2021年5月30日 (日)

鎌倉彫刻資料集

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このところ、旅にも行けず、自宅時間が増えて、やることがたくさんあるのに、なかなか手がつけられなくて、無為な時間を過ごしてきましたが、やっと、一つまとめることができました。
『鎌倉彫刻資料集 造像銘記編(稿本)(1301年~1333年)です。なれないpdfファイルにも挑戦して、なんとか変換ができました。
プリントして、綴じれば、一応、本の体裁になります。

ダウンロード - e98e8ce58089e5bdabe588bbe8b387e69699e99b86e980a0e5838fe98a98e8a898e7b7a828e7a8bfe69cac291301e5b9b4efbd9e1333e5b9b4.pdf

 

2021年4月29日 (木)

旧石川組製糸西洋館ステンドグラス修復完了報告会

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 今日(25日)、最悪の想定通りの結果になりました。この報告会は、ステンドグラス修復実施者である(株)松本ステンドグラス製作所の松本一郎氏の報告会が主でした。
松本氏には、事前にこの修復についての疑問点を投げかけて、それに対して、丁寧な回答をいただいていたので、すべて、納得したわけではありませんが、松本氏の修復の具体的な方法は、よく承知できました。これは、当日その疑問をぶつけても、あまりにも複雑な事柄なので、その手間をはぶくためでした。
 さて、松本氏には答えられない発注者の意向は、当日でなければ聞くことができないので、手ぐすね引いて、質問の時間を今か今かと待っていると、冒頭、司会者が質問はなし。あとは個別にということで、ガッカリ。それで、会が終了した後、入間市博物館の発注者(館長さんだったか、副館長だったか不明)とおぼしき人に、質問を投げかけました。

自分:   この向かって左の2枚のパネルが何で入れ替わったのですか?これは、確かな証拠があって入れ替えたのですか?
発注者:  いや、証拠はありません。
自分:   では、これは修復のうえに現状変更までしたのですか?
発注者:  現状変更といえばそうですけど・・・
自分:   登録文化財の現状変更は、文化財保護法第六十四条に、“現状変更する場合は、三十日前までに文部科学省令で定めるところにより、文化庁長官にその旨届けなければならない。”と書いてあります。当然、文化庁に現状変更の届けをしたのですね。
発注者:  この建物は、建造物として、登録文化財に指定してあります。建物の現状変更は外観の四分の一までなら、変更が許されています。
自分:   このステンドグラスは、登録文化財ではないんですか?
発注者:  ステンドグラスは、登録文化財にはいっていません。
自分:   え!え!

自宅にもどって、もう一度文化財保護法を読み直してみると、登録文化財は、2004年の改正により、建造物だけではなく、美術工芸品も登録文化財に登録できるようになりました。

平成八年文部省令第二十九号 登録有形文化財に係る登録手続及び届出書等に関する規則
 第一条 文化財保護法第五十七条の文化財登録原簿には、次に掲げる事項を記載するものとする。
   六 登録有形文化財が建造物以外のものであるときは、その寸法、重量、材質その他の特徴

と、建造物以外でも登録できるのです。さらに問題なのは、朝日新聞文化財団から、助成金を受け取る際の、名称は
 “国登録・旧石川組製糸西洋館ステンドグラス(埼玉 入間市教育委員会)” として、2019年に選定した文化財保護活動への助成のリストに掲載されています。
https://www.asahizaidan.or.jp/grant/grant04_2019.html

そして、完了報告会のパンフレットには、【総事業費】 1,622,500円(うち助成金1,430,000円)と書かれています。
ということは、ステンドグラスも登録文化財であることは、申請者の入間市教育委員会が承知の上で申請書に記入したことになります。
さらに、文部省令第十四条には、法第六十四条第一項の規定による現状変更の届出は、次に掲げる事項を記載した書面をもって行うものとする。
  八 現状変更を必要とする理由
  九 現状変更の内容及び実施の方法
  十一 登録有形文化財が建造物以外のものである場合においては、現状変更のために所在の場所を変更するときは、変更後の所在の場所並びに現状変更の終了後復すべき所在の場所及びその時期

第十五条 前条の届出の書面には、次に掲げる書類、図面及び写真を青江なければならない。
  一 現状変更の設計仕様書及び設計図
  二 現状変更をしようとする箇所の写真及び見取図

発注者の言葉の端々から、つぎのことが推測できました。
まず、このステンドグラスは、建物に付随しているものだから、個別に登録するという発想がなかった。
しかし、助成金をうけとるには、登録文化財にしておけば、とおりやすいと考えた。ステンドグラスのパネルを入れ替えることは、現状変更にあたるという発想もなかった。なぜなら、登録文化財(建造物)は外観の四分の一まで、内装は現状変更にはあたらないことから、ステンドグラスの変更も、内装物だし、まして、外観の変更でもない、と考えたのでしょう。だから、言葉をにごしていますが、文化庁にコンタクトをとったという言動の形跡がありません。
建物に付随している内部の窓は、不動産ではなく、動産です。これは登録文化財の想定外で盲点だったのでしょう。しかし、2004年の改正で、建造物以外にも登録できるようになったので、これを有効に使えば、その矛盾は解消できたはずです。それをしなくて、あいまいにしたことが問題だったのです。
もう一度いいますが、助成金申請の名称には、“国登録文化財旧石川組西洋館ステンドグラス” と発注者自ら書いていたはずです。
だったら、速やかにステンドグラスを登録文化財に申請し、文化庁に現状変更の届出をすべきです。そうしないと法律違反の状態が続くことになります。

もうひとつ
自分:   この右端の花は”菊”ですか? あなた菊に見えますか?
発注者:   このステンドグラスは“四君子”を表しています。
自分:   だから、あなたは、これを菊だとおもいますか?
発注者:  ・・・・・・・・
自分:   菊はこんな花びらをつけるのですか?菊は赤い実をつけるの?この葉は菊の葉ですか?
自分:   大体、四君子というけれど、単に他の3つの花を参照しただけでしょ。どこが四君子なのですか?
発注者:   T先生(某有名大御所ステンドグラス研究家・今回の修復のアドバイザー)がそうおっしゃっていたので・・・・

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注: 四君子 について解説

望月大漢和辞典によると
>〔四君子〕唐畫で氣品を君子に見立てた四つの植物。蘭・菊・梅・竹

となっています。
さらに
夏井高人「四君子考」『明治大学教養論集』526 2017年9月30日 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/19131/1/kyouyoronshu_526_5.pdf
この中で、東洋画の画題としての「四君子」という見出しで、「蘭、竹、梅、菊」の4種がどのような過程で「四君子」と呼ばれるようになったのか論じています。
そのまとめには
>“日本国における「四君子」の用例の典拠またはその起源は、必ずしも明確ではない。日本国には遅くとも安永年間頃までには画題として「蘭、竹、梅、菊」を重視する考え方が導入されたと推定される。しかし、それを「四君子」と総称する語の用法は、明治以降に確立された可能性が高い。

さらにネットで検索していると、四君子には根拠のある順序が存在するか というサイトを見つけました。 http://www9.plala.or.jp/majan/his47.html
それによると、麻雀牌に入っている花牌を見ると、「春夏秋冬」との対応が「蘭竹菊梅」の順になっているのだそうです。ところが、台湾では昔から”梅蘭菊竹”の順で呼称されているとのこと。先述の大漢和の用例で、『集雅譜』では”蘭菊梅竹四譜”とあり、『竹堂四君子畫譜』には”文房清供 獨取梅竹蘭菊四君者無也とある。
結論
>そこでつらつら考えるに(^ー^;昔の中国では梅蘭竹菊という4種の植物が重要なのであって、”春夏秋冬という季節を代表する植物”というわけではなかったと想われ、そこで好みによってさまざまな順番で呼称さていたが、語呂のよさで梅蘭竹菊が主流となった。やがて麻雀の花牌としてナンバリングが必要となったとき、もっとも人口に膾炙さていた”梅蘭竹菊”が採用された、と推測する次第。

これでおわかりになったでしょう。なぜ左の2枚の”蘭・梅”が左右入れ替わったのか、右端の花が”菊”でなければならなかったのか。このステンドグラスの画題はどうしても「四君子」にしたかったのです。だから、季節の移り変わりの順番にしたかったのです。しかし左半分の2枚を左右入れ替えても順番は 冬(梅)→春(蘭)→夏(竹)→秋(菊)となってしまいます。一応季節の移り変わりと合致します。しかし、どうして大方の日本人が発想する春夏秋冬として春(蘭)→夏(竹)→秋(菊)→冬(梅)にしなかったのでしょうか?そこまで、大胆にやる度胸がなかったのかもしれません。というよりも、四君子を表現するのに決まった順番などない、というのが史料を調査した結論です。
もし、四君子の花に明確な順番があるのなら、その根拠を示した上で、左右入れ替えるべきでしょう。それよりも、根拠なく平気でパネルを入れ替えるなんて考えられないことです。これは、製作者に対する冒涜です。

この四君子を題材にしたステンドグラスは、国内に3例あると、例の修復アドバイザーの大御所はここが売りなんだと強調しています。
ひとつは、鹿児島の岩元邸、ふたつめは、鎌倉の松本烝治邸です。そして、3例目がこの旧石川組西洋館のステンドグラスだというのです。
これを強調して、アドバイスされたら、このステンドグラスは四君子を題材とした物だと信ずるか、普通の役人なら忖度するしかないのでしょう。以前書いたハダカの王様の家来になったのでしょう。ちゃんとした博物館員なら、その根拠を問いただすとか、これが本当に菊なのか、ご自分の目を信じればわかるはずです。そして、その博物館員が書いたこのステンドグラスの、修復前の説明と、修復後の説明、そして、報告会のチラシの文章を見てみると、題材に関する説明が徐々に変わっているのがわかります。およそ理屈にあわない大きなご意向にそった変遷のように見えます。

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左から 修復前の説明  修復後の説明  報告会の説明

もうひとつの現状変更について

今回の報告会で、松本氏から報告された事実は

1 パネルを建具にはめ込む方法は、框をはずして組み込む方法だった。しかも二重枘を使ったかなりがっしりした建具だった。
2 蘭とお茶の花と実(これは菊ではありません)のパネルのガラスは他の2枚のパネルと違って、いわゆる裏面を使っていた。
3 各パネルには、縦に通して真鍮のH型ケイムを2本補強のため使用していた。

これが、修復時に知り得た主な技法です。
1 これらの事実から、断言はできないまでも、かなり明白に言えることは、4枚のパネルとも、製作時以後、建具からはずしたとは思えないこと。
建具そのものを交換したのならば、補修痕が残らなくなりますが、その前提がなければ、このパネルは製作時から変更はなかったと考えられます。

2 とすると、なぜ、2枚のパネルが裏だったのか、という疑問です。
松本氏は2つの推測をしています。
>①恐らく竣工当初にステンドグラスを引き渡した先の大工さんが、間違えて入れたのだろう。更に作者も納品後確認に行かなかったのか。
> →建具には押縁はなく、ほぞで組み込まれていたため、大工の組み込みと推測しました。

>②竣工当初は全て表を向いていた。後に改修が行われ、裏表が反転された。
> →一部、ほぞのクサビが欠損しており、ネジ留めされている箇所がありました。一度外された履歴と推測しました。

ガラスの裏と表はどう違うのか、ということを説明すると、非常に専門的な話になってしまうのですが、ステンドグラス用の特にオパールセントグラスの表面の凸凹が多いか少ないかという違いです。
ガラス面を斜めからみて、やっと違いがわかる程度です。凸凹の多い面が、見せる面となります。
それについて、松本氏は
>今まで戦前のステンドグラスで、パネル内で表裏ちぐはぐというのは、ほとんど見かけたことがないため、やはり(当初・補修に関わらず)設置時のミスと判断すべきです。
ということで、今回の修復時に2枚のパネルを反転した。と説明しています。

松本氏の経験にもとづいた正義感は、わかりますが、ミスはミス、それも作品なのです。製作時に作者が確認しなかったとしても、それが、いまでもそのままならば、それが作者の作品なのです。作者の意向もわからないで、修復者の正義感をだされても、それは、修復者として越権行為になります。

松本氏の2枚のパネルの反転について、いままでの職人としての、経験と実績は、十分にリスペクトに値しますが、これは、技術的な実績と経験のみの判断です。しかし、これを実行するにはもっと違う観点からの考察が必要です。いままで裏表ちぐはぐなステンドグラスはなかった、といっていますが、このステンドグラスこそ裏表ちぐはぐの最初の例だったのかもしれません。これは、経験だけで判断することではありません。本来は、発注元の博物館に文化財行政の熟知した人材がいればよかったのですが。

見た目では、左側の2枚のパネルの左右入れ替えと、2枚のパネルの反転をしたことで、この4枚のパネルの題材の位置が変わってしたために、改修前と改修後では、その構図がまるで別作品のようになってしまったのです。美術史的に絵画を見るとき、その構図に注目します。それぞれの花・木のパネルの中での、位置が4枚全体のパネルにどうバランスとしてマッチしているかを見るのです。
その観点からみると、この修復がどの方向を向いてなされたのかが理解できません。修復前の構図を破壊しているのです。
原点にもどると、今回の工事は修復工事です。復原工事ではありません。まして復原工事ならば、たとえば、下図、竣工時の写真、竣工時に書かれた文章など、証拠となる製作時の史料があって、それにもとづいて変更を行わなければなりません。ですから、この変更は、不確定な理屈で、復原工事でもなく、単なる修復と合わせた現状変更工事になってしまったのです。

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ここで、本題にもどります。左側の左右パネル入れ替えと右端の花を菊と強弁した現状変更を、もし、文化庁に報告があがったら、その他の2枚の裏表反転とともに、文化庁はどういう判断をくだすのでしょうか。まあ、同じ役人同士ですから、法律を上手に解釈して、なあなあに済ませるのか、にぎりつぶすのは目に見えています。しかし、修復前の状態と修復後の状態の違いは、確実に事実として残ります。そして、博物館の人は、修理工事報告書を必ず出します、と約束してくれました。さらに、これは公開しますとも。報告書の内容についても、事実をありのままに書くことを断言しました。まあ、都合の悪いことは書かない。いろいろ修辞をつくしてごまかすのは、あらかじめ予想しておいていいかともいますが、修復によって現状が変更されたことは、厳然たる事実で、この報告書がでれば、また追求がはじまります。

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修復前

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修復後

なぜこんなしつこいことをいうのかというと、今までの文化財修復で、修復における及第点が非常に少ないのが気がかりなのです。たとえば、文化財を修復するときに、修復前の状態の詳細を調査するのは当然ですが、修復時にだれが、どの部分をどのように入れ替えたのか、どのように補作したのか、などなど、そのひとつひとつに客観的な作業状況が記述されている報告書でなければなりません。その補修の際、その補修方法について、選択しなければならないことがあるでしょう。その時どちらを選択したのかも報告書に記述しなければなりません。このように、修復は文化財を文字通り修理する作業と、その経過を詳細にかつ客観的に記述する修理工事報告書があって、はじめて、修復工事が完了するのです。そういったことを丁寧に行っている修復工事は数える件数しかありません。ステンドグラスという、文化財とまだ認知されていない分野については、他の文化財に較べてまだまだ経験不足が否めません。もっと習熟度をあげていかなければならないと思うからです。
今回の、当該ステンドグラス修復工事で報告書が公開された以後、おそらく2~30年後に修復の機会があったとき、この修理工事報告書と実物をみて、後世の修復者が何でこんな修復をやったのか理解に苦しむようではいけません。客観的な資料を提供することこそが、今、文化財保護を担当する人の最低限の勤めだとおもいます。数十年後を見据えた修復をしていただきたいとおもいます。文化財行政のさらなる習熟をせつに希望いたします。そうでないと、戦前のステンドグラスの地位向上になりません。


参考文献
・文化財保護法
・登録文化財に係る登録手続及び届出書等に関する規則
・朽津信明「〔報告〕日本における近世以前の修理・修復の歴史について」『保存科学』51 東京文化財研究所 平成21年3月31日
・夏井高人「四君子考」『明治大学教養論集』526 平成29年9月30日

リンク
・旧石川組製糸西洋館 2012年6月9日 https://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-008c.html
・旧石川組製糸西洋館(改修後) 2021年3月18日 https://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2021/03/post-815424.html

このブログに対して、反論・コメントを受け付けます。その際、公開か非公開かを明記してください。

2021年3月18日 (木)

旧石川組製糸西洋館(改修後)

 旧石川組製糸西洋館をはじめて訪れたのは、2012年6月でした。いままで見学会は行われていたようですが、2階に上がれる機会に見学を申し込みました。
その頃の西洋館は、入間市の所有になっていたとはいえ、まだ、改修もろくにされていない状態で、2階に上がるのにも人数制限をしていました。要は建物の強度上の問題があっったからでした。
その時、時間制限もあったりして、あわてて写真を撮っていたものですから、写真の設定が変わってしまったのに気がつかず、あとで、画像を再生すると、ずいぶんと失敗したり、肝心のステンドグラスがうまく写っていませんでした。

旧石川組製糸西洋館 https://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-008c.html

今回の訪問は、松本ステンドグラス製作所が、ステンドグラスの修復をしたことをSNSで見つけ、また、建物が修理されて公開がはじまったのを知り、出かけることとしました。
 建物の中に入るなり、さっそく2階の大広間に直行しました。以前見た時は、梅のモチーフのパネルの余白部分にヒビ割れがあって、パネルも少し孕んでいるようでした。

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[改修後]

修復後は、もちろん破損ガラスは入れ替えられていましたが、ガラスの種類の違いがわかるほど、新旧の差がはっきりとしていました。元のガラスと同じものを調達するのは大変困難であることは理解できます。それなりに近いガラスを探し出した努力は評価しますが、これが、現在の修復の限界かとおもいました。

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さらに、気がついたことは、4枚のパネルとも、横にそれぞれ2本ずつ、補強棒を入れたことです。以前のパネルには、補強棒は入れていませんでした。これは、パネルが室内にあって、保存状態がよかったことを考慮しても、自重によるゆがみがでてしまうのでいたしかたないのかもしれません。しかし、この縦長のパネルの補強は、横に補強棒を入れるよりも、縦に2本入れたほうが、補強棒によるゆがみの防止に役立つし、補強棒が目立たないのではないかとおもいました。一方、各パネルとも余白のガラスの面積が大きいため、そこの補強を考えると、横に補強棒を入れざるを得なかったのかもしれません。

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 自宅にもどって、以前に訪れた時の写真を見ると、2点その違いに気がつきました。

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[改修前]

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その1 修復前のパネルは、向かって左から、蘭、梅、竹、お茶の花と実 の配列になっていました。ところが、修復後は、向かって左から、梅、蘭、竹、お茶の花と実 になっていました。つまり、左の2枚のパネルが入れ替わっていたのです。
その2 左側の蘭と、右端のお茶の花と実のパネルが反転していたのです。
これは、一体どういうことでしょうか。修復したのですから、当然、何らかの根拠があって、現状を変更したはずです。説明板には、このパネルのモチーフは四君子を題材にしていると書かれています。四君子でいう 梅は冬、蘭は春、竹は夏、菊は秋 と中国絵画では見なされていて、このパネルでは、菊のかわりに当地のお茶の花と実を表現したと、されています。順番からいうと、冬春夏秋という順になります。四季の順番に合わせて、入れ替えたということなのでしょうか。それとも、この建物の創建当初の資料(写真など)があって、その当時の状態にもどしたというのなら納得できます。これは、その2の蘭とお茶の花と実のパネルの反転とも、関係することですが、現状を変更するには、それなりの根拠をもってすべきであって、あとで、説明できない変更はすべきではないとおもうのですが、しかも、これだけの現状変更をおこなったのであれば、修理工事報告書を作成し、その経緯を公開し、活字に残し、後世の修理時に役立てられるようにしなければなりません。この現状変更が正しかったとか、間違っていたかということは、問題ではないのです。現時点でどういう根拠で現状変更をしたのかを公開し、後世に伝えることが重要なのです。そうすれば、修復時に創作の余地を残さないことになるのです。それが、文化財の修理の基本理念であることを、しっかりと頭にいれてほしいのです。

4月25日に「ステンドグラス修復完了報告会」がおこなわれます。上記の疑問にすべてお答えしていただけるなら、申し込もうかなとおもっています。

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2021年2月14日 (日)

ルイス・C・ティファニーのステンドグラスから

 先日、伊豆城ヶ崎海岸にあるニューヨークランプ&ティファニーミュージアムへ行ってきました。ティファニーランプがおよそ60台、ステンドグラスパネルが11枚が展示されています。

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【ティファニー・ミュージアム入り口】

そのすべてにティファニー工房の刻印があります。その他にもランプやステンドグラスがありましたが、いわゆるティファニー風の作品のようです。日本国内では、島根県松江にルイス・C・ティファニー庭園美術館に数枚のステンドグラスがありましたが、美術館は平成19年(2007年)に閉鎖されてしまいました。その他には、北海道小樽の似鳥美術館の中にルイス・C・ティファニーステンドグラスギャラリーがあって、いくつかのステンドグラスがあるようです。
 今回、伊豆の美術館に展示されていたティファニー工房作と判明しているステンドグラスをすべてお見せいたします。そして、ティファニーのステンドグラス技法の一端でもお伝えできればとおもいます。

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【14オイスター・ベイの風景 朝日】
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【リップルグラス】
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【フラクチャーグラス】

 まず、カタログ番号「14オイスター・ベイの風景 朝日」から、このモチーフはほかにも「04オイスター・ベイの風景 夕陽」と「27オイスター・ベイの風景」があります。いずれも縦横の格子をいれた藤の花と湾の風景を表現しています。藤はティファニーが好んで表現する花のようです。これらのパネルでは、縦横の格子が窓の格子のように見え、また補強棒のようにも見えますが、藤の花が格子の前に現れているところなど、詳細に観察してみると、縦の線は暗黒の色ガラスを鉛線で挟んでいます。おそらく、補強棒は表からわからないように入れているとおもわれます。つまり、この格子は補強棒と思わせて実は違うという操作をしているようですが、一部には表からかなり太い補強棒をいれている部分もあります。じつにうまい技法を駆使しています。

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【04オイスター・ベイの風景 夕陽】

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【補強棒】 

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【27オイスター・ベイの風景】
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【リングモトルグラス】

14のパネルでは、リップルガラス(Ripple glass)やフラクチャーストリーマーガラス(Fracture-Streamer glass)がつかわれています。
27のパネルではリングモトルグラス(Ring mottle glass)が使われています。

藤でいえば、「02藤のある風景」と「08藤とスノーボール」があります。両者ともモットルグラス(Mottle glass)が使われています。

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【02藤のある風景】

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【モトルグラス】

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【08藤とスノーボール】
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【二重】

「20蓮とアイリス」は水辺に浮かぶ睡蓮とアイリスを描き、森の風景を表しています。森の木々にはリングモトルグラス(Ring mottle glass)を多用しています。
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【20蓮とアイリス】
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【リングモトルグラス】

「34滝つぼの風景」も滝の周りの緑の葉にリングモトルグラス(Ring mottle glass)がつかわれています。
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【34滝つぼの風景】
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【リングモトルグラス】

「38風景の窓」は縁をつけ、窓からの景色のようにみせていますが、大きな木のうしろに靄がかかって、遠くの木々や山がかすんでいます。これは、薄い白がはいったストリーキーグラス(Streaky glass)を木々や遠くの山の風景に重ねて、かすんだ風景を表現しています。
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【38風景の窓】
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【ストリーキーグラス 二重】
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【二重】

「43オレンジ色の花と百合」では、タチアオイに似たオレンジ色の花と百合の花を表していますが、背景には青や黄の色ガラスを配したうえで、草を表しています。
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【43オレンジ色の花と百合】
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【二重】


宗教画が2点あります。1点は「39戸を叩くキリスト」です。これは、顔、手は絵付けされていて、上部の木の葉にはフラクチャーグラス(Fracture glass)が使われています。
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【39戸を叩くキリスト】
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【フラクチャーグラス】


もうひとつ「41天使 キャロライン・スコットを偲んで」も顔と手足は絵付けし、衣装には一部ドレープリグラス(Drapry glass)が使われいて、衣の皺の立体感をだしています。
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【41キャロライン・スコットを偲んで】
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【ドレイプリーグラス】

このように、テファニーは、彼のイメージにあったステンドグラス製作のために様々な色板ガラスを製作しているのです。一例をあげれば、

  • オパールセントグラス(Opalescent glass)、数種類の色ガラスを混ぜた不透明な板ガラス。
  • ファブリルグラス(Favrile glass)、一種の光彩を放つ玉虫色のガラス。1894年に特許を取得した。
  • ストリーキーグラス(Streaky glass)、縞模様のあるガラス。
  • ドレープリグラス(Drapery glass)、ひだのある折れ重なった布のようなガラス。
  • ストリーマーグラス(Streamer glass)、糸のような細い模様が表面についたガラス。
  • フラクチャーグラス(Fracture glass)、表面に不規則な形の薄いガラスウエハーの模様が入ったガラス。
  • フラクチャー・ストリーマーグラス(Fracture-Streamer glass)、フラクチャーガラスとストリーマーガラスの両方の模様の入ったガラス。
  • モトルグラス(Mottle glass)、斑点のはいったガラス。
  • リングモトルグラス(Ring mottle glass)、環状斑点のはいったガラス。
  • リップルグラス(Ripple glass)、表面に波紋のあるガラス。
  • コンフェッティグラス(Confetti glass),ブルザイで発売しているガラス名。フラクテャーグラスと同じか。

この11枚のステンドグラスは、オイスター・ベイの風景のパネルで1.4m×1.5m程度のおおきさです。当然、補強棒を入れないとゆがみがでます。しかし、ティファニーはそれを実にうまく気づかれないように処理しています。これは、窓枠にはめ込んでもあくまでも絵画としてのステンドグラスという発想なのでしょう。
まだ詳細に1枚1枚パネルを見ていませんが、片面だけでは、どういうガラスの使い方をしているのかが、解明できませんが、ざっと見回してみると、ガラスを至るところで二重に重ねているのがわかります。また、銅箔を巻いてハンダ付けしているところも数多くみられます。非常に細かなピースをつなぎ合わせ、実に繊細な作業をこなして、奥行きのある絵画表現を実現しているとおもいます。

小川三知は、ほぼ同時代にアメリカに滞在していたので、このようなティファニーの作品を至る所で見たとおもわれます。三知の作品を見ると、宮越邸の丸窓で、ガラスを二重に重ねる技法を使いましたが、これは、明らかにティファニーの表現方法を取り入れています。また、アジサイ・モクレン・ハゼの障子はすべて銅箔を巻くという、これもティファニーの考案した技法を試しているのがわかります。しかし、小川三知は、日本画を学んでいますので、余白のない丸窓では、ティファニーに忠実であっても、格子で区切られたちいさな板をはめ込むという建具では、余白をとりいれるという方法を採用したのでしょう。しかも、ティファニーの「オイスター・ベイの風景」で使われている格子は、藤の花がからんでいるのを見ると、いわゆる窓からすこし離れたところに設置されているようにみえます。それにくらべて、アジサイ・モクレン・ハゼの障子は、木製建具の格子の外にそれらの花木が植わっているようにみえます。見学者にとっては、格子の障子はもともとすべてに透明のガラスがはまっていて、その障子の外に花木があるように錯覚してしまうのです。借景は、外の景色を内と外を隔てるパネルに取り込むことであり、これは、借景とは、全く逆の感覚を作り出しています。

三知のステンドグラスは、アメリカの新しい技術を積極的に取り入れていますが、ティファニーはその財力をつかって、数多くの種類の板ガラスをつくってそれを使用しています。三知は、ティファニーに較べると、採用する板ガラスは格段に少ない種類で製作しています。また、ガラスを二重にする技術は、鳩山邸の五重塔の組物で試してはみたものの、それ以降積極的には使わなかったようです。このように、三知は、技術をティファニーに学びながら、日本では、取捨選択をして独自の表現を模索していったのだろうとおもわれます。

2020年12月14日 (月)

宮越邸ステンドグラス異聞補遺

 もう少し、ハゼノキとケヤキの違いについて、調べた結果をご報告します。N君より、谷中の天王寺の前にハゼノキがあるよ とご教示いただきまして、いつも通勤の道ながら、改めてみてきました。ここのハゼノキは、まだ葉すべて落ちていなかったので、葉の形状がよくわかりました。たしかに、奇数羽状複葉で対生です。上野公園には、ケヤキが多く生えているので、葉の形状がまだ残っている木をさがしました。これも植物図鑑のとおり、単葉、不分裂葉、互生であることが確認できました。

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下はハゼノキの葉

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下はケヤキの葉

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 そういえば、今年の春、寛永寺根本中堂の隣の民家の塀ごしに、白い花が咲いていたのをおもいだしました。ひょっとして、ハクモクレンだったのではと思い、撮りためた画像をさがすと、たしかにこれは樹木図鑑にあるハクモクレンでした。現在は、葉がまだ残っているものの、花の芽はもう上を向いて固くむすんでいました。これから、葉が落ちて、暖かくなると、白い大きな花をさかせるのでしょう。

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ハクモクレンの今

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2020年12月12日 (土)

宮越邸ステンドグラス異聞

鑑賞記に書いたこと以外で、気になることが2,3点あったので、もう一度調べることにしました。まず、涼み座敷の間の窓に表現されていたアジサイ・モクレン・ハゼノキについてです。
この花木について、小川三知は、何の花木を表現しようとしていたのか、調べてみると、アジサイは、なんの疑問もなくアジサイですが、真ん中の花木を私がモクレンと断定したことについて、もう少し説明をします。

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田辺氏は、その著書になかで、「辛夷(コブシ)(別名ヤマアララギ)」と書いています。以前のブログの注で、“コブシは上向きや横向きに花を咲かせ、モクレンは上向のみ花を咲かせる”と書きました。樹木図鑑をみれば、コブシとモクレンの違いが書かれています。それには、コブシは花弁が6枚、開花と同時に葉が芽吹く。モクレンは花弁が9枚、開花時には葉はつかない。その特徴からステンドグラスをみれば、どちらかは明白なのですが、さらに決定的なのは、小川三知がこれを「木蓮」と宮越正治宛の手紙の中で書いていることです。

小川三知書簡(昭和3年2月6日)解読/田辺千代氏 中泊町博物館展示

 小生一昨年或る芝居好きの人の依頼で、其の洋館応接間窓に、錦絵の和藤内をステンドグラスにして用いたるを作り候らば、洋館とはいいながら、室内は寧に日本風八分に御座候。
是は最近の小生の苦心の作にて、御■■間写真を小包にて御届候らば、何卆御納迄候。恐れながら御感想を御聞かせ下され候。
右写真は、縦横ランマ共々役七尺従り六尺餘と覚え居り候。ランマの浄瑠璃文の和藤内虎に出逢ふ処だけ聴き書きして、朱に描付けたるを、勘亭流の先生に本式に書て貰へたのを焼付御座候。先日頂戴致し木蓮装飾室内写真二種、やがてアルス誌へ講座のさし画として送候。

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しかも、この書簡を解読したのは田辺千代氏本人です。その記憶がうすれたのか、書簡の文面をちゃんと理解していなかったのかはわかりませんが、決定的証拠です。この書簡のなかには、和藤内のステンドグラスについて書いている部分があります。これは、現在歌舞伎座の4階ロビーに展示されているものです。田辺氏によると、もと村井五郎氏の依頼によって小川三知が製作したものだそうです。第Ⅲ期歌舞伎座にも小川三知のステンドグラスがあったそうです。

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この中で、「アルス誌へ講座のさし画として送る」という文言がありますが、これは『アルス建築大講座』第5巻に小川三知の論文「モザイック及スティンドグラス」の中の3枚ある口絵のうち最初に掲載されている写真のことです。キャプションには、“青森縣内舘村・宮越正治氏邸の書斎の窓” とあります。

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次に、窓右側にある半分紅葉した木について、田辺氏は「欅」としていますが、どうもその葉の形状、葉の付き方を見ると、樹木図鑑で見るケヤキとは何か違うように見えたのです。

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調べてみると、どうも「ハゼノキ」らしいことがわかりました。それで、原物をみるべく、上野公園にあるケヤキ(名札がある)の落ち葉を拾ってきました。さらに、ハゼノキが旧古河庭園にあるというので、出かけてみました。もう葉はすべて落ちてしまっていましたが、そこの庭師さんの計らいで、落ち葉をゲットできました。庭師さんにハゼノキの葉について聞いてみると、ハゼノキの葉の付き方は”対生”という付き方で一本の枝の同じ場所から左右に葉を付ける形状で、ハゼノキの葉の付き方は”奇数羽状複葉”というんだそうです。ちなみに、ケヤキは単葉でハゼノキのような葉の付き方はしないということです。さらに細かくみると、ケヤキは、葉の周囲にギザギザがあるのが特徴です。ステンドグラスは、それほど詳細に表現できるものでもないことは理解できますが、葉の付き方、葉の形状は、ケヤキよりも、よりハゼノキに近いと見るべきだと思います。

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ハゼノキの葉(奇数羽状複葉)

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ケヤキの葉(単葉)

最後に浴室で表現されている、 “川柳にカワセミ” といわれるモチーフについてです。カワヤナギを樹木図鑑で調べてみると、カワヤナギは枝が垂れ下がらない柳のようです。枝が垂れ下がるのは一般的にみられる、“シダレヤナギ” です。両方とも、ヤナギ科ヤナギ属ですが、枝の生え方は全く違います。どうも、カワヤナギという言葉がどこかで、使われていたために、裏付けもなくそういう名付けをしたのでしょうか。

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 いちいち草木の名前にこだわることはない、という人もいますが、作者が何をモチーフに選んだのかは、大変重要なことです。もちろん、ステンドグラスという、微細な表現がむずかしい素材媒体では、多少の抽象化はあるかもしれません。しかし、周囲の状況で、作者の意図を忖度してしまうと本当の作者の思いが受け止められなくなってしまいます。もうすこし、エビデンスに基づいた解説が必要ではないでしょうか。

2020年11月14日 (土)

宮越邸ステンドグラス鑑賞記

 前日、五所川原に泊まり、朝一番の予約で、宮越邸に乗り込んだため、その時間の参加者は私ひとりだった。まず、涼み座敷の間の引き戸は予想と違わず、写真通りだった。

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しかし、坐って眺めると、以前から気になっていたことが頭をよぎった。それは、写真から感じた第一印象では、格子状の窓ガラスはすべて透明でそれを通してアジサイ・モクレン(注1)・ハゼノキ(注2)が、窓のすぐ外にあるように見えたのである。それほど、外部の庭木とアジサイ・モクレン・ハゼノキが同じ空間にあるかのようだった。いはゆる借景とは外の景色を、パネルに取り入れて、ひとつの絵に仕上げることだが、ここのステンドグラスの花木は、外の景色に同化してしまったのである。これは、借景という技法を超えた画期的な表現方法といえるだろう。こんな錯覚を覚えさせる技法とはいったい何だろうと考えざるを得なかった。

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まずその手法のひとつは、鉛線(ケイム)を使わず、銅箔によるハンダ付け方法を用いたことが大きな要素となっている。ケイムによる接合方法は、ケイムの線がなめらかな曲線を描き、またそのケイムの幅も一定にならざるを得ない。銅箔によるハンダ付けは、その線の太さをを微妙に変えることができ、さらにケイムよりもより細くガラスとガラスを接合できる。そのために、一般的なケイムを使ったステンドグラスに較べて、花・木の輪郭が、あまり目立たなく、単なる日本画で用いる輪郭線のようにしか見えないように工夫されている。また、銅箔によるハンダ付けをパネルに用いるには、強度的にパネルの大きさが影響してくる。これは格子の中の大きさおよそ19㎝×13㎝のひとつひとつににパネルを嵌め、パテを三角状につけることによって固定されている。パネル単体は、初心者が作るちょっとした小物程度の大きさである。そのため、ハンダ付けによる強度不足をあまり考慮しなくてすむ。内部から見ると、ハンダ付けの線が黒くしかみえないので、それも輪郭線を目立たせない要素かもしれない。外から見れば、三知のハンダ付けの技量の高さを見ることができ、じつに繊細な仕事をしているのがわかる。余白の透明ガラスは、おそらく色ガラスの厚さに合わせて、3mm厚のガラスを使っているかもしれない。当時は、透明ガラスは一般的には2mm厚のガラスを使うのが普通だが、ハンダに段差ができないような工夫かもしれない。

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 つぎに浴室の窓に目を向けよう。このパネルは、外部から中を見られないように、型ガラスを余白に用いている。その型も凹凸がなめらかな型模様をつかっているので、よく見ないと単なる白いガラスのようにみえてしまう。カギ型に二面になっていて、大きい面は引き違い戸でモチーフはシダレヤナギ(注3)にカワセミ、小さな面はアヤメではめ殺しとなっている。ヤナギは木の幹は、ケイムをつかって、その他の枝、葉は銅箔によるハンダ付けでおこなっている。カワセミとアヤメはケイムをもちいている。ケイムを用いたカワセミとアヤメは、涼み座敷の間のモクレンのような細い輪郭線が出ていないので、線の重さを感じざるを得ない。これは、涼み座敷の間と違って、パネル1枚の大きさが大きい為に強度を考慮したおもわれる。

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最後に、十三湖の風景を表現したとおもわれる円窓である。このパネルは、ガラスを二重に重ねる技法をいたるところにほどこしている。まず2本の松の幹部分は、輪郭はケイムを用い、松の木の皮模様を銅箔によるハンダ付けでおこない、内側は茶色のオパールセントグラスで、木の幹の色を表現しているが、外側は、白あるいは靑を基調としたオパールセントグラスを重ねている。それによって、松の木の幹の質感が多少明るくなっているようにみえる。また、水面は、空と同じ白と水色のオパールセントグラスを内側に施し、外側には透明に近いハンマードグラスを重ねて、水面の波立ちを表現している。また、水面も上下で、外側のガラスの型模様を変えている。さらに帆掛け船の帆は、内側は一枚の白で、外側は透明板を分割して配置し、縦の線を表している。水面の上の山々は、内側には茶系のオパールセントグラスを用いているが、外側は緑系の型模様のガラスをを濃淡をつけて重ねている。このように、この円窓のおよそ下半分、松の幹部分は、二重にガラスを重ねていることがわかる。そのためか、二本の四角形の補強棒は、内側に配置している。普通は室外面に補強棒を付けるものだが、外側は、ガラスを二重にしたため、段差ができて、補強棒が密着できなかった為だろうとおもわれる。しかし、それと同時に、外側の廊下側からでも、見られることを意識したものと思われる。しかし、廊下側からみる松の木の幹は白っぽく、背景の山もくすんだ緑にしか見えないので、表と裏では、ずいぶんと印象が変わってしまうのは、どう解釈したらいいのだろうか。もうひとつわからないのは、外側の松の木の幹の輪郭、松の木にかかる葉の一部に鉛のプレートで盛り上げていることである。これがどういう意図なのか、よくわからない。

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 これらの、3カ所のステンドグラスは、小川三知のステンドグラス技法を、余すことなく発揮した作品のようである。ケイムを全く用いないで、銅箔によるハンダ付けで、パネルをつくること、また、ガラスを二重に重ねることによって、新しい色や、表面のテクスチャーを生み出そうとしたこと、など今のステンドグラスでもなしえない技法をその卓越した技術力で行えたのは、三知の技量だけではない芸術的センスと創造力があったからこそであることを、このステンドグラス群は証明している。

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ついでではあるが、宮越邸の建物に嵌まっている、透明の窓ガラスについて見てみると、涼み座敷の間のステンドグラスの余白部分の透明ガラスは、三知が調達した、舶来のガラスのようである。日本では、やっと生産されたばかりのコルバーン法による板硝子とおもわれる。それは、平行に波打っていることからわかる。一方廊下の窓ガラスは、一部不規則なゆがみがあり、大正時代ということを考えれば、国産の機械吹き円筒法による板硝子とおもわれる。

注1: この木をコブシと表現している文章があるが、コブシは花の咲き方が上向きや横向きなど様々で、さらに花弁がモクレンと較べて細長い。ハクモクレンは、常に上向きに花が咲き、肉厚の花びらになることから、ハクモクレンとおもわれる。


注2: この木をケヤキと見る文章があるが、葉の形狀から、ハゼノキにより近い形狀をしている。ハゼノキは、一本の枝から左右に葉がでるが、ケヤキはそのような葉にはならない。


注3: これをカワヤナギと表現しているのが多いが、細い葉の形狀はカワヤナギに似ているが、カワヤナギは枝が垂れ下がらない。垂れ下がるのシダレヤナギである。

2020年4月20日 (月)

『日本彫刻史基礎資料集成』データベース

 1ヶ月ほど自宅で過ごしていましたので、やっと集中してパソコンに向き合うことが出来ました。『基礎資料集成』も2期目が完成し、これから鎌倉時代の残りが3期目として刊行される予定なのでしょうが、このまま1年1巻のペースだと、とても、鎌倉時代が終わってから、まとめようにも、自身の能力に確信がもてません。なので、2期目という途中なのですが、一応データのまとめをしてみました。
このデータベースは、日頃入力している「単行本及び単行本論文」のデータをもとにして、項目を追加したり、入力間違いの訂正、及び書式の統一をしたものです。
以下、このデータベースの構造について、すこし詳しく述べてみようとおもいます。それは、このデータベースに入力してあるデータが、各項目にどういう書式で書かれているかを知ることによって、“検索”、“並び替え”がどういう方法でできるかを知ってもらうためです。データベースは、入力してある内容をある程度把握していなければ、十分な使い方は出来ないことになります。


入力項目(見える部分)
【単行本論文NO】
 NCHO 00 000 0000 最初の“NCHO”は単行本のタイトルの最初の4文字をアルファベットで表現したもの。“日本”から始まるタイトルは数が多いので、独自につけたもの。つぎの“00”は"NCHO”が複数在る場合の番号。つぎの“000”は巻数。最後の“0000”は、その本の内容で、入力項目を順番に並び替えられるように、その本の項目の状況によって、適宜つけたもの。たとえば、NCHO-00-001ー0200 は 「平安時代 造像銘記篇 第1巻 2,薬師如来像 黒石寺」』となります。ちなみに、“00”は平安時代造像銘記篇、“01”は平安時代重要作品篇、“02”は鎌倉時代 造像銘記篇 となります。
【年号】
書式は“年号”、(西暦)、その後に、“?”、“頃”、“前後”、“以前”、“以後” という語を適宜つけています。又、天仁年中(1108-1110)という表記もします。この項目では、年号をわかりやすく表記するための項目です。後記するように、インデックス項目として、【西暦】項目があり、そこから“並び替え”ができるようになっています。
【見出】
作品 都道府県 所蔵者 の順です。“作品”はこの本の目次に書かれているのをそのまま表記しています。従って、平安時代篇では、本字(旧字体)をそのまま表記しています。たとえば「17,藥師如來及兩脇侍像 奈良 靈山寺」というように。
所蔵者は、インデクス項目に【地域分類】という項目があり、そこには所蔵者名を新字体で書いていますので、所蔵者名で抽出することはできます。
【品質・仕上・員数・姿勢】
「品質」は“木造”、“銅造”、“鉄造”などの材質。「仕上」は“漆箔”、“彩色”、“素地”、“鍍金”、“切金”などの表面の状態。「員数」は文字通り“○軀”、“一対”等。「姿勢」は“立像”、“坐像”、“跪坐像”、“片足垂下像”等と表記しました。これはこの本の最初の基準から“姿勢”の表記が“形状”項目でしか書かれていないため、いちいち写真を参照しなければならなかったことの手間を省くためです。
【作家】
仏師名の項目です。銘記等で書かれている肩書・住所などその人物にかかわる記述をすべて入力することにしました。たとえば「158,馬頭観音菩薩像 京都 浄瑠璃寺 南都巧匠善義房良賢,禅林房増全,増良房観慶」
書体は検索時の障害を除くため、新字体に統一しました。“採色”も“彩色”としました。“アン阿弥陀仏”だけの銘記の場合はその後に“(快慶)”と加えました。検索の便のためです。
【修理銘等】
修理銘を“西暦”年修理[修理仏師名]のように表記しました。修理仏師も肩書等の情報も表記しました。例えば「76,四天王像 兵庫 圓教寺 1556年修理[修補大仏師覚継法印],1732年修理[定朝法印廿一代家京四条堀川西入町大仏師法橋祐慶,前田修理政美]」、また、仏像が複数の場合、どの仏像に銘記があるか等銘記・納入品に関することで特記の用がある場合表記をしています。
【備考】
所蔵者が複数の場合、その所在の表記。旧蔵者の表記等、その仏像にかかわる特記事項。
【著者名】
仏像の解説を担当した著者。著者名は、作品ごとではなく、下記の「論文名」の項目を書いているごとに1データとしています。
【論文名】
解説の項目。“銘記”、”納入品”、“形状”、“法量”、“品質構造”、“伝来”、”保存状態”、“備考”、“參考論文” という表記。
【始頁】
その論文の始めの頁
【終頁
その論文の終わりの頁
【書名】
本来なら『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 1』と表記するべきなのですが、省略して「平安時代 造像銘記篇1」としました。
【年月日】
本の発行年月日です。

 

入力項目(見えない部分)インデックス
以下の項目は“検索”、“並び替え”のために、もうけた項目です。従って、公表はしません。
【形態分類】
“論文”、“図版”、“解説”等12項目を設定したもの。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【大分類】
美術作品のジャンル。“彫刻”、“絵画”、“工芸”等30項目を設定したもの。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【中分類
主に、彫刻に関する分類。“作品“、“銘記”、“納入品”等23項目。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【尊像コード】
仏像・神像・肖像等の彫刻作品、曼荼羅を4桁のコードにまとめたもの。試行錯誤の末、なんとか使えるようにはなりましたが、例外処理にどうしても主観的になってしまうのが、これからの問題です。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【尊像分類】
尊像コードの項目に照合する尊像名。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外を認める。
【所在コード】
7桁の数字で、都道府県・市町村名・寺院名を表記したもの。最初の2桁は都道府県コード、例えば“13”は東京都。次の3桁は市町村コード、最後の2桁は、合併以前の識別番号と合併以前の市町村名、主な寺院の番号。
例えば“
2222500 静岡県伊豆の国市【新設】
2222501 静岡県伊豆の国市(旧田方郡伊豆長岡町)
2222502 静岡県伊豆の国市(旧田方郡韮山町)
2222503 静岡県伊豆の国市(旧田方郡大仁町)
2222510 静岡県伊豆の国市<願成就院>
【地域分類】
所蔵者など、寺社名・個人名・機関名
【地域控】
所蔵者が複数の場合、表記する項目。その他、特記事項。
【時代コード】
4桁の数字。縄文時代から、朝鮮・中国の時代を網羅したコード。
例えば、
中国南北朝 3140
中国南朝   3141
中国宋    3142
中国斉    3143
中国梁    3144
中国陳    3145
中国北朝   3150
中国北魏   3151
中国西魏   3152
中国東魏   3153
中国北斉   3154
中国北周   3155
中国隋    3160
中国唐    3170
中国渤海   3177
【時代分類】
時代コードに照合する時代名。ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外を認める。
【西暦】
4桁の数字、それに、以前<、以後>、頃%、と& を末尾に加え、並び替え用に作成したもの。
【編著者名】
この項目は、ほぼ同一データで煩雑なこともあり、非公表としました。

以上の項目を設定し、やっとのことで、多少、影響をおよぼさない程度に入力を省略していますが、人に見られるようになりました。これから、このデータをどのように加工していくかを考えなければなりません。
データベースを使う基本は、“抽出”、と“並び替え”です。まず、“抽出”に当たって、抽出する項目は、すべて新字体に統一しました。修理銘等の項目はすべて新字体にしてありますので、修理仏師名の抽出ができます。見出には、平安時代篇では、旧字が使われていますが、尊像名は“尊像分類”項目で抽出できます。納入品の尊像リストも“中分類”項目によって抽出できます。作家のリストも、“作家”項目で作家の名前のみの検索で抽出できますが、全体の並び替えはできません。
次に、“並び替え”ですが、もちろん年代順の並び替えは“西暦”項目でできます。尊像順の並び替えも“尊像コード”で可能です。また、著者の抽出も“著者名”項目でできます。その他、“地域コード”を使って地域順に並び替えができます。
さあ、これをどう調理するかは、これから考えていきたいとおもいます。ホームページ[春秋堂文庫]に掲載しようと思いますが、HTMLに変換するのに、結構手間がかかります。文献データベースもずいぶんとサボッているので、それもやらなければと思うと、まだ30年は生きなければなりません。データの1例を紹介します。ご評価をいただきたい。

時代順
NCHO-02-070-2260
 康元元年(1256) 226,十一面観音菩薩像 千葉 天福寺
 木造 素地 1軀 立像
 仏師賢光弁君
 武笠朗 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 162~163 『鎌倉時代 造像銘記篇7』  2009年02月25日 

NCHO-02-070-2220
 建長 8年(1256) 222,如意輪観音菩薩像 京都 透玄寺
 木造 金泥塗・漆箔 玉眼 1軀 坐像 
 水野敬三郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 140~147 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2210
 康元元年(1256) 221,地蔵菩薩像 奈良 春覚寺
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 大仏師刑部法橋快成,小仏師二人之内快尊浄□,都維那師□□,快弁□因□□,厨子絵尊智法眼嫡子快智大夫法眼,彩色朝命尊蓮房尊智弟子也 
 岩田茂樹 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 133~138 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2280
 康元元年(1256) 228,地蔵菩薩像 神奈川 正眼寺
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 武蔵法橋康信?
 1671年修理[細工武州之住□□江戸之□□仏□□□],1803年修理[大工小田原新宿町棟梁林右衛門,仏師同大黒屋文蔵]
 水野敬三郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 177~182 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2200
 建長 8年(1256) 220,愛染明王像 奈良 奈良国立博物館
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 坐像
 大仏師刑部法橋快成,小仏師都維那快尊,因幡公快弁
 岩田茂樹 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 128~132 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2230
 建長 8年(1256) 223,金剛力士像 岐阜 横蔵寺
 木造 彩色 玉眼 2軀 各立像
 仏師五人坪坂住大仏師法眼和尚位定慶,小仏師越後法橋上人□□,讃岐法橋上人長慶,僧越中朝慶,僧讃岐□□己上五人
 1445年修理,1477年修理[仏師道破薩摩国住人也]
 根立研介 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 150~154 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-081-1200
 建長 8年(1256) 補遺一二 泰澄大師像 岐阜 大師講
 木造 彩色 玉眼 1軀 坐像
 美濃国安八郡大嶋郷住大仏師幸賢,少仏師覚尊
 水野敬三郎 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考 64~66  『鎌倉時代 造像銘記篇8補遺』 2010年02月25日

尊像順(淸凉寺式釈迦)
NCHO-02-010-1000
 建久 4年(1193) 10,釈迦如来像 東京 大円寺
 木造 彩色・切金 1軀 立像
 1707年修理[江戸中橋仏師須藤内記浄安]
 西川杏太郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 93~95 『鎌倉時代 造像銘記篇1』 2003年04月15日

NCHO-02-030-0710
 建保元年(1213) 71,釈迦如来像 京都 平等寺
 木造 金泥塗・彩色 玉眼 1軀 立像
 仏師僧良円,僧良□
 山本勉 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 12~14  『鎌倉時代 造像銘記篇3』 2005年03月28日
 
NCHO-02-060-1890
 建長元年(1249) 189,釈迦如来像 奈良 西大寺
 木造 素地・切金 1軀 立像
 大仏師法橋上人位善慶歳五十三臘二十五持斎二十三日,増金,行西,盛舜,観慶,弁実,迎摂,慶俊,尊慶,絵師定春,蓮□,幸実,鏡辨,番匠行久,紀時末,真野末国,三国国満,紀時末己上三人厨子
 1584年修理,1850年修理[京都大仏工職清水定運,量度]
 田邉三郎助 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 126~197 『鎌倉時代 造像銘記篇6』 2008年02月25日
 
NCHO-02-090-2360
 正嘉 2年(1258) 236,釈迦如来像 奈良 唐招提寺
 木造 素地・切金 1軀 立像
 台座蓮弁修理銘[椿井次郎丸],台座葺軸修理銘[南都元林院町大仏師淸慶] 
 奥健夫 納入品・伝来・備考・参考文献  34~112 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日
 岩田茂樹 形状・法量・品質構造・伝来・保存状態 106~112 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日

NCHO-02-090-2440
 文応元年(1260) 244,釈迦如来像 岐阜 即心院
 木造 金泥塗・彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 覚円仏子造也
 山本勉 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 164~166 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日
 
NCHO-02-100-2820
 文永 5年(1268) 282,釈迦如来像 愛媛 宝蔵寺
 木造 漆塗 1軀 立像
 大仏師薩摩法橋興慶
 副島弘道 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 87~89 『鎌倉時代 造像銘記篇10』 2014年02月28日

 

2018年3月18日 (日)

狛坂磨崖仏 その1

 2月の小雪の舞う寒い日に、狛坂磨崖仏に行ってきました。40数年前に登って以来です。今回は、数ヶ月前から、足腰のトレーニングや、装備などの準備をした上での挑戦です。
まず、車で、道の駅こんぜの里りっとう から林道にはいり、金勝寺を通りすぎて、馬頭観音堂の駐車場で車を置いて登山の開始です。出発地の駐車場は、すでに標高が高く、それほど登らなくてもすむので、一番楽なコースとおもっていましたが、道は、細い尾根沿いの道で、アップダウンの激しい急坂の連続でした。準備していたストックで、なんとか進むことができました。途中、茶沸観音という石をくりぬいた中に仏像が彫られています。この石仏を太田古朴氏は飛鳥時代で、現存最古の仏像である。〔文献6〕といっていますが、何の根拠で言っているのかわかりません。
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「写真:茶沸観音」

 

歩き始めておよそ一時間で、磨崖仏に到着しました。本物の迫力は、写真をいくら見てもまさるものはありません。これだけ体力を使っても実物を見る価値がありました。しかし、時折,舞う小雪と、膝の疲労が、十分に作品を味わう余裕がありませんでした。第一印象は、鳥の糞とおもわれる白いしみが至る所についていることでした。(注:小松葉子氏によるとカビの一種だということです。) さらに、頭や肩に落ち葉が溜まっていて、随分と外観を損ねていました。

 

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「写真:狛坂磨崖仏全体(新)」

 

40数年前の写真と比べてみると、その当時は9月だったのに、周りの様子は、40数年前とほとんど変わっていないようで、草木が覆っているわけではなく、現状よりも格段に状態がよかったのがわかります。これだけの重要な文化財に十分なメンテナンスがされていないのは、なんとも悲しいかぎりです。

 

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「写真:狛坂磨崖仏全体(旧)」

 

 さて、自宅に戻って旅行記でも書こうとおもって調べてみると、この石仏には、さまざまな問題があることに気づきました。その整理をするのにずいぶんと時間がかかってしまいましたが、いくつかの点を指摘しながらこの磨崖仏の実情に迫りたいと思います。

 

【印相】
 この石仏の中尊の印相は、いままでの論考では、転法輪印(説法印)という説明がほとんどですが、一部の執筆者は、「説法印とおもわれる」といった、断定しないあいまいな表現を使っていて、さらに田中日佐夫氏は説法印に疑問を呈しています(文献11)。

 

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「写真:狛坂磨崖仏印相(旧)」

 

転法輪印(説法印)については、光森正士氏が、7種類に分類した図解を発表していますが(文献32)、

 

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「写真:阿弥陀仏印相図解」

 

それよりももっと大雑把に分類してみると、右手は掌を正面にむけ、左手は手の甲を正面にむけて、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅰ・Ⅱ)と、両手の掌を正面にむけ、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)に分けられます。狛坂磨崖仏の中尊は、明らかにⅠ・Ⅱ式を表現したものと考えられます。
Ⅰ・Ⅱ形式の印相は、インド・サールナート出土の初転法輪像 インド・サールナート考古博物館(グプタ時代、5世紀後期)に現れています。

 

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「写真:初転法輪印像(サールナート出土」

 

中国では、金銅如来坐像 メトロポリタン美術館(中国・唐)があり、

 

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「写真:金銅如来坐像(メトロポリタン)」

 

朝鮮半島では、雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊像(統一新羅)が例としてあり、

 

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「写真:雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊)」

 

日本では、法隆寺献納宝物の中の押出仏、法隆寺所蔵の塼仏・押出仏もこの形式で表されています。

 

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「写真:押出阿弥陀五尊(Nー198)」

 

石仏では、頭塔にある三尊像の中尊もこの形式です。

 

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「写真:頭塔三尊像」

 

一方、Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ形式は、インド、中国、朝鮮にもその例がなく(文献34)、日本の法隆寺伝法堂西の間の中尊がその初現とおもわれます。東の間像は掌が正面に向いていないので微妙ですが、造形意図としては、西の間像と同様と考えてもいいかとおもいます。その後日本では、興福院阿弥陀如来、西大寺伝宝生如来、平安時代に入って、広隆寺阿弥陀如来、伏見寺如来、孝恩寺伝弥勒菩薩など、この形式の説法印が主流になっていきます。

 

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「写真:伝法堂西の間阿弥陀如来」

 

その後、Ⅰ・Ⅱ形式が日本で消滅したわけではなく、平安後期~鎌倉時代と言われている金屋石仏の伝釈迦如来はこの印相で、例外的に、この形式の作例はあります。

 

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「写真:金屋石仏伝釈迦如来」

 

藤岡氏は、8世紀後半にⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式の印相が現れたのは『陀羅尼集経』(史料42)に説く阿弥陀説法印によるものとしています(文献34)。このように、経典によって規定された印相が、主流になっていったとおもわれます。
とすると、狛坂磨崖仏の印相は、左手の指の位置を見れば、どうみても日本で奈良時代に発生したⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式とは見えません。Ⅰ・Ⅱ形式の印相を表現しようとしたと説明するのが常道でしょう。

 

【坐法】

 

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「写真:狛坂磨崖仏坐法」

 

 足を交差している形式を見た歴代の研究者は、戸惑ったのでしょう。交脚像というのは、インド・中国に多数見られるのは承知していても、日本に存在するとは思わなかったとおもいます。なので、毛利久氏はX状に両足を交叉しているとしながら、交脚像と関係があるか(文献8)と判断しかねています。佐々木進氏は、結跏趺坐を崩し、両足を交差させる坐法はいかにも不自然である。(文献25)としていますが、発想が結跏趺坐を崩したとみる執筆者もおり(文献20)、結跏趺坐と言い切っている執筆者も多数います(文献13・16・19・24)。いまさら申すまでもないことですが、結跏趺坐とは、両方の足の甲が他方の股の上のる坐法をいうのです。狛坂磨崖仏は、結跏趺坐の定義に当てはまらないのはあきらかです。作家は、足を交差させる造形を意図していることは見て判断がつきます。

 

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「写真:雲崗第7窟交脚像」

 

その交脚像は、石松氏によるとインドでは特定の尊像に限らないで造像され、中国は5世紀代の菩薩像の主役的存在だったが、朝鮮および日本では交脚像の作例は知られていないとしています(文献38)。ただ、石松氏は、中国で交脚坐から結跏趺坐へ変化したという結論は、半跏趺坐の概念を抜きにして論じているため、説得力がありません。狛坂磨崖仏の中尊は日本で唯一交脚坐で造形された尊像であることに反論の余地はないでしょう。ちなみに、小磨崖仏の中尊は蓮華坐のうえに降魔坐の半跏趺坐のようです。

 

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「写真:狛坂磨崖仏小磨崖仏」

 

 

【格狭間】

 

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「写真:狛坂磨崖仏格狭間」

 

 中尊は、宣字座にすわり、両脇侍像は蓮華座の上に立ち、ともに3つの格狭間のある須弥壇のうえに乗っています。横の小磨崖仏も、2つの格狭間をもつ須弥壇の上に三尊とも蓮華座の上にのっています。小磨崖仏の格狭間は摩耗していますが、ほぼ同じ形式とみていいでしょう。

 

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「写真:狛坂磨崖仏横」

 

この鋭角にしのぎのある形式の格狭間は、四十八体仏の辛亥銘観音菩薩像の台座の格狭間と非常に類似しています。

 

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「写真:辛亥銘格狭間」

 

石田茂作氏は、格狭間の形式を5形式に分類し、辛亥年銘像台座の格狭間は、第三類 肘木式に当たるとしています(文献39)。この肘木式は、飛鳥、白鳳、奈良時代に盛行したが、奈良時代に入ると、発展型が優勢になっているとしています。小杉一雄氏は、韓国および四十八体仏の格狭間は、六朝仏の唐草系格狭間の系統ではなく、後漢以来の典型的格狭間の系統で、飛鳥時代の造像の主流が中国直系ではなく、韓国系であったのではないか(文献40)としています。さらに、曽布川直子氏も、7・8世紀の格狭間は中国直系ではなく、一度朝鮮で保持された様式がほぼ同じくして、混交して日本に移入された可能性(文献41)を指摘しています。狛坂磨崖仏の格狭間が辛亥銘の台座と非常に近いこと、その形式が奈良時代には変化していることを考慮すれば、狛坂磨崖仏の格狭間の形式が奈良時代以降である可能性は少ないとみるべきでしょう。

 

その2に続く

狛坂磨崖仏 その2

承前

 

【狛坂寺】
 狛坂寺の歴史を語る前に、金勝寺の歴史を知る必要があります。金勝寺は、奈良時代、良弁僧正によって創立された後、弘仁年中に興福寺僧の願安によって再興され、天長10年(833)に定額寺に列せられ(史料45)長く信仰を集めていました(史料46)。仏像も十世紀の造像と思われる仏像から平安後期の仏像が多数残っています。狛坂寺は、大永6年(1526)の縁起によると(史料47)、弘仁7年(816)、僧願安によって金勝寺の別院として建立されたとしています。ただ、この縁起には磨崖仏の記載がないことが気になるところです。林博道氏によると、その後、回禄と再建をくりかえし、明治維新に廃寺となったとしています(文献30)。現在の狛坂磨崖仏のそばには、石垣があって、建物跡があります。

 

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「写真:狛坂寺址石垣」

 

斉藤氏は、金勝寺所蔵「金勝寺寺領牓示絵図」に狛坂寺伽藍が金勝寺西方の山中に描かれている(文献7)としていますが、この絵図は平安の原本ではなく、鎌倉中期の写本だと注記していて、平安時代に狛坂寺が金勝寺の末寺であったとの根拠としています。しかし、嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』の大菩提寺(金勝寺)の項に二十五箇別院が列挙されていますが、狛坂寺に該当する寺院がありません。ということから考えると、大永6年以前の、金勝寺と狛坂寺との関係は不明としたほうがいいと思います。
林博道氏によると(文献29)、石山寺に狛坂寺出土と伝えられる軒丸瓦二点が保管されていると言うのです。寛政年間、石山寺座主だった尊賢僧正が収集したもので、拓影集『古瓦譜』にその収集のいきさつが著されています。この拓本は4点で、3つは7~8世紀の複弁蓮華文の軒瓦で、ひとつは斜め格子状の模様がある平瓦です。林氏は、この平瓦と同じ模様の瓦片を現地で採集しているというのです。この論文は、ほとんどの研究者が注目していません。(李廷冕氏がその論文でとりあげてはいますが、懐疑的な言及をしています(文献22))。これだけの証拠がありながら、発掘調査などで検証しないのはどういうことでしょう。

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「写真:駒坂寺出土瓦」

 

 もうひとつ、狛坂寺址の地理的な位置について考察する必要があります。金勝寺は、金勝山頂の北側に位置し、草津方面から南に金勝山に向かってのぼるルートが主要だったとおもいます。『興福寺官務牒疏』に書かれている二十五箇別院は(史料48)、皆、金勝寺から北北西から北東方面に存在しています。

 

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「写真:金勝山地形図」

 

狛坂磨崖仏へは、3つのルートがあります。ひとつは北の鶏冠山を通って、白石峰から、下るルート。もうひとつは上桐生からなだらかな山道を登るルート。最後は大戸川沿いの桐生辻から一気に北上して登るルートです。3ルートとも、西および南側からのルートです。狛坂磨崖仏と金勝寺は、尾根伝いに通る道です。しかも途中に竜王山、白石峰と2つの頂を通るルートになっています。標高でいうと、金勝寺は530m、馬頭観音堂595m、竜王山は605m、白石峰は580m、狛坂磨崖仏は480mとなります。つまり、もともと狛坂寺が、金勝寺の別院として創立したにしては、連山の東西の端に位置していること、距離的に離れていること、また、寺にはそれぞれ別々のルートで行かなければならないことを考えると、二つの寺院がもともと関係があったのかは、もう少し精査が必要です。

 

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「写真:金勝山断面図」

 

【時代判定】
 この磨崖仏の製作年代を今までの執筆者から分類すると次のようになります。

  1. 白鳳(奈良前期)・・・太田古朴(文献4・6)、田中日佐夫(文献11)
  2. 奈良(8世紀)・・・・・・秦秀雄(文献5)、斉藤孝(文献7)、水野敬三郎(文献20)、李廷冕(文献22)、佐々木進(文献25)
  3. 奈良末~平安初期(8世紀末~9世紀初)・・・毛利久(文献8)、宇野茂樹(文献9)、久野健(文献10)、川勝政太郎(文献2・3)、宮本忠雄(文献16)、水野さや(文献26)
  4. 平安後期・・・堀井三友(文献1)

この磨崖仏の製作者は、渡来した新羅の工人ではないか、と推測したのは、川勝氏でした(文献2)。それをさらに発展して、詳細な論考をしたのが斉藤孝氏でした(文献7)。まず、斉藤氏の論文から新羅的要素を三点述べています。

  1. この三尊は花崗岩に刻まれた磨崖仏である。
  2. この三尊は唐風の様式で、木彫仏に迫るような本格的な様式で表現されている。
  3. この三尊は壁面から完全な浮彫りになっている。

この条件は、新羅の南山七仏庵三尊磨崖仏とおなじ条件で満たされている。さらに、花崗岩を刻む技術は、日本では鎌倉時代にまで下るということなど、その石匠は半島の帰化系民か、あるいは新羅文化と深いかかわりをもった本邦人ではないか。としています。
毛利久氏もそれに付け加えて、中尊の形状がブロック状積み重ね式で構成されている。さらに、脇侍菩薩像の一八〇度的立ち方、胡桃形の連弁は、南山七仏庵磨崖仏に見いだされる(文献8)。としています。この新羅系工人説は、さまざまな周辺情報を根拠として付け加えながら、その後の研究者に受け継がれていきました。そのため、2 奈良説をとる研究者は、この新羅工人説を採用して時代判定をし、さらに、3 奈良末~平安初期説をとる研究者は、奈良時代の願安の活躍から、金勝寺の創立時期を考慮したうえで、時代判定をしているように見えます。
それに対して、田中日佐夫氏は、格狭間の様式、仏像の形体から、この磨崖仏は白鳳時代の様式を持っているとし、狛坂の狛は「高麗」であり、「高句麗」を意味するので、高句麗からの渡来人による造像の可能性を指摘しています(文献11)。

 

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「写真:南山七仏庵磨崖仏」

また、李廷冕氏は、新羅七仏庵三尊磨崖仏との比較から、七仏庵像を八世紀初半の造立とし、狛坂磨崖仏は八世紀初半から中期に至る間に造立され、百済系渡来人による造像と結論づけました(文献22)。この田中氏と李氏の新羅工人説の否定は、説得力があります。というのは、新羅工人説を唱える執筆者は、一様に、この金勝山の花崗岩が露出する風景が、慶州南山の風景と類似することを根拠としているからです。しかし、磨崖仏は、彫刻する素材の石があれば、どこであっても造像が可能です。風景が造像の根拠であるというのは薄弱な材料です。

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「写真:狛坂磨崖仏見上げ」

さらに、花崗岩という堅い石を刻む技術が日本にはないから、新羅工人によるものという推測も、たとえば、頭塔の石仏は花崗岩製ですし、奈良時代には花崗岩の加工を日本でおこなっている事実を考えればあてはまりません。石工の技術は、道具がそれに対応したものがその当時あったかどうかが問題なのであって、石の大小で判断されるべきではありません。様式の比較も、個人の感覚に依拠するような見た目の判断は慎まなければなりません。これとこれ、似ているでしょう。といわれてもどこがどう似ているの?ということに客観的に答えられなければ学問として成り立たなくなります。
 美術史の様式論は、その時代を反映したものであり、基本は時代を超えて存在するものではありません。例外的に過去の様式の複製、模倣という形が存在しますが、その違いを判断できるのが美術史としての学問でしょう。ということは、その時代の様式とその時代がしっかりと把握されていれば、時代判定の確実なものとなるのは明白です。

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「写真:狛坂磨崖仏中尊(新)」

 狛坂磨崖仏の中でいくつかの形状とその様式について検証してきましたがそれにもとづいて判定することにします。

まず、印相についていえば、狛坂磨崖仏中尊の印相は、Ⅰ・Ⅱ式の説法印との判定からすると、このⅠ・Ⅱ式の形式の印相は日本では、奈良時代にⅣ・Ⅴ・Ⅵ式に代わっていることがわかります。Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ式は平安時代には主流になっていることを考慮すれば、平安初期の造像とは考えにくいことになります。

坐法についていえば、日本にも、朝鮮半島にもない交脚坐は、すくなくとも朝鮮半島から経由した様式ではないことがわかります。中国からの直接的な流入として考えるべきでしょう。

格狭間についていえば、白鳳時代の基準作例のそれと類似していること、格狭間のような装飾の様式は、時代とともに変化していくのが普通であるということを考慮すれば、白鳳時代と判定するのが本来です。

狛坂寺の創立については、史料の不足もあり、断定的なことはいえませんが、新羅工人説を全面的に信用はできないこと、さらに、林博道氏の発見された瓦に対して検証すべく、磨崖仏周辺の発掘調査の必要性を感じます。

また、良弁、願安とのかかわりは、あくまでも奈良時代にかかわったという前提ですので、狛坂寺の創建がそれ以前ということならば、その接点はないというべきでしょう。白鳳時代には、崇福寺の例もあるように、すでに山岳寺院は存在していたのであり、山岳寺院創建の根拠となる理屈も存在していたとすべきで、狛坂寺の白鳳時代創建説に支障はないとおもわれます。

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「写真:狛坂磨崖仏横(新)」

 

文献リスト

〔狛坂磨崖仏〕

  1. 三友生「狛坂寺磨崖佛踏査記 」 『東洋美術』 16  1932年11月10日 飛鳥園 140p~144p
  2. 川勝政太郎「第六章 古石佛巡禮/三一、金勝山彌陀三尊磨崖佛」『日本の石佛』 1943年6月1日 232p~235p
  3. 川勝政太郎「日本石佛の性格ー特に材質と彫成手法を中心としてー」『佛教藝術』 30 1957年1月30日 20p~32p
  4. 太田古朴・辰巳旭・細川政之介「近江金勝山狛坂寺跡奈良時代大磨崖丈六弥勒説法浮彫像 」 『石仏』 3  1964年10月10日 奈良石造美術研究会 33p~36p
  5. 秦秀雄「埋もれていた奈良朝の石仏 ー狛坂廃寺跡の大磨崖仏ー」 『芸術新潮』 17-12(204) 特集1: ボナールをつぐ色彩 [Pierre Bonnard]/特集2: 美のガラス3000年 1966年12月1日 新潮社 92p~93p
  6. 太田古朴「白鳳/八 日本第一の磨崖仏/丈六弥勒大説法磨崖仏ー近江狛坂寺ー 」 『飛鳥 奈良ー仏像鑑賞シリーズ1ー』 1971年2月20日 綜芸舎 40p~41p
  7. 斉藤孝「江州狛坂寺址大磨崖仏私見 ー我国奈良時代と統一新羅の石仏ー」 『原弘二郎先生古稀記念東西文化史論叢』 1973年1月20日 原弘二郎先生古稀記念会 315p~336p(『日本古代と唐風美術』 1978年5月20日)
  8. 毛利久「当麻寺弥勒仏像と新羅様式」『日本のなかの朝鮮文化』 20 1973年12月25日 4P~11P(『仏像東漸』 1983年3月10日 )
  9. 宇野茂樹「第二編 第二期の近江宗教彫刻/第四章 金勝山寺の諸尊像/(四)別院狛坂寺阯磨崖仏」『近江路の彫像』 1974年5月25日 雄山閣出版 161p~164p
  10. 久野健「日本の石仏/3,狛坂廃寺の磨崖仏 」 『石仏』ブック・オブ・ブックス 日本の美術・36 1975年12月10日 小学館 128p~131p
  11. 田中日佐夫「狛坂寺大磨崖仏とその周辺 」 『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』 1976年1月11日 柴田實先生古稀記念会 525p~539p
  12. 「遺品編/狛坂寺磨崖仏 滋賀県栗太郡栗東町 」 『日本石造美術辞典』 1978年8月25日 東京堂出版 96p~97p
  13. 久野健「図版解説 狛坂廃寺/20 狛坂磨崖仏・如来三尊像 」 『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年11月23日 集英社 127p~127p
  14. 毛利久「狛坂磨崖仏と金軆寺/狛坂磨崖仏 」 『近畿文化』 396 1982年11月1日 近畿文化会 1p~2p
  15. 「4,近畿地方(一) 滋賀県/狛坂磨崖仏如来形三尊像 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 233p~233p
  16. 宮本忠雄「作品解説 石山寺と近江の古寺/38,狛坂磨崖仏 如来形三尊像 」 『全集日本の古寺 5 石山寺と近江の古寺』 1985年7月21日 集英社 135p~135p
  17. 邊見泰子「近畿/狛坂寺跡磨崖仏 」 『磨崖仏紀行』 1987年1月23日 平凡社 46p~48p
  18. 佐々木進「栗太郡/167,狛坂磨崖仏 」 『日本の仏像<滋賀>』仏像集成 4 1987年2月1日 学生社 132p~133p
  19. 高梨純次「佛解説/狛坂磨崖仏 栗太郡栗東町荒張字狛坂 」 『滋賀の美 佛 湖南・湖西』 1987年3月26日 京都新聞社 196p~196p
  20. 水野敬三郎「図版解説/141 狛坂磨崖三尊仏 史跡 栗東町 滋賀 」 『日本美術全集 第4巻 東大寺と平城京 奈良の建築・彫刻』 1990年6月8日 講談社 228p~228p
  21. 佐々木進「滋賀県(湖東・湖南・大津)/良弁と金勝寺ー狛坂磨崖仏 」 『仏像を旅する 東海道線ー東下りと上方への道、民俗・文学・文化財ー』 1990年10月10日 至文堂 263p~265p
  22. 李廷冕「近江狛坂寺址磨崖佛についてー特に朝鮮渡来人と関連してー」『リベラル・アーツ(札幌大学教養部教育研究)』 4 1991年1月15日 73p~101p
  23. 「美術工芸編 第二章 彫刻/41,狛坂磨崖仏 荒張 」 『栗東の歴史 第四巻 資料編Ⅰ』 1994年3月31日 栗東町 228p~228p
  24. 村田靖子「第Ⅶ章 韓半島/顏貌表現・裳懸座/統一新羅時代/磨崖如来坐像 滋賀・狛坂廃寺 」 『仏像の系譜ーガンダーラから日本までー』 1995年5月19日 大日本絵画 240p~242p
  25. 佐々木進「本文/狛坂磨崖佛 」 『國華』 102-7(1216) 特輯 日本の石佛(下) 1997年2月20日 國華社 15p~17p
  26. 水野さや「図版解説/88 狛坂磨崖三尊像 」 『日本美術全集 第3巻 東大寺・正倉院と興福寺 奈良時代Ⅱ』 2013年9月2日 小学館 243p~244p
  27. 「第1章 滋賀の仏像の歴史/3 近江国での寺院の建立ー飛鳥時代から奈良時代/狛坂磨崖仏 (栗東市) 」 『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』 2015年1月30日 サンライズ出版 12p~12p

 

〔狛坂廃寺〕

  1. 28 高梨純次「図版解説/狛坂廃寺」『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年7月21日 集英社 127p~127p
  2. 29 林博道「石山寺に蔵する『古瓦譜』およびその古瓦について」『考古學雜誌』 67-4 1982年3月31日 48p~62p
  3. 30 林博通「第二部 近江の古代寺院/狛坂寺跡(栗太郡栗東町荒張) 」 『近江の古代寺院』 1989年5月30日 近江の古代寺院刊行会 332p~337p
  4. 31 宇野茂樹「草創期の金勝寺」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 12p~14p

 

〔印相〕

  1. 32 光森正士「阿弥陀仏の印相図解」『阿弥陀仏彫像』 1975年4月15日 (『日本の美術』241 阿弥陀如来像 1986年6月1日)
  2. 33 神戸佳文「小野万勝寺阿弥陀如来坐像についてー説法印を結ぶ阿弥陀如来坐像の一例ー」『塵界』 6 1993年3月31日 91p~111p
  3. 34 岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」『美術研究』 373 2000年3月30日 1p~47p
  4. 35 藤岡穣「説法印阿弥陀如来像をめぐる試論」『待兼山論叢』 35 2001年12月20日 1p~27p
  5. 36 中野聰「法隆寺伝法堂西の間阿弥陀如来坐像の印相について」『美術史研究』 41 2003年12月15日 147p~264p(『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)
  6. 37 中野聰「頭塔の阿弥陀三尊石仏をめぐる一考察」『日本宗教文化史研究』 13-1 2009年 (『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)

 

〔坐法〕

  1. 38 石松日奈子「中国交脚菩薩像考」『佛教藝術』 178 1988年5月30日 55p~83p

 

〔格狭間〕

  1. 39 石田茂作「香様の起源と發展」『考古學雜誌』31-7・8 1940年7月・8月(『佛教考古學論攷』 六 雜集編 1977年12月30日)
  2. 40 小杉一雄「格狭間について」『美術史研究』 7 1969年3月20日 1p~26p
  3. 41 曽布川直子「格狭間の変遷ー東アジアにおける文化受容の一例としてー」『デザイン理論』 40 2001年11月11日 1p~14p

 

〔史料〕

  1. 42 「陀羅尼集經 巻第二」『大正蔵』18 800p下
  2. 43 「覺禪抄 巻第六」(阿彌陀上)『大正蔵図像』4 455p上
  3. 44 「阿娑縛抄 巻第五十三」(阿彌陀許可作法)『大正蔵図像』8 1103p上
  4. 45 「天長十年(833)九月八日条」『続日本後記 巻第二』
  5. 46 「寛平九年(897)六月廿三日太政官符」『類従三代格 巻第二 佛事上 年分度者事』
  6. 47 「史料篇/江州狛坂寺本尊縁起 」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 116p~117p
  7. 48 「興福寺官務牒疏」『大日本佛教全書』寺誌叢書三

 

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