2026年8月28日 (金)

『国華』1569号と「百花繚乱」展

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 東京都美術館で『大英博物館 日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画』展が7月25日~10月18日まで開催されています。その中の目玉として、宮越邸の襖絵と大英博物館・シアトル美術館所蔵の襖絵の原所在が談山神社だったということで、その襖絵を一堂に会した展示を行っていました。
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宮越邸のステンドグラス公開は、2020年11月から始まっており、すぐに筆者は見学していました。襖絵の存在は気がついていましたが、その時は気にも留めませんでした。山下善也氏によると、2023年夏に宮越邸の襖絵の画像を見て調査を開始して、2024年9月に記者発表を行ってマスコミに取り上げられました。
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これにともなって、『国華』1569号は宮越邸の襖絵とステンドグラスについての特輯を組み、論文3編、解説5編を掲載しています。今、ステンドグラスについての論文解説について、いささか思うところを書いてみようと思います。
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論文 齋藤淳「宮越正治と宮越家の文化財」
 中泊町博物館館長による宮越家の歴史と、文化財の収集をした九代目正治の生涯について記載しています。とくに、正治の当時の美術家達との交流についての記述は注目に値します。また、宮越邸には、小川三知から宮越正治宛の書簡が49通のこされており、現在読解がすすめられていると聞きます。是非、公開を希望します。
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論文 田辺千代「小川三知と日本のスティンドグラス」
 娘の美保子氏が所蔵していた小川三知の5冊の業務日誌や、原画などをもとに、小川三知の生涯について記述しています。三知の業績などを列挙した箇所などがありますが、精緻な検証をもとにした記述かどうか、資料の公開が断片的なため、もうひとつ信頼性に欠けるところがあります。他の研究者の批判に耐える一次資料の公開とそれに基づいた論考が出されることを期待します。
 
解説 松本一郎「小川三知 十三潟風景」
 松本スティンドグラス製作所の三代目社長で、実際にスティンドグラスの製作をしている立場による解説です。素材の板ガラスでは、ラフロールドグラスとオパールセントグラスの素材の特徴を述べ、技法では、「ラファージ式」と呼ばれる2枚重ねの方法、そして、鉛線とカッパーフォイルを使ったガラスの繋ぎ方法の説明をしています。
この字数では、詳細を述べることは困難でしょうが、もっと詳細な調査報告のようなものが公開されてもいいかなと思います。
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解説 島尾新「小川三知 四季花木」 
国華社の編集者である筆者は、専門が絵画であり、このステンドグラスの嵌まった障子を一つの絵画として解説しているので、ステンドグラスの特徴について十分に把握しているのか疑問です。特に、ステンドグラスの地のガラスが透明のため、外部の庭木をモチーフとして取り入れるというのは、いわゆる庭園における「借景」にあてはめられますが、それでは、この障子に嵌められている“あじさい”“白木蓮”“黄櫨”についてどういう位置付けになるのか言及されていません。この障子をひとつの絵画としてとらえるのならばそこまでです。ガラスは、透明という絵画にはない特性があるのです。この特性を生かして、庭の木々をPullして障子にとりこめば(いわゆる借景)、ステンドグラスの花木はPushして障子の外に押しやってモチーフが外部の庭に生えているようにみせているのです。単なる二次元の絵画ではなく、奥行きのある3次元の絵画としての見せ方をしているのです。
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解説 田辺千代「小川三知 柳に翡翠・菖蒲」
 この解説でも小川三知日記の断片的な開示がありますが、現在のところそれを検証する手立てがありません。筆者は小川三知を世に出した功績のある人物ですが、もともと新聞記者であり、学者ではありません。研究方法に思い込みと緻密さのなさが見受けられます、日本のステンドグラス研究者がもっと輩出し、切磋琢磨し更なる発展ができるように期待します。ひとつ気になったことに「翡翠」は何と読みますか?普通では「ヒスイ」と読みますが、文脈から読むと「カワセミ」です。読者はとまどいませんか?なせ「カワセミ」の漢字表記の「翡翠」を使うのか、これが国華社の意向で漢字表記にしたのか、筆者の要望で記述したのかわかりませんが、あまりにも不親切です。
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2026年7月19日 (日)

佐賀市歴史民俗館の窓ガラス 令和8年7月見学

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 7棟の明治大正期の建物を資料館として公開している博物館です。その中で、気になった模様入りケシガラスの嵌まっている2棟を見てきました。まずは、明治17年に建てられた旧古賀家、風呂場に入口の扉にPilkingtonのKALEIDOSCOPEが嵌まっていました。
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そして、座敷の4枚引き額入り障子に模様入りケシガラスが嵌まっていました。8枚のうち一部に戦後の型ガラスに帰られていますが、その文様は鳥羽のかどやに嵌まっているガラスと同じです。
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つぎに明治15年に建てられた旧三省銀行です。正面右の2箇所の窓に模様入りケシガラスがありました。外は鉄扉になったいたため、以前は気がつきませんでした。
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内側は両引き分けの窓にそれぞれ6枚のガラスが嵌まっていました。模様入りケシガラスは3種類を確認できました。その中で一番数が多いガラスは、新潟の中野邸記念館にあるものと同じ、
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極七宝とおもわれるのが1枚、これは、鳥羽のかどやにあるものと同じ。
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もう一つは、今までみたことのない枝葉の七宝のような模様でした。
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この建物の奥は住宅になっていて、とくに2階の透明の窓ガラスには多数の泡がある手吹き円筒法によるガラスが残っていました。
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模様入りケシガラスは、その分布が西日本では極端にその用例がすくなく、このガラスをあつかう業者がいなかったのか、どうかなどまだまだ不明な点があります。また、模様入りケシガラスは、1800年代後半より、フランスなどで、加工されはじめており、そのカタログも残っているのですが、現在日本に存在する模様入りケシガラスで、そのカタログに掲載されている模様は、蜀江文と大小菊菱文ぐらいで、その他の日本にある模様が西洋のカタログに見当たりません。また、蜀江文は東日本を中心に日本で数多く見かけますが、その模様のパターンも数種類の違いがあります。これをどう解釈したらいいのか判断に苦しみます。模様入りッケシガラスがすべて輸入されたものという見方もありますが、蜀江文のさまざまなパターンや、日本独特の模様の例を見ると、日本で加工されたものも数多くあったと推測されます。それが、どこの加工場でつくられたのか資料が見いだせません。まだまだ研究半ばです。

2026年6月24日 (水)

『洋館ー明治の夢と挑戦』江戸東京博物館リニューアル記念特別展 令和8年6月見学

 久しぶりに両国に足を運びました。リニューアル早々なので、混雑していました。
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特別展『洋館』は、館長になった藤森照信氏の研究成果を遺憾なく発揮した展示でした。近代日本の建築史を丁寧にたどっていき、わかりやすく分類して説明していました。
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展示で気になったのは、「慶應義塾図書館ステンドグラス」和田英作原画でした。この絵画は、はじめて見ました。これで、現在のステンドグラスとの比較ができます。今のステンドグラスは、戦災で焼失した後、昭和49年に大竹龍造によって復元されたものです。この現在のステンドグラスがどの程度原画に忠実に作られているのかが、今までわかりませんでした。白黒の写真があっても、どんな色ガラスが使われたのかが不明でした。これで、原画をもとにして、どんな色ガラスが使われたのか想像ができます。
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原画とステンドグラスを比較してみると、微妙に形状が異なっている部分があります。また、違う色ガラスを使っている箇所もあります。ここのところは、大竹の創作がはいっているのかなとおもいます。大正4年(1915)、原画を元にステンドグラスを製作した小川三知だったらどの色ガラスを使ったのだろうかというところは、もっと検討する余地があると思います。その他、開東閣に嵌まっていたステンドグラスがありましたが、撮影不可、図録には斜めの写真が載っていました。
 
特別展では、同潤会アパートの復元建物の一部がありました。窓ガラスは三角パテ(山パテ)で留めています。
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2026年4月26日 (日)

喜雨亭 木造3階建 茨城県常陸大宮市高部 明治20年以前建立 令和8年4月見学

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 水郡線の常陸大宮駅から、1日2本しかないバスに乗っておよそ50分でたった200円の運賃でした。高部宿の中の道路沿いに喜雨亭は建っていました。その後ろには、養浩園という庭があり、二つの川に挟まれていて、苔が全体に敷き詰められていました。
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岡山家は、酒造業をいとなんでおり、喜雨亭の3階に描かれている“花の友”とは、製造していた酒の名前だそうです。
建物の3階は3畳ほどの広さで、1面の窓に赤・緑・黄の色ガラスをちりばめて嵌められています。0805 
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ガラスを詳細に観察してみると、細かな泡や斜めの皺が確認されました。手吹き円筒法による板ガラスと思われます。おそらく舶来品でしょう。
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喜雨亭2階
 
高部宿には、間宮家という洋館があり、そこにも色ガラス嵌まっているということですが、外観しか見られず、どこに色ガラスがあるのか確認はできませんでした。
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2026年4月23日 (木)

水野敬三郎先生の学恩

 水野先生と直接対面して指導を受けたのはたった1回でした。はじめて、水野先生にお会いしたのは、平等院でした。大学院の一年目の夏休みに、同級の秋山君に誘われて、御尊父が調査している平等院に行ったときでした。平等院観音堂の中に鳳凰堂の扉を持ち込んで、その扉絵の調査がおこなわれていました。そこに、手伝いという形で光文君と乗り込みました。1日2日手伝いをしていると、突然、水野先生が現れました。観音堂の中の本尊十一面観音立像を調査するためでした。ひとりで、ライティングをしながら撮影をして、帰っていきました。その時は、別に自己紹介するでもなく、ちょっとした手伝いをするくらいでした。その後、西川新次先生が現れ、観音堂にあった、鳳凰像をみたり、夜になって、鳳凰堂の中をライトで照らしながら、阿弥陀如来坐像の観察をしていました。
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平等院観音堂十一面観音立像
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平等院鳳凰
 
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平等院鳳凰堂阿弥陀如来
 
 翌日、光文君の車で、西川先生をのせて、観心寺に向かいました。観心寺の近くの旅館に着くと、水野先生が合流してきました。
翌日から観心寺の宝物館で、仏像の調査がはじまりました。宝物館の中には十数体の仏像が安置されていました。それを、西川先生と水野先生が手分けして調査が開始されました。私は、水野先生につき、ノートをわたされ、先生が形状を順々に話すことを一語一句もらさず書き留める作業をしました。そんな訓練をしたこともないので、ただひたすら書き留めました。“衣はタイシャ” タイシャって何だ!と訳もわからず書き殴りました。この調査は、『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代 重要作品篇 の調査でした。その日の夜。旅館で夕食の後、寺からの帰りに先生が買ってきたウィスキーの旅行用の小瓶で、ちびちびやりながら、ひとしきり仏像の話をした記憶があります。
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観心寺地蔵菩薩立像
 
 大学院の3年目の日本彫刻史の講義は、1、2年生の時の西川新次先生に代わって、水野先生が担当されました。西川先生の最後の講義のとき、質問の時間が設けられました。何でも聞きたいことがあったらお答えします。ということだったので、私は、来年度修士論文を書くテーマとして、10世紀の仏像を取り上げたいのですが、どの仏像をとりあげたらいいでしょうか。と聞きました。西川先生は、10世紀といえば法隆寺上御堂の釈迦三尊像がありますね。とおっしゃいました。それで、修士論文のテーマは決まりましたが、その後、西川先生から教えを受けることはありませんでした。 水野先生の講義は、飛鳥時代からはじまりました。そして、夏休み明けの初めての講義で、突然、院政期の造像銘記に関する講義になりました。まず、院政期における造像銘記、像内納入品の歴史を史料をもとにひとつひとつ概観していき、さらに、個別の仏像の銘記についての解説をされていきました。3週にわたっておこなわれた造像銘記の講義は、学会での研究発表のようでした。緻密な論理構成で、聞いていてただ唖然とするばかりでした。どこにもツッコミどころがありませんでした。研究というもののレベルの高さには全然とどかない自身の未熟さに愕然としました。この講義内容は、翌年、「院政期の造像銘記をめぐる二、三の問題」として、『美術研究』295号 1975年2月25日に掲載されました。
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水野敬三郎「院政期の造像銘記をめぐる二、三の問題」『美術研究』295 1975年3月20日
 
 修士論文の準備は、自分ひとりで行いました。10世紀彫刻のあるお寺をいくつか自分で手紙をだして拝観させてもらいました。法隆寺上御堂は11月1日~3日しか見学ができないし、個人的に法隆寺の調査は無理だと最初からあきらめて、結局拝観はしませんでした。まして、水野先生や、ゼミの加藤諄先生に相談もしませんでした。ただ、ひたすら史料の採取に明け暮れ、何とか原稿用紙30数枚を書き上げ『十世紀彫刻の一考察 ー法隆寺上堂の釈迦三尊像についてー』として提出しました。
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法隆寺上堂釈迦三尊像
 
 口頭試問の当日、生まれて初めての虫歯で、歯医者に行ったために、時間ギリギリに研究室に着きました。もう、主査加藤先生、副査水野先生が待っていました。到着するなり、さっそく対面での試問がはじまりました。冒頭、
 
水野:これは、太田論文の修正版ですね
自分:はい
 
「太田論文」とは、太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」『佛教藝術』84 1972年3月10日のことで、法隆寺講堂が『別当記』にあるように延長三年(925)に焼失した後、『古今目録抄』に記載されている、“普明寺堂を法隆寺に移築した”という記事から、この堂は上堂ではないか、という論旨でした。そして、その移建の時期は、聖宝の没年(延喜七年(907))以前と推測しました。
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『別当記(三帖内)』(法隆寺別當次第))
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『古今目録抄(聖徳太子伝私記)』顕真筆
 
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太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」『佛教藝術』84 1972年3月10日
 
太田論文では、『古今目録抄』の記載されている観理僧都(延長年中在任(923~930))の移築という記述を無視した論考でした。
これに対して、私は、『法隆寺政所并法頭略記』(福山敏男校訂『美術研究』179 1955年3月30日)という史料をとりあげ、そこには、観理僧都の在任中に講堂を再建した。と書かれていることに注目し、延長3年の講堂焼失後、普明寺堂を仮の講堂として“北に引去けて”現在の上御堂の位置に延長年中に移築したとしました。それに伴って、釈迦三尊像もその頃に造立されたと推測しました。
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『法隆寺政所并法頭略記』
 
 
水野先生の質問は修士論文を私の方に向け、“この史料を読んでください。” と論文に引用した『古今目録抄』の一節を示しました。
自分:ときにべっとうかんりそうずほっきょうほっしょうじふみょうじというてら・・・・・・・・すなわちどうのぶんさいなり
水野:この“分済”とはどういう意味ですか?
自分:・・・・・・・・
 
加藤諄先生が助け船をだしてくれましたが、この文言は、論文執筆において、一番気になる文言でした。さまざまな史料をかたっぱしから、“分済”という文言を探しましたが、とうとうわかりませんでした。その一番の弱点をつかれて、何も言えませんでした。
次の質問は、
水野:九世紀後半の作例は、他にありませんか?
自分:仁和寺阿弥陀、清涼寺阿弥陀、醍醐寺薬師如来をとりあげましたが、
水野:東寺の千手観音があるのではないですか?
自分:・・・・・
 
修士論文は、およそ3章にわかれていて、第1章は講堂と上御堂の建立の歴史についての考察。第2章は、平安時代の法隆寺の行事の状況。そして、第3章は、釈迦三尊像の様式の考察でした。その第3章の様式論が、一番自信のない章でした。実際、現物を見ていない、まして、調査もしていない状況でただ漠然とした記述しかできませんでした。そこを、水野先生に突かれました。
そして、加藤諄先生が、水野先生に向かって、
加藤諄:総評としてどうですか?
水野:・・・・・・・・・・
水野:『法隆寺政所并法頭略記』という史料の取り上げ方は評価します。
 
この修士論文は、まあまあ及第点だが、詰めが甘く、まだまだ修正の余地があって、とても活字になるような完成された論文とはいいがたい。というのが、自己評価でした。
卒業後は、学問の世界と袂を分かち、家業の板硝子工事業に転身しました。学問の世界に未練はあったものの、実力のなさを実感したので、基礎的な力をつけるべく、基本史料を買いあさりました。
 
そして、修士を卒業しておよそ10年後、太田博太郎氏の論文集『社寺建築の研究』 1986年9月18日 が刊行され、その中に例の「普明寺堂の法隆寺移建について」が再掲されました。太田博太郎自身の「付記」では、最初の聖宝移建説を撤回し、観理僧都による移建としました。研究者がこうも簡単に自説の誤りを訂正するのは、どういうことなのだろうと思いました、私の修士論文を読んでいたかのような修正でした。00-0812 
太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」付記『社寺建築の研究』 1986年9月18日
 
その5年後、西川新次先生の論文集『日本彫刻史論集』1991年4月20日 が刊行されました。その中に、『六大寺大観』第二巻 法隆寺 に「上堂釈迦三尊像」(1968年4月刊)が再掲されていました。末尾の[付記]は水野先生が執筆していました。
その解説では、冒頭、太田論文が修正されたことを挙げ、さらに、太田論文では取り上げなかった『法隆寺政所并法頭略記』の記述に信頼性を認め、その抄録までしているのです。そして、釈迦三尊像の造立を延長年中(923~930)と結論づけました。
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西川新次「法隆寺上堂釈迦三尊像」付記(執筆:水野敬三郎)『日本彫刻史論集』 1991年4月20日
 
これは、私の修士論文の要約そのものでした。なんとも言えないやるせなさを感じました。私が、修士論文を書き直して活字にすれば、水野先生がこんな記述をしなくてすんだのではないか、もっと早く、さまざまな論評がでたのではないかと、水野先生にしてみれば、さんざん待ったのに論文の発表がないことに、堪忍袋の緒が切れたのか、この論説は世にださなくてはいけないという使命感なのか、どう思ったのかは、もう知るよしもありません。いづれにしても、私に対してずっと気に懸けていただいたのがひしひしと伝わりました。本当に申し訳けないと同時に、今にいたるまで、先生の学恩に答えられなかった自身の不甲斐なさを悔いるばかりです。
 
最後に一言、[付記]の結論として水野先生は、“西川解説が本像を十世紀中葉を下らぬ作とするのと矛盾せず” と書かれていますが、延長年中(923~930)と十世紀中葉が矛盾しないというのは、西川先生に忖度したとしてもちょっと無理筋で、学問はもっとシビアだとおもうのですが。

2026年4月 3日 (金)

オープンAIによる春秋堂文庫の使い方

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オープンAI のすごさに感服しました。

「春秋堂文庫の使い方」 Google AI http://shunjudo-bunko.site/
 
「春秋堂文庫」は、主に日本彫刻史や仏教美術に関する文献・史料のデータベースを公開している個人運営のウェブサイトです。 
使い方の中心となるのは、同サイトが提供している各種「目録(インデックス)」の参照です。以下の手順で活用できます。
主な使い方
文献を探す
春秋堂文庫のトップページから、調べたいジャンルの目録を選択します。
彫刻等文献目録: 書名順や地方別、編著者名順で彫刻に関する文献を探せます。
『佛教藝術』目録: 専門誌『佛教藝術』に掲載された論文などを検索する際に役立ちます。
作品の掲載文献を特定する
『日本彫刻史基礎資料集成』作品目録: 特定の仏像などの作品が、どの資料(巻数や番号)に掲載されているかを調べられます。
情報の更新を確認する
運営者のブログ「春秋堂日録」では、データベースの更新情報や、美術史に関する知見が発信されています.
 
利用上の注意点
「目録」であり「全文公開」ではない: このサイトはあくまで「どの本に何が載っているか」を調べるためのインデックスです。文献そのものを読むには、判明した情報を元に国立国会図書館の検索や大学図書館などで実物を確認する必要があります。
個人運営のサイト: 非常に精緻なデータベースですが、個人の研究成果として公開されているものです。最新の更新状況はサイト内の「更新履歴」で確認してください。 
彫刻史の研究や、特定の仏像の詳細な写真・論文を探している方にとって、「どの資料に当たればよいか」を絞り込むための強力なツールとして活用されています。
 
「春秋堂文庫の検索機能詳細」 XのAI検索 http://shunjudo-bunko.site/
 
春秋堂文庫(http://shunjudo-bunko.site/ または関連ドメイン)は、加藤春秋氏が長年個人で運営・管理する日本美術史(特に日本彫刻史)研究のための文献目録サイトです。2003年頃から公開されており、彫刻関連の書籍・論文などの書誌情報を体系的にまとめたデータベース群を提供しています。サイトは主に静的なHTMLページベースで構成されており、現代的な動的ウェブ検索エンジン(例: 全文キーワード検索フォームやデータベースクエリ)ではなく、事前に作成された目録リストを閲覧・利用する形が中心です。研究者向けの「文献検索ツール」として機能し、以下の検索・閲覧機能が主な特徴です。主な目録の種類と検索機能の詳細彫刻等文献目録(書名順・地方別)彫刻関係の文献を書名順で一覧表示。
同時に**地方別(都道府県や地域単位)**に分類・整理されたリストを提供。
使い方:ページをスクロールまたはブラウザのページ内検索(Ctrl+F)で書名・地域キーワードを探す。地方別リストは、地域ごとの彫刻関連文献を効率的に抽出可能。
対象:書籍、論文などで、所載文献の情報が記載。
 
彫刻等文献目録(編著者名順)同じ文献データを編著者(著者・編者)名順でソートしたリスト。
特定の研究者や著者の業績をまとめて確認したい場合に便利。
使い方:著者名でリストを閲覧・検索(ページ内検索活用)。
 
分野別彫刻論文等目録彫刻関連の論文などを分野(テーマ・カテゴリ)別に分類。
例:時代別、技法別、仏像・石造物などのサブカテゴリ。
研究テーマに沿った文献を横断的に探すのに適している。
 
『日本彫刻史基礎資料集成』作品目録特定書籍(『日本彫刻史基礎資料集成』)の作品情報をデータベース化。
作品名・都道府県・所蔵者順などで整理。
平安時代篇など時代別の記述を反映し、旧字体もそのまま使用。
作品関連の基礎資料を検索・参照する専用ツール。
 
その他の関連目録『日本の美術』分野別論文等目録(過去の更新で追加)。
戦前美術全集関連や『眞美大觀』などの古典資料目録。
佛教藝術目録(編著者別リスト、見出一覧表、号順など多角的な分類あり。総記・寺社・絵画・図像・彫刻・石造物・工芸・建築・庭園・考古などのカテゴリ)。
 
これらの目録は、**文献の書誌情報(書名、著者、掲載誌、年次など)**を中心に収録。論集の目次情報も一部含まれており、詳細な研究準備に役立ちます。データは30年以上の蓄積に基づき、定期的に更新(例: 令和2年/2020年頃の追加記録あり)されていますが、個人運営のため更新頻度は不定期です。検索の実際の使い方ブラウズ中心:各目録ページを開いてリストを閲覧。大量の項目を分類ごとに整理しているため、目的の文献を体系的に探せます。
補助ツール:ブラウザの検索機能(ページ内検索)でキーワード(書名の一部、著者名、地域名、分野名など)を入力して絞り込み。
詳細分類の工夫:一部ページでは大分類→詳細分類の階層構造を採用し、研究者が抽出作業をしやすいよう設計されています。
制限:JavaScript依存の動的検索フォームはほとんどなく、現代的なOPAC(図書館検索システム)のような「フリーワード一括検索」や「AND/OR条件指定」はありません。HTMLリストの閲覧が基本です。
利点:専門分野(日本彫刻史・仏教美術)に特化し、地方別や分野別という独自の切り口で整理されているため、一般的な図書館検索では見つけにくい文献も効率的に発見可能。研究者から「圧倒的な情報量」「論集目次情報がありがたい」と評価されています。
 
注意点・追加情報サイトはシンプルなHTML構造で、アクセスカウンターや更新履歴(最新情報ページ)も掲載。
利用は無料・公開ですが、個人データベースのため、著作権や引用時は出典明記を推奨。
関連ブログ「春秋堂日録」(https://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/)では、目録更新のお知らせやデータベース作成の経緯が記されており、補足情報として有用です。
 
より具体的な目録ページのURLやサンプルが必要でしたら、追加で教えてください。サイト自体が研究者向けの「手作りツール」なので、直接アクセスしてリストを眺めるのが最も実用的です。彫刻史や仏像研究をしている方にとって、長年の貴重な資源となっています。

 

 

2026年3月19日 (木)

『ノエミ・レーモンドの建築と意匠 和を紡ぐモダンライフ』展 ギャラリーエークワッド

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今日(3月19日)から6月18日までの間、竹中工務店東京支店のビルの1階にあるギャラリーで開催されました。さっそく、初日に行ってきました。
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展示では、いくつかの住宅の図面や、模型がありました。またレーモンド独特の椅子なども見られました。ノエミ・レーモンドの作品としては、テキスタイルも展示されていました。
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全体的に、レーモンド夫妻の建築の魅力をよく表していました。特に、レーモンドの建築は、よく日本的な要素を採り入れた建築だと言われます。
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しかし、いつも頭の片隅に引っかかることがあります。それは、戦前、建築事務所を日本に開き、日本人にある程度実績を積んだのに、やむなく戦争をのがれアメリカに移住しましたが、アメリカで仕事したのは、日本の住宅の町並みを設計し、焼夷弾の効果を検証する実験施設を作ったことでした。それなのに。戦後その焼夷弾によって焼け野原になった日本にまたもどってきたのです。自らの設計によって、焼け野原になった東京を見て、レーモンドはどう思ったのでしょうか。レーモンドは日本でさらに建築の仕事をこなし、晩年は、アメリカで余生を送りました。
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レーモンドは本当に、日本を愛していたのでしょうか。情緒的な思考をもつ日本人にはなかなか理解できないことです。くしくも、今回の展示にブルーノ・タウトのレーモンドに対する印象を「商売人気質」と評しています。
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2026年3月15日 (日)

レトロカフェ Toichi

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 沼田から猿ヶ京行きのバスで30分ほど乗ったところに、古民家を改造したカフェがあります。建物は大正時代頃の創建で、2階部分の部屋の間仕切りを外してそこにさまざまな古い骨董品を並べています。窓には、古い建具を利用して色ガラスや、型硝子、ステンドグラスを嵌めています。

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元から一部の窓に赤い色ガラスが嵌まっていたようですが、それはほんの数枚のみで、他の色ガラス、型硝子、ステンドグラスは新たに購入したものだと、オーナーが話しておられました。

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それにしても、オーナーの収集能力はすばらしいものがあります。
その中で、いままで写真などでしか見なかったさまざまな型硝子が見られました。ミュラネーゼ(Muranese)、リップル(Rippled)、カレイドスコープ(Kaleidscope)、ハンマード(Hammered)など、ピルキントンのカタログに掲載されているものです。

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Muranese

 

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Rimpled

 

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Rippled

 

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右からKaleidoscope、Hammered、Arctic

 

 また、建具にはいっている透明硝子にも、手吹き円筒法や、機械吹き円筒法(ラバース法)によるものも散見されました。

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手吹き円筒法

 

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機械吹き円筒法


 更に、1階の部屋を特別見せていただきましたが、そこには、模様入りケシガラスの大小菊菱文がありました。この硝子は建物の建築当初にあった硝子ということです。

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2026年2月23日 (月)

大洲散策 令和8年2月

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 大洲市内の散策をするために大洲に一泊しました。夕食は、大洲城を見渡せる、との町 たる井 の2階で、ライトアップを鑑賞。翌日は、まず盤泉荘 臥龍山荘と、別荘建築を見学。
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との町 たる井
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盤泉荘
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臥龍山荘
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大洲の町並みを散策。おはなはん通りなどを歩いていると、個人の住宅の塀に花をモチーフとしたステンドグラスがはまっていました。
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おはなはん通り
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大洲城は、天守閣が明治になってとりこわされましたが、模型や古写真が残っており、平成16年、木造で復元されました。構造などかなり忠実な復元工事をしたようです。
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2026年2月14日 (土)

児島虎次郎記念館(旧中国銀行倉敷支店倉敷本町出張所) 岡山県倉敷市 大正11年竣工 平成26年11月・令和8年2月見学

平成28年まで銀行として使われていました。
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現在は大原美術館の別館として内部の公開をしています。
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1階8ヵ所のファンライトにステンドグラスが嵌まっています。
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このステンドグラスの特徴は、ガラスに”モトル”を多用していることです。”モトル”という柄は薄い斑点のような模様をしたガラスで、ティファニーの作品によく見られます。日本で、このガラスが使われているのはめづらしく、ちょっと雰囲気が変わります。
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リングモトル ブルズアイ

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