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1』 1966年6月1日 中央公論美術出版 80p~81p
  2. 常禅寺不動明王坐像
    井上正「附録6,不動明王像 福井 常禪寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇8』 1971年2月10日 中央公論美術出版 86p~87p
  3. 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像
    毛利久「3,五大虚空藏菩薩像 京都 神護寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 11p~18p
  4. 広隆寺講堂地蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「5,地藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 54p~55p
  5. 広隆寺講堂虚空蔵菩薩坐像
    西川杏太郎「6,虚空藏菩薩像 京都 廣隆寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇2』 1976年10月10日 中央公論美術出版 56p~60p
  6. 金剛峯寺孔雀明王坐像
    水野敬三郎「46,孔雀明王像 金剛峯寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第二巻』 2004年2月25日 中央公論美術出版 118p~121p
  7. 随心院金剛薩埵坐像
    西川杏太郎「118,金剛薩埵菩薩像 随心院」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 86p~87p
  8. 福光園寺吉祥天坐像
    副島弘道「129,吉祥天像、持国天像、多聞天像 福光園寺」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 194p~200p

これらの形状解説文の執筆者は、いずれも『基礎資料集成』の監修者です。『基礎資料集成』は仏像の名称や、解説文の書式について独自の基準を設けて、執筆者によって表現に差異がでないようにしており、調査報告書の見本となるべき客観性をもった内容の調査報告書のはずです。いったい監修者どうしで、相互チェックができなかったのでしょうか。何かものが言えない事情があったとしか思えません。これだけ指摘しましたので、当然、再調査するなどして、『基礎資料集成』の記述を訂正するなどして客観性を担保しなければなりません。否、その前に、“半跏趺坐”とはどういう坐法なのかについて、執筆者の中で、共通認識を作らないと、また、同様の事例がでてきます。今のまま放置していると、坐像の調査報告がでるたびに、眉に唾をつけなければならないことになります。

 最後に、アンデルセン童話の「はだかの王様」の話から、王様が透明の衣裳を着たことについて、家来はどう対処をしたのかをいくつか例示してみます。

  1. 王様の最側近の人物で、王様の言うことすべてイエスとしかいわない家来。当然、本人は、王様が「バカには見えない布地」の衣裳をを着ていると確信している。
  2. 王様の近くにいて、王様を直接見られる立場の家来。王様は何も着ていないのじゃないかと疑問を持ってはいても、それを口にだすことすらできない。
  3. 王様を直接みられない最下層の家来。上司から王様は「バカには見えない布地」の衣裳を着ていると言われ、何の疑いもなくそれを信じている。
  4. 子供が、王様を見て、“王様はハダカだ!”と叫ぶと、すぐ、その子供の口をふさごうとする家来。

仏教美術研究者の皆さん!あなたは4つの家来のどれにあてはまりますか? それとも私は純粋無垢の目をもった子供だと思っておられますか?

追:この一文についての、反論などのコメントを受付ます。その際、そのコメントの公開の可否について、末尾に銘記をお願いいたします。

2017年11月12日 (日)

塼仏(センブツ)の坐法

 先日、大津市歴史博物館での企画展『大津の都と白鳳寺院』を見に行きました。
大津周辺は、昔、湖西線の建設前の事前発掘に参加したことがあるので、なつかしさと、親近感があります。また、卒論で、崇福寺について調べたこともあり、この周辺の史跡、文化財の研究成果を注目していました。
 今回の展覧会は、その崇福寺出土の遺物が、多数出品されるのでは、という期待がありました。以前ブログに書いた、塔跡から発見された舎利容器などの遺物がすべて出品されるのを期待しましたが、原品は京博にあるそうで、複製があるだけでした。私としては、発掘品の中の無紋銀銭が、11枚しかないことを確認したかったのですが、残念です。常設展示にその当時の発掘状況の調書が展示されていましたが、以前書いた事件についてはふれていませんでした。

もうひとつ、見たかったのが、崇福寺出土の塼仏です。

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図録では、“左足を外にして趺坐する如来坐像”と記しています。また趺坐です。ということは、結跏趺坐ではない。と筆者は認識しているようです。

このような坐法の塼仏は他にもあります。小山廃寺(紀寺跡)の塼仏です。

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この塼仏は、右足先があると思われる部分に、衣の皺を表現しています。結跏趺坐とは、それぞれ一方の足先が他方の腿の上にある形です。右足先は左腿の上に乗っている形状でしょうか。もし乗っていると強弁するのなら、左膝の折り曲げた内側部分に、くぼみがあるはずはありません。すくなくとも、作者は、明確に結跏趺坐と理解して作ってはいないことが想像できます。作家自身もそれをあいまいにしたかったのでしょう。

もうひとつ山田寺出土の独尊大型塼仏です。

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石光寺の十二連坐塼仏もこれらに近い坐法です。

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それに対して、夏目廃寺出土の塼仏は明確に結跏趺坐を表しています。下記の塼仏は唐招提寺蔵ですが、夏目廃寺出土と判定されています。

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また、膝部分が完全に出土してはいませんが、同范とされているものに、二光寺廃寺の塼仏があります。

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この二つの塼仏は、衣の処理のしかたなど、法隆寺献納宝物にある押出仏の形式と同様式です。

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いままでの塼仏の坐法とは、その膝部分の形状がちょっと違う塼仏があります。結城廃寺出土のものです。

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膝部分を正面から見た形は、前記の塼仏は ∞ の形状をしていますが、結城廃寺塼仏は、中国の南北朝期の仏像のような角丸長方形になっています。結跏趺坐か半跏趺坐かはこの写真からでは判定できません。

塼仏の中の如来像は、倚像がおおく、坐像の例は、細部がはっきりしない小連坐塼仏を除いて上記の7例程度しかありません。
その少ない例で、まとめると、少なくとも、明らかな結跏趺坐と、結跏趺坐ではない二種類が存在することがわかります。

米田浩之「塼仏の分類に関する一考察」『東アジア瓦研究』3 2013年10月31日 では、分類基準で、図像属性分類の中に姿勢の項目を設けていますが、その分類表には、立・結跏趺坐・倚坐 の三種類しかありません。つまり、半跏趺坐の概念がないのです。

その他、歴代の研究者の塼仏に関する論文では、半跏趺坐、あるいは結跏趺坐ではないという記述はありませんでした。むしろ、積極的に結跏趺坐と記しているのです。

坐法に関して、これだけの違いがありながら、 これらを一律に結跏趺坐だというのは、あまりにも乱暴です。

また、結跏趺坐でない形状を何で “半跏趺坐” と呼ばないのでしょうか。

2017年11月 4日 (土)

趺坐?

 先週、九州・中国地方の展覧会のはしごをしてきました。
まずは、鹿児島県歴史資料センター黎明館、九州国立博物館、大分県立歴史博物館、島根県立古代出雲歴史博物館と、仏像を見てきましたが、それぞれ特徴ある切り口での展示でしたが、その中で、もっとも印象に残ったのは、出雲歴史博物館の『島根の仏像』展でした。

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今回の展覧会は、平安時代を中心とした、島根県の有名な仏像が、かなりの数出品されており、さらに、新出の長安寺像や、普段秘仏になっている清水寺像など、注目すべき仏像が展示されていました。なぜ、この展覧会が注目されていないのか不思議な位でした。

その中で、平安前期の如来坐像が3体そろいました。まずは、仏谷寺薬師如来坐像

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正面から見ると、半跏趺坐のように見えますが、左足裏が右膝の折り曲げた下のほうに彫られています。

万福寺(大寺薬師)薬師如来坐像

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禅定寺阿弥陀如来坐像

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いずれも9~10世紀の仏像ですが、3体とも結跏趺坐です。

今回の展覧会は、膝部分を俯瞰で見られるように、低い位置に展示されていたので、よく確認できました。

半跏趺坐の例もこの目で確認することができました。

まずは、長安寺菩薩坐像と十一面観音坐像です。

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それぞれ手にかかる着衣がない分、明確に判明できます。

萬福寺如来坐像3躯

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11世紀頃の作と思われますが、これも明確に半跏趺坐です。

金剛寺馬頭観音坐像

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坐像の馬頭観音像は、珍しいですが、おそらくは図像を参考にしたのかもしれません。

法王寺観音菩薩坐像懸仏

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レリーフですが、半跏趺坐です。

さて、これらの半跏趺坐像について、図録の解説はどういう記述をしているのでしょう。
仏谷寺薬師如来坐像のように、明らかに結跏趺坐像の場合は、ちゃんと、“結跏趺坐”と書いています。

ところが、前述の半跏趺坐像の解説は、すべて“趺坐”すると書いているのです。以前にも書きましたが、論文で、仏像の形状の記述で“趺坐”すると書いたら、そこは一番のツッコミ所です。

“趺坐するって、結跏趺坐、半跏趺坐のいったいどっち?” と。

解説の執筆者は、あきらかに、それらの像が結跏趺坐でないことは認識しているようですが、それを半跏趺坐と書けない何かの事情があって、あいまいな趺坐という言葉を使ったのは想像できます。

では、何故、半跏趺坐と書けないのでしょうか?半跏趺坐の定義を理解していないから?、あるいは、筆者の辞書の中に半跏趺坐という言葉がないからなのでしょうか?

ところが、この解説の執筆者は、以前、岡山の善根寺薬師如来坐像の調査報告で、この像を半跏趺坐と書いているのです。

つまり、この執筆者は半跏趺坐の概念を把握しているにもかかわらず、島根の仏像では、半跏趺坐と書けないのです。いったいどういうことでしょうか?

これは、単なる一研究者の単純なウッカリミスなのでしょうか。学界の中でものが言えないのでしょうか。それとも、先行研究者の見解を忖度しているのでしょうか。真実を追究すべき本来の学問としておかしいとおもいませんか?

2016年10月18日 (火)

福井県・高岡・富山の旅(1日目)

10月14日から16日まで、2泊3日の旅をしてきました。

まずは、敦賀で、車を借り、日本海沿いに北上、越前町にある北前船の館・右近家へ。
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北前船の船主であった10代目右近権左衛門は、明治時代、海運の近代化と同時に海上保険業に進出し、11代目右近権左衛門は、日本海上保険の社長をつとめ、昭和10年、この本宅の後山の中腹に西洋館を造りました。この西洋館の階段室にステンドグラスはありました。
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玄関横の窓も無模様のステンドグラスがありました。
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ここから、内陸へ車を進め、越前市へ。越前市武生公会堂記念館「正覚寺展」を見学。
この展覧会には、善光寺式阿弥陀如来立像が出陳されていました。この越前市という地には、善光寺式阿弥陀の作例が数多くあることがこの展覧会で知りました。
北村市朗「越前における善光寺三尊仏とその信仰(5)」『長野』156 1991.3 にその分布が記載されているとのことです。

北上して、鯖江市へ。鯖江市まなべの館「祭りと祈りの原風景」展へ。
仏像が7体ほど展示されていました。

そして、福井市へ、福井市立郷土歴史博物館「福井の仏像」展へ。
30数体の仏像が1部屋に展示されていました。その中で、注目は、味真野神社の聖観音坐像でした。

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平安後期 12世紀の仏像ですが、半跏趺坐です。カタログの執筆者は、解説で、ちゃんと”半跏趺坐”と書いています。大変勇気のある人か、学界の情勢に疎い研究者なのでしょう。
もうひとつ、大滝神宮堂の虚空蔵菩薩坐像も逆の意味で注目です。

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この仏像は、平安前期 9世紀の仏像であるにもかかわらず、しかも、虚空蔵菩薩像の図像にはない、“結跏趺坐”なのです。

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これは、どう解釈したらいいのでしょうか。珍しい例としてあげておきます。

車は、高速道路にはいり、北上して石川県に入り、片山津ICでおり、北前船の里資料館へ。この建物は明治9年、酒谷長兵衛が建てた住宅です。

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この橋立という地は、北前船関連の住宅が集住した町だそうです。古い町並みが残っていました。

海岸沿いに西へ、車を走らせると、吉崎御坊の跡にたどり着きます。

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北潟湖と、正面は鹿島の森という天然記念物、左方に吉崎御坊があった御山があります。いまは周囲が埋め立てられて、陸の上の丘になっていますが、当時は、潟に突き出た半島のような場所だったようです。要塞としての立地になっていました。

内陸にむけて走ると、旧三国町に「みくに龍翔館」が山の上に見えてきます。郷土資料館として建てた建物ですが、明治12年から大正3年にかけて建てられた龍翔小学校を再現した建物です。

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窓には、樹脂ガラスに色づけした疑似ステンドグラスが嵌められています。

あとは、福井駅にもどって車を返却するばかりでしたが、時間もあるので、丸岡へ寄り道。城の中には入らなくて、城の周りをぐるっとまわって、福井市に到着。

2016年3月20日 (日)

半跏趺坐再考(作品編)その14 福光園寺吉祥天坐像

 吉祥天は、佐和隆研『仏像図典』によると、功徳天ともよばれており、経軌では、菩提流支譯『不空羂索神變眞言経』第十一(大正蔵,20-282中)

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で、半跏趺坐と書いています。また、覚禅抄には、2種類ある坐像の吉祥天像は、半跏趺坐に描かれています。

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いままでの、日本における半跏趺坐の系譜をたどってみると、坐像で、半跏趺坐につくるのは、およそ10世紀後半頃までで、それ以後は、ほぼ坐像は結跏趺坐になってしまいます。これは、例外をのぞいて、平安後期以降の坐像は結跏趺坐といってもいいでしょう。
その例外ですが、例えば以前書きました、随心院の金剛薩埵像です。鎌倉時代快慶の作品ですが、この仏像は、金剛薩埵という特殊な像容のため、あきらかに図像を参照して、半跏趺坐にしているということがわかります。福光園寺像も、吉祥天像の図像をあきらかに参照して制作されていることがわかります。しかも、随心院とおなじ慶派の仏師です。慶派は、図像をかなり調べた上で、その時の流行に惑わされずに造像活動をしていることが見えてきます。

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それでは、福光園寺の吉祥天像は半跏趺坐なのでしょうか、出来るだけ近づいてよく観察してみました。左足の足裏はどう見ても確認出来ませんでした。しかも、結跏趺坐ならば、左足は、すくなくとも右太腿にのっていなければなりません。右太腿には、その痕跡も、衣の膨らみもありません。あきらかに 半跏趺坐 です。反論があるのなら、証拠を示して否定してください。(私は聞く耳をもっております。)

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福光園寺吉祥天について、解説されている論文を次にあげてみます。

△塩田義遜「福光園寺の吉祥天像と廃満願寺の十一面観音 」 『甲斐路』 2  1961年9月20日 山梨郷土研究会 34p~39p
▲「彫刻/木造吉祥天女坐像 付・二天立像 御坂町・福光園寺 」 『県指定山梨県の文化財 改訂第1集』 1980年3月31日 山梨県教育委員会 18p~18p
●鷲塚泰光「口絵解説/山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について 」 『佛教藝術』 149  1983年7月30日 毎日新聞社 116p~117p
△「3,中部地方 山梨県/吉祥天坐像及二天像 福光園寺 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 178p~179p
△守屋正彦「山梨県/211,吉祥天坐像及び二天像 福光園寺 」 『日本の仏像<中部>』仏像集成 2 1992年1月15日 学生社 161p~161p
▲丸山尚一「甲斐・伊豆/福光園寺【吉祥天】 」 『東日本 わが心の木彫仏』 1998年11月20日 東京新聞出版局 138p~139p
●鈴木麻里子「第3章 彫刻/49,木造吉祥天及二天像 福光園寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県 555p~557p
●副島弘道「129,吉祥天像、持国天像、多聞天像 福光園寺/銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版 194p~200p
△近藤暁子「作品解説/26 吉祥天及二天像 福光園寺(笛吹市) 」 『祈りのかたちー甲斐の信仰ー』山梨県立博物館開館一周年記念特別展 2006年10月14日 山梨県立博物館 144p~145p
△近藤暁子「資料解説/13 吉祥天及二天像 福光園寺(笛吹市) 」 『山梨の名宝』企画展・富士の国やまなし国文祭り記念事業 2013年10月19日 山梨県立博物館 122p~122p

坐法について記述してあるか無いかの分類をしてみると以下のようになります。

▲「趺坐する」
  『県指定山梨県の文化財 改訂第1集』
  丸山尚一『東日本 わが心の木彫仏』

●「結跏趺坐」
  鷲塚泰光『佛教藝術』 149
  鈴木麻里子『山梨県史 文化財編』
  副島弘道『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』

△「記載ナシ」
  塩田義遜『甲斐路』 2
  『日本仏像名宝辞典』
  守屋正彦『日本の仏像<中部>』仏像集成 2
  近藤暁子『祈りのかたちー甲斐の信仰ー』
  近藤暁子『山梨の名宝』

「趺坐する」という表現は、この坐し方が結跏趺坐に見えないと判断したのは正解ですが、それでは、この坐し方が”半跏趺坐”とは知らなかった(実際は、入門書に書いてあるのに知らないはずはない。)か、誰も”半跏趺坐”と言っていないので、まわりを見て、どちらでもとれるあいまいな表現で”趺坐する”と書いたのでしょう。こんなネタばれの表現は、読者を混乱させるだけです。
また、「記載ナシ」とは、普通一般的な結跏趺坐と判断したので、わざわざ記述することはないと判断したという言い訳でしょう。”半跏趺坐”という見立てならば、こんな特殊な坐し方は珍しいので、解説文にそのことを記述しなければ、当然解説文としての形にならないのは明白で、どちらも苦しい言い訳でしかありません。

 昨日(3月19日)山梨県笛吹市の福光園寺に行ってきました。福光園寺で主催の『第3回歴史シンポジウム 吉祥天信仰~祈りとかたち~』に出席するのと、併せてじっくりと吉祥天像の服装と坐法を観察できると予想したからでした。
シンポジウムは、まず基調講演で、「「吉祥天の寺」福光園寺の歴史」とい題で、主に吉祥悔過をおこなう場所としての寺院の歴史を大胆な予測で講演をしていました。ちょっといいすぎかも というところもあったのですが、講演者の室伏徹氏は昔、山梨でいっしょに発掘調査をした人物で、40年ぶりの再会でしたが、氏は小生を全く覚えていないようで、ちょっとがっかり。
つぎに海老澤るりは氏の「福光園寺における吉祥天の造像と信仰」という題で、吉祥天像の所依経典と、像容の特色についての講演でした。最後は、近藤暁子氏の「甲斐における慶派の造像活動」という題で、山梨所在の慶派の仏像についての説明とそれぞれの造像銘についての解説でした。
さて、その後討論の時間が設けられました。事前に質問用紙に記入を求められましたので、吉祥天像は結跏趺坐なのかを質問してみました。海老澤氏は講演中で、福光園寺吉祥天は、結跏趺坐 といっていたからです。氏曰く「片方の足が衣に隠れている可能性もあるので、半跏趺坐とはいえないのでは、もう一度精査してみます。」とのことでした。私は、「この席にいる鈴木麻里子氏は大善寺の薬師如来坐像を半跏趺坐と「山梨県史」で書かれているので、氏の見解を伺いたい」と発言しました。鈴木麻里子氏は「昔のことなので、覚えていません。上から俯瞰でみたこともないのでわかりません」ということでした。
ここで、私の発言は打ち切られましたが、いまの美術史学者の作品に対する向き合い方の、いい加減さが浮き彫りにされました。”知らない”、”もう一度調べてみます”は、いままで何も見てこなかったと白状しているのと同じです。ろくに調査もしないでどうして”結跏趺坐””半跏趺坐”といえるのでしょうか。もうこんな言い訳は聞きたくありませんし、みっともないとおもいませんか。過去の自身の言動に対してあまりにも無責任すぎます。何故、胸襟を開いてちゃんと主張しないのでしょうか。

いままで、このブログで10数回にわたって”半跏趺坐”についての、資料を提供してきましたが、いままでこの件について、なんの反論も、意見もありません。機会を見ては、知り合いの美術史学者に訴えてきましたが、反論することもなく、完全にスルーされてしまいました。それならば、今回はシンポジウムというこういう複数の聴衆のいる前で訴えた方が効率的だとおもい、意を決して発言しました。美術史学者全体の問題にならないのなら、ピンポイントで狙うしかありません。これから、モグラたたきのスタートです。

2015年8月25日 (火)

『半跏趺坐』再考(作品編)その13 大安寺釈迦如来(その1)

 このシリーズは、なんとなく尻切れトンボになってしまいました。また、再開するには、前後の脈絡がなくなってしまいましたが、いままでのような事実の羅列で、単なる資料の提供だけしていると、それから先が進んでいかないようです。
というよりも、”半跏趺坐”についてこれだけセンセーショナルな事実を提供しても、その事実の持つ重要性を認識してくれる読者がいないようですので、すこしは、この事実から考察できることも書いていこうとおもいます。
まだ、この事実から導き出せる結論がでませんが、もうすこし積み重ねればいくらかの結果がだせるかもしれません。とおもいつつ、書いていこうをおもいます。

○大安寺乾漆釈迦如来坐像
 この仏像は、現存していないのに、論文のテーマとして、しばしば取り上げられてきました。それは、史料がのこっていることと併せて、その造立年代の考察、さらに薬師寺金堂薬師如来坐像との比較によって、ある程度その像容が推測できるのではないかという、期待があったからなのでしょう。それが解明できれば、白鳳時代の基準作例としてその位置を確立できると信じて、彫刻史研究者はこのテーマに挑んでいったとおもわれます。
大安寺釈迦如来像の像容について書かれている史料の中で、まず『七大寺巡礼私記』をとりあげることにします。

『七大寺巡礼私記』大安寺の条

 一、大安寺
   金堂一宇、五間四面瓦葺、四面有歩廊、
  中尊丈六釋迦坐像 以右足敷下、左足置上、迎接引[印カ]也、

この”以右足敷下、左足置上、迎接印也” という一文について最初に解釈したのは、毛利久氏でした。

毛利久「大安寺安置仏像の復原」『日本史研究』3 1946.12.30(『日本佛像史研究』1980.3.31所収)

 ”即ち結跏の法は降魔坐であり、印相は迎接印というが、これは『諸尊図像』に見えているから、左手を膝の上に置き、右手を施無畏にあげたものであることが分明する。”

毛利氏は、この一文を、”結跏趺坐のうち降魔坐である”と解釈しました。それ以後、この解釈を受け継いだ論文は以下のとおりです。

田中嗣人「大安寺の造営と諸尊の造立」『佛教藝術』187 1989.11.30
片岡直樹「大安寺釈迦像の像容について」『新潟産業大学人文学部紀要』6 1997.3
三好直「『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』にみられる大安寺釈迦像について」『博物館学年報』34 2002.2.25

その他に、直接言及をしていませんが、結跏趺坐と解釈していると推測される論文があります。

大橋一章「川原寺の造仏と白鳳彫刻の上限について」『佛教藝術』128 1980.1.25

大橋一章氏は、この史料について直接的に言及していませんが、紀寺跡出土の塼仏を”結跏趺坐”と言い、初唐様式の作品として、さらに中国の貞観元年(627)銘をもつ方形三尊塼仏を取り上げ、”中尊は説法印を結んで右足を前に結跏趺坐し、”としています。大橋氏は、大安寺釈迦像も初唐様式を採り入れた仏像としていますので、当然、『巡礼私記』の一文は”結跏趺坐”という解釈であることは推測できます。

吉村怜「飛鳥白鳳彫刻史試論ー一時代一様式理論への疑問」『佛教藝術』227 1996.7.30

吉村怜氏は、”『七大寺巡禮私記』によると、右足を下に、左足を上に置く坐像で・・・”と言及し、”白鳳時代の幕開けを決定づけたのは、・・・百済大寺の乾漆丈六釈迦像であった。”としています。当然『巡礼私記』の一文を解釈した上で書かれているので、これが結跏趺坐のことだおもったのですが、その判断に不安がよぎり、”坐像”という言い方で逃げたのでしょうか。

その他、大安寺釈迦像について書かれている論文は、

いわゆる白鳳時代の造立である。
様式は、初唐様式を採り入れた。
後世にわたって、すぐれた仏像と認められていた。

という趣旨で、坐法について言及はしていませんでした。

足立康「大安寺金堂本尊について」『國華』564 1936.12(『日本彫刻史の研究』所収)
小林剛「大安寺の丈六釋迦如来像について」『美術研究』163 1951.11.30
田村吉永「大安寺の平城京移轉年代を丈六釋迦像について」『史迹と美術』252 1955.5.1
田中恵「大安寺釈迦像の周辺(その1)(その2)ー日本佛教彫刻における「宗教彫刻」と「信仰造形」について(その2)ー」『岩手大学教育学部研究年報』55-1,55-2 1995.10.29、1996.2.29
奥健夫「清凉寺釈迦如来像の受容について」『鹿島美術財団年報』別冊13 1996.11
中野聰「霊験仏としての大安寺釈迦如来像」『佛教藝術』249 2000.3.30
皿井舞「模刻の意味と機能ー大安寺釈迦如来像を中心にー」『京都大学文学部美学美術史学研究室 研究紀要』22 2001.3.31

はたして、”右足を下に敷き、左足を上に置く”とは、結跏趺坐のことを言っているのでしょうか?以下、いくつかの史料から、その用例を検討してみます。

「起信論疏筆削記」 宋子璿錄(大蔵経 第44巻)398P下

正脚等者。押一脚爲半加。於中以右押左爲降魔坐。
以左押右爲吉祥坐。若兩脚相押爲全加。

「一切經音義」 唐慧琳撰(大蔵経 第54巻)353P中

第五百七十七巻 能斷金剛分
跏趺
・・・
結跏趺坐略有二種一曰吉祥二曰降魔*凡坐皆先以右趾押
左股後以左趾押右股此即右押右手亦左居上名曰降魔
坐諸禪宗多傳此坐若依持明藏教瑜伽法門即傳吉祥爲
上降魔坐有時而用其吉祥坐先以左趾押右股後以右趾
押左股令二足掌仰於二股之上手亦右押左仰安跏趺之
上名爲吉祥坐

「起信論疏筆削記」では、半跏趺坐のうちで、吉祥坐と降魔坐に分類できること、両脚を押すことを全跏(結跏)としていますが、「一切經音義」では、右足、左足の組み方を記述した上で、左右の足のどちらかが上になるかで、吉祥坐と降魔坐をわけています。
いずれにしても、”結跏趺坐”を説明するには、両方の足の置き方をちゃんと記述していますし、省略して、”右足を下に敷き、左足を上に置く”といった説明はしていません。

実際の図像を、半跏趺坐と説明している史料があります。

「圖像抄」巻第八 忿怒 不動明王(『大正図像』3)P35上

護摩儀軌云。畫四臂不動尊。青肉色。二手
金剛拳。頭指小指各曲如鈎形。安口兩角
相如牙。右手持刀令竪。左持索。半跏右押
左坐盤石上。威熖光明遍身如火

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とあり、半跏趺坐とことわり、さらに右足が左足を押すと説明しています。

以前にも書きましたが、薬師寺金堂の薬師如来坐像について、
「圖像抄」巻第二 藥師如來(『大蔵図像』3)P6下

 世流布像有二様
一者揚右手垂左手。是東寺金堂幷南京藥師寺像也。但以左足押右〔月+坒〕坐像也
二者左手持藥壺。以右手作施無畏。或右手曲水指。或火空相捻

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とあり、薬壺をもった、半跏趺坐の図像を掲げていますし、実際の薬師寺金堂薬師如来坐像は”半跏趺坐”です。

このように、”半跏趺坐”という言葉はあまり人口に膾炙していないので、丁寧な説明をしたのだとおもいます。ですから、字義通り”右足を下に敷き、左足を上に置く”を形に表せば半跏趺坐になることは明らかでしょう。

毛利氏は『諸尊図像』の釈迦如来坐像の画像をみて、結跏趺坐と判断したのは、この図像の釈迦如来坐像が”結跏趺坐”のように見えたためだろうとおもいます。しかし、この図像は大安寺釈迦如来像を描いたものではなく、一般的な釈迦如来坐像を描いているにすぎないのを見誤ったためなのでしょう。
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 ”大安寺釋迦像 左手置膝上 右手揚施無畏
            天下以之為規様(カ)皆用此様矣”

と、手印についての一文です。

2015年8月16日 (日)

三都旅行(奈良編)『白鳳』展

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 奈良行きの目的は、ただ1箇所「奈良国立博物館」の『白鳳』展のみです。
全体からいえば、これだけの同時代の作品をそろえたのは、さすが国立だけはあるという印象でした。
ただ、「白鳳」といういまだ評価がさだまらない言葉を使ったからには、それなりの定義をしなければならないのでしょうが、
そこのところは、まだ、掘り下げ不足を感じざるをえません。
内藤栄氏は総論のなかで、「白鳳」について以下の説明をしています。

”平成十六年(二〇〇四)、東京・京都・奈良・九州の国立博物館四館で、展示室内及び出版物等における時代表記を日本史の教科書で用いられている表記に統一する方針が打ち出された。これによって、国立博物館においては白鳳時代は「飛鳥時代後期」もしくは「飛鳥時代(白鳳期)」などと表記されることになり、それは今日も続いている。しかし、明治時代以来、多くの研究者が飛鳥時代と奈良時代の間に一つの時代を設定しようとした理由は、そこに飛鳥や奈良とも違う独自の個性を持つ時代を見いだしていたからであろう。本展では白鳳が一つの時代精神を有し、固有の文化を作り上げたと考え、時代表記に「白鳳時代」と用いた。”

たしかに、いわゆる白鳳期は、どういう様式をもった時代なのかについての資料を提供したのは、この展覧会の主旨のように思えますが、いささか消化不良です。

具体的に2点、その問題点を述べることにします。
まず第1点は、坐法という視点です。今回出品された仏像で、衣でかくれて、結跏趺坐か半跏趺坐か判別できない作品をのぞいて、坐像の作例をピックアップすると以下のようになります。

        作品                  坐法       解説

15 独尊塼仏(崇福寺跡出土)         半跏趺坐?  解説:岩井→結跏趺坐
34 如来坐像(櫻本坊)             半跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
79 薬師如来坐像(見徳寺)          半跏趺坐   解説:岩田→記載ナシ
84 阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)      半跏趺坐   解説:岩田→記載ナシ
91 法隆寺金堂外陣旧壁画(六号壁)    結跏趺坐   解説:谷口→記載ナシ
93 大型多尊塼仏(二光寺廃寺出土)    半跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
94 阿弥陀如来塼仏(唐招提寺)       結跏趺坐   解説:岩井→記載ナシ
97 押出阿弥陀五尊像(法隆寺献納宝物) 結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
98 厨子入押出阿弥陀五尊像(法隆寺)   結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
99 金銅板如来三尊像(慶州市月池出土) 結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
100 金銅板菩薩像(慶州市月池出土)   結跏趺坐   解説:岩井→結跏趺坐
124 塼仏片(小山廃寺(紀寺跡)出土)   半跏趺坐?  解説:岩井→結跏趺坐

中国南北朝時代の仏像の坐法について概観すると、この時代の坐像は、衣で隠れて坐法が判別できない作品をのぞいて、膝部分は箱形をし、片方の足裏を表現しただけの造形が主流です。つまり半跏趺坐が主流であり、両足裏を彫刻した仏像は、壁画を除いて管見のおよぶかぎりほとんど見当たりません。(中国の仏像について、現在のところ調査があまりいきとどいていませんが、北魏の仏像で、2例のみ結跏趺坐の仏像を確認しています。)
中国で結跏趺坐があらわれるのは、おそらく隋からで、唐になると、あきらかに、膝部分の造形方法がかわります。それに伴って結跏趺坐に劇的に変化していったのがわかります。つまり、唐は半跏趺坐の坐法が消滅してしまったのです。(もし、唐時代で半跏趺坐の仏像の作例があればご教授ねがいたい。)

このような、中国における様式の変化から、日本の白鳳時代の仏像を見てみると、櫻本坊、見徳寺、橘夫人念寺仏は、唐様式ではなく、それ以前の様式を踏襲しているということになります。
さらに、塼仏、絵画をみると、一部をのぞいて、唐様式を忠実に採り入れた結跏趺坐に表現しているのです。
これについて、岩井共二氏は(コラム「押出仏と塼仏」P184)

”押出仏・塼仏は、飛鳥時代から作られているが、白鳳時代の早い段階から初唐様式を反映した作例が見られる。押出仏も塼仏も原型を使って制作されるものなので、新様式の受容・習得が容易であることが理由の一つであろう。これに対し、白鳳金銅仏や木彫仏では、中国における隋時代以前の6世紀後半の様式を基調にする作例が多い。これは前時代からの工人や伝統的技術が存在し、保守的な傾向が強いためと考えられる。”

と説明しています。さらに、岩井共二氏は結論として(各論「中国彫刻と白鳳仏」P205)

”「白鳳」という時代は、飛鳥時代から奈良時代への過渡期の時代として位置づけられる。そのため、我々は飛鳥=〔古拙〕と天平=〔古典〕の間を一本の線で繫いで、その一直線上に個々の白鳳仏を並べて様式展開を考えようとしがちであった。しかし日本の様式展開は中国のそれと完全にパラレルな関係にあるわけではない。「古拙な造形は古く、写実的な造形は新しい」というような単純な様式展開ではなかったのが、白鳳時代ではないだろうか。白鳳時代の日本には、中国の北斉・隋・唐、高句麗・百済・新羅の六世紀~七世紀までの新旧様々なスタイルがすでに伝えられている。それらが併存していても不思議ではない。”

坐法について注目すれば、上記のような結論の有効な材料を提供できたのに、その発想がなかったのは残念です。

第2点は、彫刻の白鳳時代を語るには避けてとおれない薬師寺論争についてです。
このカタログでは、薬師寺金堂薬師三尊像の製作年代について、資料の提供という立場に立っているようですが、その資料の提供に問題がありました。
薬師寺論争で、しばしばとりあげられる大安寺釈迦如来坐像について、岩井共二氏は、以下のように言及しています。(コラム「押出仏と塼仏」P184)

”この様式の差異は、塑像・乾漆像と金銅仏の間にもあてはまるようである。『七大寺日記』などで薬師寺金堂薬師三尊像より優れていると評された大安寺の乾漆釈迦像は、天智天皇による造立と伝えるが、現存していない。記録によれば左脚を上にして結跏趺坐する姿であったといい、白鳳時代の寺院出土の塼仏や、當麻寺金堂本尊の塑造弥勒仏坐像などと共通する。同時期の塼仏に表される写実的表現からみて、大安寺像は、遣唐使がもたらした初唐様式を反映した先進的な造形であったと考えられている。そうであれば、白鳳金銅仏にしばしば見られる童形仏とはかなり違った雰囲気の、偉丈夫相の仏像だったということになるだろう。”

『七大寺巡礼私記』には大安寺像を以下のように書いています。

一、大安寺
  金堂一宇、五間四面瓦葺、 四面有歩廊、
中尊丈六釋迦坐像以右足敷下、左足置上、迎接引也、

この右足を下に敷き、左足を上に置く という表現は、結跏趺坐をあらわすものではありません。結跏趺坐ならば、このような表現をするでしょうか。もう片方の足はどのようにしているのでしょうか。これは、あきらかに”半跏趺坐”であることを表現しているのです。古文書で、そのように表現している史料があります。

『圖像抄』(大正蔵圖像三)巻第二 佛頂尊 の頁で、

藥師如來
 世流布像有二樣
一者揚右手垂左手。是東寺金堂幷南京藥師寺像也。但以左足押右(月+坒)坐也
二者左手持藥壺。以右手作施無畏。或右手曲水指。或火空相捻

左足で右股を押す とは、半跏趺坐のことを表現しているのです。図像には説明通り半跏趺坐の絵が描かれています。

春秋堂日録 『半跏趺坐』再考(作品編)その1(2012年7月20日) http://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-ee0e.html
でもすでに発表していますが、薬師寺金堂薬師如来坐像は”半跏趺坐”なのです。

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大安寺像は、遣唐使がもたらした初唐様式の先進的な造形であったならば、なぜ塼仏のように結跏趺坐ではなく半跏趺坐なのでしょうか。
大安寺像は、薬師寺像と形状は、ほぼ同じであったということでしょう。その上で薬師寺像よりすぐれていたと大江親通は判定したということなのでしょう。
ついでに言うと、當麻寺金堂弥勒仏坐像も半跏趺坐です。

白鳳時代の様式を語るにあたって、基本的な認識が共有できなければ、どんな画期的な論を展開しても砂上の楼閣でしかありません。
だいたい、”半跏趺坐”と”結跏趺坐”の違いについて、彫刻史研究者と称する人は、作品をみて判別できないのでしょうか。
それとも坐法などというのは、彫刻の様式にたいして問題となるものではないとでもいうのでしょうか。
それにもまして、美術史学徒が、学問の基本中の基本である作品の観察もろくにできないのでしょうか。

春秋堂日録で、薬師寺金堂薬師如来坐像は半跏趺坐である、と発表してからすでに3年が過ぎています。その間、某美術全集では、堂々と薬師寺像は結跏趺坐だといっています。また、某財閥系美術館館長は、新書で同様のことを書いています。
美術史研究者は、きっと絶海の孤島で、執筆しているのでしょう。それとも、ネットなどというくだらないことしか書いていないメディアなんて読むに値しないとおもっているのでしょう。
いままで、半跏趺坐について書いてきましたが、一編の反論もいただいていません。ネットサーフィンもできない学者しかいないのでしょうか。それとも無視が最良の反論だとおもっているのでしょうか。この学会の人は情報収集能力も分析力も発信力も持ち合わせていないようです。

2012年12月15日 (土)

『半跏趺坐』再考(作品編)その12

「結跏趺坐」か「半跏趺坐」か判定できない仏像(二)

止利様の仏像の場合

48 法隆寺金堂釈迦三尊像
49 法隆寺金堂薬師如来坐像

▲町田甲一 「釋迦三尊像 金堂所在 止利作 中尊 釋迦如來坐像 」『奈良六大寺大観 第2巻 法隆寺2』 1968年4月24日 岩波書店 (「法隆寺金堂 釋迦三尊像について 」 『上代彫刻史の研究』 1977年5月10日 吉川弘文館)

‘一 中尊 釋迦如來坐像
 中尊の釋迦如來像は、檜造りの二重宣字形須彌座上に、法衣の裙を全面に大きく垂下して、結跏趺坐している。' P11

▲水野敬三郎「釈迦三尊と止利仏師」『奈良の寺』3 金堂釈迦三尊 1974年3月8日
‘釈迦三尊像(『日本彫刻史研究』 1996年1月20日 中央公論美術出版 )

  中尊は・・・螺髪をつけ、白毫相をあらわし、左手は第二・第三指を伸ばし、右手は全指を伸ばして掌を前に向け、結跏趺坐する。'

▲西川新次「飛鳥時代の彫刻/2,代表的遺品/Ⅰ,法隆寺金堂釈迦三尊像 」 『文化財講座 日本の美術 5 彫刻(飛鳥・奈良)』 1978年9月15日 第一法規出版 51p~60p

‘Ⅰ 法隆寺金堂釈迦三尊像 品質・構造・形式
 さて中尊像は、両脇侍像をも包摂する大きな蓮弁形の光背を背にし、左手与願、右手施無畏のいわゆる通仏の印を結び、通肩の衣をつけ、二重の宣字座に、大きく裳をひろげて結跏趺坐している。' P52

▲大西修也「三、創建法隆寺の美術 釈迦三尊像」『日本の古寺美術』③ 法隆寺Ⅲ 1987年1月31日 保育社

'仏壇中央の中ノ間に安置されている釈迦三尊像は、大きな挙身光を背に結跏趺坐する如来像を中尊とし、その左右に菩薩形の脇侍をしたがえたいわゆる一光三尊形式の仏である。' P52

▲川瀬由照「第一章/金銅釈迦三尊像と薬師像 」 『法隆寺美術 論争の視点』 1998年8月5日 グラフ社

‘釈迦三尊像
 中尊は右手は施無畏印、左手は与願印を結び、大衣を通肩にまとい、前面に懸裳を広げた宣字形の台座上に結跏趺坐している。' P80
‘薬師像
 薬師像は、右手は施無畏印、左手は与願印を結び、大衣を通肩にまとい、宣字形の台座の前面に懸裳を広げて結跏趺坐する。’ P80

△村田靖子「第Ⅷ章 日本/○金銅釈迦如来坐像 奈良・法隆寺金堂」『仏像の系譜ーガンダーラから日本までー』1995年5月19日 大日本絵画

‘半跏趺坐する右足を見せ・・・’ P256

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50 東京国立博物館仏形坐像(法隆寺献納宝物145号)

▲法隆寺宝物室「3,仏形坐像(法145) 」 『金銅仏 1』法隆寺献納宝物特別調査概報 Ⅴ 1985年3月31日 東京国立博物館

‘形状 右足を上にして結跏趺坐する。右足裏半ばより先を大衣の縁から出すが、大衣に隠れた踵のふくらみも示す。’ P22

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51 東京国立博物館仏形坐像(法隆寺献納宝物146号)

▲法隆寺宝物室「4,仏形坐像(法146) 」 『金銅仏 2』法隆寺献納宝物特別調査概報 Ⅵ 1986年3月20日 東京国立博物館

‘形状 右足を上にして蓮華座上に結跏趺坐する。’ P3

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52 薬師寺(石川県鳳珠郡能登町)如来及び両脇侍像

▲北春千代「石川県/116,如来及び両脇侍像 薬師寺 」 『日本の仏像<中部>』仏像集成 2 1992年1月15日 学生社

‘中尊は、衲衣を通肩にまとい、左手に宝珠をつまみ、右手は膝上に伏せ、脚付方形台上に宣字座を据えた古式の台座の上に結跏趺坐する。’ P94

石川県立歴史博物館にてレプリカを実見。

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53 法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)

54 法輪寺薬師如来坐像

▲岡直己「法輪寺薬師如来坐像考 」 『美術史』 1-4(4)  1951年9月30日 美術史學會

‘結跏趺坐してゐる兩足を蔽ふて前に垂らしてゐる裳は短く、臺座まで懸ってゐない。’ P32~P33

△「修理解説書/74,木造薬師如来坐像 奈良・法輪寺 」 『日本美術院彫刻等修理記録 Ⅱ(解説)』奈良国立文化財研究所史料 第10冊 1976年3月31日 奈良国立文化財研究所
‘(現状) 坐像。螺髪、木眼。右手屈臂上掌左手屈臂、瑠璃壺ヲ持チ、右足ヲ以テ左脛ヲ押フ。’ P152

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片足が衣で隠れて判定できないのもあり、また、膝の形状が抽象化されており、仏師の造形方針からみると、“半跏趺坐”の意識で作られているように見えるが、判定がむずかしい。

止利様の仏像については、中国との作例についての考察もしなければならないので、改めて記述することとします。

とりあえずは、両足裏を見せる表現をしていないので、上記の仏像は明確に結跏趺坐と断定できる作例ではないようです。

2012年12月 9日 (日)

『半跏趺坐』再考(作品編)その11

実査・写真で「半跏趺坐」と判明する仏像(二)

42 伏見寺銅造阿弥陀如来坐像
●北春千代「石川県/99,阿弥陀如来坐像 伏見寺 」 『日本の仏像<中部>』仏像集成 2 1992年1月15日 学生社

‘衲衣を偏袒右肩に着し、胸前で下品中生の説法印を結び、右足を外にして結跏趺坐する。’ P82

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先日、金沢に行った折、上から俯瞰で実見。

43 和具観音堂銅造如来坐像
●毛利伊知郎「図版・解説/53,如来坐像 志摩郡・和具観音堂 」 『三重の美術風土を探るー古代・中世の宗教と造型ー』 1986年10月12日 三重県立美術館

‘像容を見ると、左手を膝上に置き、掌を上にした一種の与願印をとり、左脚を外にして結跏趺坐している。’

●岩佐光晴「作品解説/201,如来坐像 三重・和具観音堂 」 『特別展図録 金銅仏ー中国・朝鮮・日本ー』 1988年3月31日 東京国立博物館

‘正に重厚という感じの如来像で、結跏する膝は極めて厚く、しかも裳先を出さずに切り込んでおり、体奧・面奧もこれに応じた厚みと量感を示している。’ P301

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44 勝常寺薬師如来坐像
○山岸公基「第二章 解説 第三節 勝常寺の仏像 1,基本的データ/Ⅰ,薬師三尊像 」 『湯川村史 第一巻 勝常寺と村の文化財』 1985年3月30日 湯川村

‘形状 薬師如来像 本体 ・・・左足を上にして趺坐する(二)。’P89
‘注二 左脛と腹との間に右足首が表現されておらず、結跏と断じ難い。’P169

●井上正「古密教彫像巡歴 27/福島・勝常寺薬師三尊像(その一) 」 『日本美術工芸』 606  1989年3月1日 日本美術工芸社

‘左足を前にして結跏趺坐し、左足は足先の部分のみ衣でつつむ。’ P40

●若林繁「4,各時代の仏像 1 平安時代 (1)会津/(1)勝常寺薬師如来及び両脇侍立像 」 『福島の仏像ー福島県仏像図説ー』 1997年6月30日 福島県立博物館

‘左足を上にして結跏趺坐するが、左足の先に衣の一部が巻き付いている。’ P73

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福島県立博物館の常設展に、レプリカがあり、膝前の形状から、右足が左手の袖に隠れているが、その膨らみがないところを見ると、半跏趺坐と確認できる。

45 勝尾寺薬師如来坐像
●田中義恭「勝尾寺薬師三尊像 」 『MUSEUM』 247 特集・平安彫刻(2) 1971年10月1日 東京国立博物館

‘次にその表現についてみると、中尊像は大衣を着け、左手に薬壺(現状のものは(後補))をのせて結跏趺坐する普通のかたちの薬師如来像である。’ P31

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46 大善寺薬師如来坐像
○鈴木麻里子「第3章 彫刻/3,木造薬師如来及両脇侍像 大善寺 」 『山梨県史 文化財編』 1999年3月23日 山梨県

‘左手は膝上で掌を上にして五指を伸ばして持物(亡失)を捧げ、右手は膝上で掌を伏せ五指を伸ばす。右足を上にし半跏趺坐する。’ P483

●菱沼沙織「作品解説/3 薬師如来及び両脇侍像 山梨・大善寺 」 『関東の仏像』 2012年3月25日 大正大学出版会

‘衲衣の折り返し部を左肩の上部だけにあらわす。他には例の少ない着方をして、右足を外にして結跏趺坐する。’ P125

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47 随心院金剛薩埵坐像
●「解説 彫刻/30,木造金剛薩埵坐像 随心院 京都府京都市東山区山階小野御霊町 」 『昭和40年度指定文化財修理報告書 美術工芸品篇』 1968年2月29日 文化財保護委員会

‘形状 右足を上にして結跏趺坐する。’ P39

●西川杏太郎「118,金剛薩埵菩薩像 随心院」 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第四巻』 2006年2月25日 中央公論美術出版

‘形状 右足を上にして結跏趺坐する。’ P86

●萩原哉「図版解説/55 金剛薩埵坐像 快慶作 京都・随心院蔵 」 『創建1200年 空海誕生の地 善通寺』 2006年3月31日 香川県歴史博物館

‘右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持って結跏趺坐する姿は、金剛界曼荼羅の図像にしたがうものである。’ P133

○山口隆介「随心院所蔵彫刻に関する調査報告/二 金剛薩埵菩薩像 」 『小野随心院所蔵の文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその展開 Vol.Ⅲー随心院調査報告・国際研究集会報告・笠置寺調査報告』平成19年度科学研究費補助金 基盤研究(B)17320039研究報告書 2008年3月19日 荒木浩

‘右足を外にして半跏趺坐する。’ P288

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佐和隆研『仏像図典』の「金剛薩埵」の項目によると、金剛界理趣会の像容として、以下の史料を揚げています。

「大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋」卷上 (大正蔵19)
‘金剛薩埵菩薩。背月輪戴五佛冠。右手持金剛杵。左手持鈴。半跏趺坐。’P610下

また、
「金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌」(大正蔵20)
‘則結金剛薩埵跏謂以右脚押左。’P536下

これによれば、金剛薩埵は、“半跏趺坐”と書かれており、快慶はこれにのっとって忠実に再現したと思われます。

しかし、金剛薩埵像の他の作例を調べてみると

結跏趺坐像・・・東寺講堂像(五菩薩像の内)、根来寺像、円教寺像
半跏趺坐像・・・金剛峯寺旧金堂像(焼失)

東寺像、金剛峯寺像のように、ほぼ同時代でも、造形形式に違いがあるのはどういうことなのか、この辺のところは、参照儀軌の典拠を改めて検証する必要がありそうです。

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東寺伝真言院曼荼羅 金剛界理趣会 金剛薩埵

2012年12月 8日 (土)

『半跏趺坐』再考(作品編)その10

明らかに「結跏趺坐」と判明する仏像(三)

35 法隆寺講堂薬師三尊像(990)
○「修理解説書/6,木造薬師如来及両脇侍坐像(講堂安置) 奈良・法隆寺 」 『日本美術院彫刻等修理記録 Ⅳ(解説)』奈良国立文化財研究所史料 第13冊 1978年3月31日 奈良国立文化財研究所

‘(現状)坐像、漆箔、螺髪、木眼、彩色、木製白毫ツキ。右手屈臂、上掌、左手ヲ膝上ニ安シ、瑠璃壺ヲ持チ、結跏趺坐、右足を以テ左(月+坒)ヲ押ス。’ P5

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36 善水寺薬師如来坐像(992)
○井上正「9,藥師如來像 滋賀 善水寺 」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1』 1966年6月1日 中央公論美術出版

‘形状 左足を前にして結跏趺坐する。’ P66

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37 興福寺薬師如来坐像(1013)
○水野敬三郎「11,藥師如來像 奈良 興福寺 」 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1』 1966年6月1日 中央公論美術出版

‘形状 右足を外にして結跏趺坐する。’ P77

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38 平等院阿弥陀如来坐像(1053)
○奥健夫「第一章 概要と沿革/一 概要/3 形状・品質構造 」 『平等院国宝木造阿弥陀如来坐像・国宝木造天蓋修理報告書<本文編>』 2008年3月31日 宗教法人平等院

‘【形状】 1 阿弥陀如来像 〔本躰〕 右足を上にして結跏趺坐する。’ P8

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「結跏趺坐」の解説記述がないが、写真等で「結跏趺坐」と判明する仏像


39 永青文庫石造如来形坐像

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40 屋島寺千手観音坐像

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41 双林寺薬師如来坐像

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