2023年11月26日 (日)

内行花文と連弧文

00-06

 鏡背の文様に、内行花文というのがあります。これは、高橋健自著『鏡と劔と玉』 明治44年7月刊 に図とともに明確に定義されています。それには、これを弧と言わずに花というのは、鏡形分類の六花鏡八花鏡と一致させるためだとしています。しかし、六花鏡・八花鏡は、鏡の縁にくぼみをつけて花弁のように見せた形をしているので、そういう名称になっているのでしょう。ちなみに、突起とくぼみを交互に配した鏡を六稜鏡・八稜鏡と称しています。

00-06_20231126201801

高橋氏は弧線の中部に葉尖(Cusp)がある文様を内行葉文と定義しています。この例は、新山古墳出土の2枚の鏡にあります。弧を連ねている文様は、中国の後漢時代に盛行した文様で、連弧文と呼ばれています。ところが、日本で造られた連弧文鏡は、内行花文鏡と呼びます、と高橋氏は宣言したのです。

 

00-06web

00-06web_20231126201501

梅原末治『大和國北葛城郡佐味田寶塚及大塚字新山古墳調査報告書』 大正10年10月刊 では、新山古墳出土の2例の鏡の文様を内行葉文と言って、突起のない弧を内行花文と言っています。それ以後、日本製の鏡は、連弧文とは言わず内行花文と呼ばれてきました。

00-06-011

00-06-02

小林行雄『古鏡』 昭和40年3月刊 では中国日本の区別なく、弧が連続していれば内行花文としています。そんな中、一部に内行花文ではなく、連弧文だという研究者があらわれましたが、それを事態を混乱させていると批判している研究者がいるのです。(中村千彰「内行花文鏡の研究」『古事 天理大学考古学・民俗学研究室紀要』12 平成21年3月)

00-06_20231126201701
 そもそも、高橋氏がこの文様を内行花文と定義した根拠が納得いくものではないのが問題なのです。単なる弧を花弁に見立てること事態大きな錯誤です。しかも、弧の中心に突起があれば、葉文とするのに、何もない弧がどうして花文になるのでしょうか。内行花文鏡という名で重文指定が11件あるのは名称についての検討はなされたのでしょうか。形態をよく観察すれば誰でも気がつくことですが、大御所の唱えた説は、誰もそれに異を唱えないという風土がはびこっている証拠です。ここでは、突起のある弧を内行葉文、突起のない弧を持つ文様を連弧文と呼ぶのが誰もが納得する正解です。

00-06-015
 同じように、十数年にわたって拙ブログで、薬師寺金堂薬師如来坐像は半跏趺坐だといってきましたが、最近刊の『近畿文化』888 令和5年11月刊で、いまだに結跏趺坐と断定しておられるのは、学説の忖度、学問の世界の閉鎖性、進取の精神の欠如が同様に表れています。まるで、時代を読めない浦島太郎のようです。

2023年10月28日 (土)

軽井沢夏の家(旧アントニン・レーモンド軽井沢別邸)

軽井沢夏の家(旧アントニン・レーモンド軽井沢別邸) 長野県軽井沢町 昭和8年竣工 令和5年10月見学

2031_20231028095201
2032_20231028095801
 この建物を初めて訪れたのは、昭和30年代で、おそらく小学校3年か4年生の夏休みだと思います。当時、この夏の家は南ヶ丘にあって、日本火災海上保険の幹部用保養所でした。その管理人をしていたのが、私の遠い親戚夫婦でその夫婦の招きで毎年のように夏に軽井沢に遊びに行っていました。特に、小学校5年の夏休みには、近所に一軒家を借りて、祖父母が夏の間暮らしていたので、かなり長い間軽井沢に居た記憶があります。その間、浅間牧場、鬼押出、白糸の滝などの観光地や、近くの離山にも登ったりしていました。

20

旧軽井沢に行くと、外国人向けの店が並んでおり、外国人がほぼ半数ちかく歩いていて、そこに馬に乗った外人が道路をどうどうと闊歩してまるで外国の観光地にいるようでした。外人向けに楽焼きといって、陶器に絵付けする店もありました。また、草津温泉に一泊旅行をしたとき、草軽電鉄に乗り、3時間かけて行きました。

2001

そんなこんなで、高校3年のとき、その頃、冬にスキー場だったところにあった民宿に、受験生が夏休みに長期滞在して勉強をすることが流行っていました。兄弟が多くそれほど裕福でない我が家は、親戚夫婦に頼んで、夏の家に居候することにしました。昭和41年のことです。この保養所は、幹部用だけあって、夏でもほとんど泊まり客がいませんでしたので、思う存分使うことができました。もちろん、主屋の部屋ではなく、増築した研修用の広い部屋の片隅で寝ていました。滞在しているとき、隣の別荘の管理人が訪ねてきました。今、オーナーは海外に行っているので、家の中を見せてくれるというのです。こぢんまりとした2階建ての建物でした。一階のリビングはお決まりの暖炉があって、雑然としていましたが、2階の寝室にいくと、青空のような無地のカーテンがすべての窓に掛かっているのが印象に残っています。その別荘のオーナーは、当時東北電力会長だった白洲次郎です。あとで、親戚夫婦の子息にそのことを話すと、よく、白洲正子さんが、夏の家を訪れて、母と世間話をしていたという話を聞きました。

2006

2001_20231028100001

2002

2004

2005

2003

2007
 さて、今回、夏の家が重要文化財指定になったことで、ペイネ美術館として、室内に絵を展示していたのを全て撤去して、建物の内部をできるだけ復原するかたちで公開することになりました。保養所として使っていた当時の記憶と、できるだけ創建当初にもどした現状とを較べて見ると、ほとんど変わっていませんでした。細部では、管理人室が増設されていたり、2階のもと設計室は、宿泊室としてドアを設けたりしていましたが、それももとにもどしていました。2階に上がるスロープは、この建物の中で、一番のアクセントになっていて、脳裏に焼き付いています。これが、建築学界で問題になったとは、思いもよりませんでした。

2010

2011

2012_20231028100401

2013

2014

2015

2016

2017

2018

ただ、タリアセンに移築した場所が、以前と大きく違うので、外から見ると、ずいぶん様子が違いました。南ヶ丘の時の建物は、高台にあり、南面が下がって、その下に保養所時代には長方形のプールがありました。プールの先にはゴルフ場のネットが貼られていました。現状では、下から見上げるような外観になっていません。なにか違和感を覚えます。
 レーモンドは、大正8年フランク・ロイド・ライトとともに来日し、昭和13年まで日本で仕事をし、アメリカに戻り、戦後昭和22年再来日し、昭和45年まで日本で設計事務所を開いていました。戦前20年、戦後24年、合計で44年間日本で仕事をしたことになります。レーモンドは日本を愛し、モダニズム建築を日本の伝統的建築に見いだしながら、新しい試みをしています。住宅の構造に「挟み梁」を採用したり、「芯外し」の手法を用いたガラス戸など、夏の家にも見られる手法をとりいれています。この夏の家は、コルビジェ案の剽窃だと建築界を賑わせた「蝶々屋根」になっています。それだけ話題を提供した建物だということを加味して重要文化財認定にいたったのでしょう。

2020

2021

2022
 レーモンドは昭和13年から戦後の昭和22年まで、アメリカで暮らしていました。アメリカ国籍をもっていたために日本にいられなくなったのでしょう。しかし、アメリカでは、焼夷弾の効果を実験するための日本家屋の設計をしています。戦後まだ焼け野原だった日本に再来日したときのレーモンドの心境はどうだったのでしょうか。それでも戦後24年間も仕事をした彼の心の内が理解できません。単に仕事をするために来日し、仕事ができなくなったのでアメリカに帰ってしまったということなのでしょうか。何か西洋人的な割り切り方をしていたとも思えるのですが。

2023年6月25日 (日)

求道会館(歴史編)

13-10501_20230625112301

 近角常観(ちかずみじょうかん)は、明治3年、琵琶湖の北東、滋賀県東浅井郡の浄土真宗大谷派の小さな寺院で生まれた。東本願寺経営の育英教校で学び、そこで優秀な人材として選ばれ、明治22年東本願寺の留学生として上京した。開成中学に編入し、その後、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。大学3年の時、東本願寺の改革運動「白川党宗門改革運動」に参画し挫折したが、明治33年山県内閣の宗教法案の反対運動で活躍し、後にその法案は廃案となった。この功績を評価した東本願寺は常観を欧米の宗教情勢の視察に派遣し、明治33年より3年間の外遊に旅立った。帰国後、東本願寺は常観を衆議院議員に出馬させようとしたが、常観はこれを固辞し、そのかわり、文京区本郷に土地と建物をもらい受け、明治35年、青少年の適切な宗教教育の場として「求道学舎」を開設した。

13-10502  13-10503

 日曜講話の場としての「求道会館」の建設計画は明治36年より始まった。設計は、荻野仲三郎などの仲介で、武田五一に依頼した。武田は、当時東京帝国大学工科大学造家学科の助教授から欧州留学し、明治36年の帰国後は京都へ行き、後に京都帝国大学で建築学科の創設にかかわっていたが、求道会館の着工まで10年以上かかっており、その間、複数回の設計変更がおこなわれて、大正4年ようやく求道会館が竣工した。

13-10511  13-10550


13-10554  13-10551

13-10552  13-10553
13-10555
13-10521

 その後、以前からあった「求道学舎」も関東大震災後の大正14年、武田の設計で鉄筋コンクリートで建て替えられた。常観は、この求道会館で、日曜講話を行い大変な人気を得ていたが、昭和16年に逝去。行年71才だった。その後、求道会館は、弟の近角常音に引き継がれ、昭和28年常音が逝去するまで、活動は続けられた。常音死後は、求道会館は施設を使用することがなくなり、荒れ放題となってしまった。
 平成6年、求道会館を東京都指定有形文化財に指定されたのを機に、平成8年9月に修理工事に着手し、平成14年3月に工事を終了した。施工は、会館創建時は戸田組の戸田利兵衛で、修理工事も戸田建設が請け負った。また、修理工事では、孫で建築家の近角真一氏も関わった。
 
参考文献
  求道会館修理委員会『東京都指定有形文化財 求道会館修理工事報告書』 2002年3月25日
  近角よう子『求道学舎再生』 平成20年4月30日
  FaceBook:「古い板硝子」求道会館(ガラス編) https://www.facebook.com/groups/4889876824428552

 

2022年12月24日 (土)

板谷波山、吉澤忠、小川三知と田端文士村

13_20221224115401

13_20221224122401

 陶芸家板谷波山は、茨城県下館の生まれで、東京美術学校彫刻科に明治22年入学している。その翌年、小川三知は同日本画科に入学。まだ開校間もない美術学校は少数の学生で、専攻科は違っても交流があったようです。木彫科の同級生には、後に美術院で彫刻の修理を手がけた新納忠之助がいました。板谷は、卒業後、石川県工業学校木彫科教諭として金沢に赴任。7年程勤めた後、学校を退職し、陶芸製作のために東京に移住しました。転居先は、田端512番地という台地の斜面の土地でした。そこで、窯を築き本格的に陶芸製作にいそしみました。

13_20221224115601

13_20221224115602

 一方、小川三知は、橋本雅邦を師とし、日本画の制作に励みました。板谷の一年後卒業すると、日本画教師として、山梨県尋常中学校、神戸市兵庫師範学校などで、教鞭をとり、ハウ女史の紹介で、アメリカシカゴ美術院の日本画教師として、明治33年渡米しました。
 その頃、医学生だった吉澤亀蔵は、まだ生まれたばかりの忠とともに板谷邸の裏に引越してきます。そこで、幼い数年間、板谷家との交流が行われました。

13_20221224115901
 小川三知は、明治44年、アメリカから帰国後、すぐに最新のステンドグラスなるものに注目をあび、建築学会特別会員となり、世界のステンドグラス事情についての講演を行うなど、帰国後から忙しくしていました。板谷は、田端の地を小川三知に紹介し、田端に住居と工房を作りました。小川の住居は台地の上にあり、南側に下っており、大変景色のいい場所だったようです。

13_20221224115701

13_20221224115702

 板谷波山と小川三知はお互いに、それぞれの仕事で忙しくしていましたが、小川三知の日記によると、煎茶の稽古などを一緒に受けていたことが記されていて、三知が死ぬまで、田端文士村で交流を続けていたようです。

13_20221224115703

13_20221224115801

 吉澤忠は、田端から引越した後も、よく板谷邸に遊びに行っていたようです。板谷の双子の男子と2つ違いだったこともあったのかもしれません。忠が中学2年生のとき、関東大震災がおきます。板谷邸は無事だったのですが、横浜の吉澤邸は全焼。それで、そのまま中学卒業まで板谷邸で下宿することになったということです。忠は浦和高校から、東京帝国大学文学部美術史学科に入学しました。

13_20221224115902

吉澤忠の父親亀蔵は震災後に家を建てることにし、板谷の友人の小川三知に玄関扉の額、ランマや、洗面所の窓などに、ステンドグラスを製作してもらいました。建物は京浜急行日ノ出町駅から野毛山公園に向かって坂と階段を登っていったところにありました。2015年に行ってみましたが、空き家でした。その後、建物が取り壊されたという噂を耳にしました。ステンドグラスが無事に残されていることを願うのみです。

140013

14011

 美術史学者吉澤忠は、南画研究を専門とし、『国華』に30余の論文、170余点の作品の紹介をしています。東京帝国大学では滝精一に師事し、卒業後は戦争に突入していったために、実績にあった職業につけませんでしたが、戦後、東京国立博物館の文部技官に39才にしてやっと就任しています。ところが、1年余りで依頼免官となります。戦後の文化財行政の混乱、新旧勢力の確執があったのかもしれません。戦後、吉澤は、東博勤務中にも、舌鋒するどい行政批判をしています。おそらくそれが免官の原因だったのかもしれませんが、美術品の見方、博物館での公開のあり方、美術品所有者との対し方、学界の封建性、文化財行政への批判など、いまでも議論しつづけなければならない基本的なテーマを、さまざまな雑誌に投稿し問題を投げかけています。それらのテーマに対して、今の美術史学者はどれだけ共有して発言しているのでしょうか?

吉澤忠論文の一部
 「行方不明の國寶」『東京新聞』 1946.10.30-31 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「御物と博物館ー皇室財産の處理についてー」『古美術』181 1946.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術史の封建性ー美術史學をはばむものー」『日本評論』21-12 1946.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術界の列侯會議」『サンデー毎日』 1947.1.26 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「日本美術の窓」『美術運動』3 1947.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「學問以前のこと」『美術と工藝』9 1948.3 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術品の公開」『國立博物館ニュース』8 1948.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「民族文化のためにー博物館のあり方と美術の見方ー」『東京民報』 1948.5.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術品の再評價」『美術運動』4 1948.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「繪畫の見方ー初めて畫をみる人にー」『國立博物館ニュース』12 1948.8 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「社寺見學禁止の問題」『國立博物館ニュース』14 1948.10 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「法隆寺金堂の火災」『新教育タイムス』12 1949.2 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「法隆寺はなぜ焼けたか」『アカハタ』600 1949.2
 「法隆寺」『教育と社會』4-5 1949.5 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術の世界」『BBBB』創刊号 1949.11 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「社會教育施設への入場料」『國立博物館ニュース』25 1949.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「参議院文化財保護法批判」『日本歴史』19 1949.9 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術を見るためにー博物館見學の場合ー「『社會科教育』31 1950.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「専門審議會への期待」『國立博物館ニュース』45 1951.2 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「眞物と僞物 美術についてのさまざまな感想(三)(四)」『ケノクニ』6-7.8 1951.7-8 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術と複製 美術についてのさまざまな感想(六)」『ケノクニ』7-4 1952.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「時評・美術品の海外輸出」『歴史學研究』160 1952.11 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「模倣ということ 美術についてのさまざまな感想(八)」『ケノクニ』7-12 1952.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「剝落模寫と復元模寫 美術についてのさまざまな感想(十)」『ケノクニ』8-1 1953.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「國立近代美術館に問う」『美術批評』1月号 1953.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「國寶をめぐって」『改造』34-4 1953.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「時評・畫は描かなければわからないかー近代繪畫の一つの問題ー」『歴史學研究』170 1954.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術と現代ー傳統と創造との問題ー」『日本讀書新聞』751 1954.6.21 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)

参考文献
板谷波山と吉澤忠
 吉澤忠「板谷波山先生の思い出ー出光美術館の講演からー」『陶説』290 1977.5.1
 吉澤忠「波山の人柄と日常生活」『目の眼』14 1978.1.1
 吉澤忠「大正時代の板谷波山」『炎芸術』4 1983.10.1
 田辺千代「美術史家 吉澤忠と波山ー波山さんのおくりものー」『没後50年 板谷波山展』図録 2013.10.4 毎日新聞社

板谷波山
 吉澤忠・中川千咲『板谷波山傳』 1967.3.26 茨城縣
 松田典子「板谷波山伝」『美学・美術史学科報』1 1973.3 跡見学園女子大学美学美術史学科
 『炎芸術』4 特集ー板谷波山・現代陶芸の原点に還る 1983.10.1
 『陶説』493 1994.4.1
 『常陽藝文』187 特集板谷波山 1998.12.1
 荒川正明編『板谷波山ー陶芸とその生涯ー』 2010.10.16 財団法人波山先生記念会
 『生誕一五〇年記念 板谷波山の陶芸』図録 2022-2023

吉澤忠
 『古美術と現代』 1954.8.25 東京大學出版會
 『渡邊崋山』 日本美術史叢書 1955.11.15 東京大學出版會
 『池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術』26 1973.3. 小学館
 『日本南画論攷』 1977.8. 講談社
 「物故者(昭和63年)」『日本美術年鑑』平成元年版 1990.3.30
 吉澤忠 年譜・著作目録編纂会『吉澤忠 年譜・著作目録』 1993.12.12

小川三知
 藤森照信「明治・大正・昭和のステンドグラス」『彩色玻璃コレクション 日本のステンドグラス』 2003.6.10
 田辺千代「小川三知ーアメリカ系スティンドグラス技法を伝えた稀代の芸術家」『日本のステンドグラス 小川三知の世界』 2008.4.20
 田辺千代「日本のステンドグラスー宇野澤辰雄と小川三知」『民族藝術』28 特集 ガラスの東西 2012.

板谷波山・吉澤忠・小川三知年譜

ダウンロード - e69dbfe8b0b7e6b3a2e5b1b1e383bbe59089e6bea4e5bfa0e383bbe5b08fe5b79de4b889e79fa5e5b9b4e8ad9c.xlsx

 

2022年11月 5日 (土)

新潟で紅葉狩り

 日帰りで新潟に行ってきました。天気は時雨れていて、紅葉はあまり映えませんでしたが、まあまあの色づきでした。
今回は、新潟を代表する2つの大富豪のお屋敷の拝見でした。ひとつは、朝日酒造株式会社の創立者である平澤輿之助が昭和9年まで、数年間かけて完成させた建物、松籟閣です。

15002

15003

応接室と呼ばれる洋館の窓に2カ所ステンドグラスがはまっています。補強棒も見えず、割れもほとんどなく、よく保存されています。

150101

150102

150103

150104

150105

150106

150107

150108

洋風寝室にある丸窓は、オパールセントグラスを使わず、淡い色の型ガラスが使われています。

150202

150203

150204

150205

150206

その部屋の引き戸には、ガラスモザイクが細長く貼られています。

15031

15032

15033


もうひとつは、石油王の館とよばれる中野邸記念館です。明治33年から37年にかけて石油王中野貫一、忠太郎親子によって建てられたという大豪邸です。本館の邸宅は総2階建てで、部屋数がいくつあるのかわかりません。

1500

その中で、廊下から部屋に入る額入り障子には、ほとんど模様入りケシガラスが嵌まっていて、4種類の模様を確認しました。

名前不明の文様

15021

15022

蜀江文は2種類ありました。

15031_20221105135501

15033_20221105135501

15041

15043

鳥羽・かどやにあるのと近似しています。

15051

15052

名前不明文様

15061

15062


また、手吹き円筒法と思われる透明ガラスも確認できました。

15071

15072

となりの泉恵園には、行けなかったのですが、ここの紅葉は今が見頃でした。

1508

2022年10月14日 (金)

『祈りの仏像 出雲の地より』展で思うこと

3201

 9月の終わりに松江まで行ってきましたが、今回は、いままで気になっている仏像が出品されていたので、大変満足感のある展覧会でした。もう一回現地に運んでわざわざ見に行かなくてもよくなったのは、本当にありがたい。
 そのひとつは、鰐淵寺観音菩薩立像(692年銘)です。その台座の格狭間を見たかったのです。いわゆる白鳳時代の格狭間の形状についてその一例を確かめることができました。
格狭間は、ひとつの装飾であり、時代にによってその特徴が現れるので、白鳳時代の格狭間の作例をまとめることによって、時代判定に資するとおもわれるからです。特に、鰐淵寺観音菩薩立像は銘文があり、基準作例となるものです。それで、四十八体仏を中心として、台座の格狭間の形状を見てみると、およそ3パターンに分類されます。

Ⅰ型:鋭角の突起が1つある形
Ⅱ型:鋭角の突起が2つある形
Ⅲ型:鋭角の突起が1つ内側にくぼむ形か、くぼみがない形

13_20221014105901

Ⅰ型の例:法隆寺献納144号、148号、153号、162号、187号、鰐淵寺観音菩薩
Ⅱ型の例:法隆寺献納163号、164号、165号、狛坂磨崖仏
Ⅲ型の例:法隆寺献納167号、184号、185号

Ⅰ型の格狭間

1314401

法隆寺献納144号

 

1314801

法隆寺献納148号

 

1315301

法隆寺献納153号

 

1316201

法隆寺献納162号

 

1318701

法隆寺献納187号

13

鰐淵寺菩薩立像

 

Ⅱ型の格狭間

1316301

法隆寺献納163号

 

1316401

法隆寺献納164号

 

1316501

法隆寺献納165号(辛亥年銘)

 

24

狛坂磨崖仏

 

Ⅲ型の格狭間

1316701

法隆寺献納167号

 

1318401

法隆寺献納184号

 

1318501

法隆寺献納185号

 

これらの仏像の台座の格狭間は、1つあるいは2つの突起を表す形状をしており、以後の時代の格狭間には見られない形式です。その中で、法隆寺献納165号は辛亥年銘(651)を有し、この格狭間は、狛坂磨崖仏の格狭間と全くといっていいほど共通点があります。格狭間という装飾は、仏像製作における決まり事(儀軌など)にはかかわらない形状といえるので、時代を充分に反映している装飾とみるべきでしょう。

 

もうひとつ、もう1回現地へ行って確かめたかった仏像が、今回、3体も出品されていました。
ひとつは、仏谷寺菩薩立像(伝虚空蔵菩薩)と、大寺薬師の4体の菩薩立像のうち、伝観音菩薩薩と伝月光菩薩像です。
この3体とも、目の形状に注目をしていました。仏谷寺菩薩立像の目の形状を見てみると、眼球の膨らみを彫刻し、その膨らみに上下の瞼を薄く彫っています。単眼鏡で見ると、墨て黒目を描いているようです。

32

仏谷寺菩薩立像


大寺薬師の2体の菩薩像も眼球の膨らみを表し、上下の瞼を彫っているのですが、三日月状に極端に下に彫られています。下瞼は、眼球の膨らみの下端の線より上にあり、眼球の膨らみを彫った後に瞼を彫ったことがわかります。

32_20221014101201

大寺薬師伝観音菩薩

 

32_20221014101301

大寺薬師伝日光菩薩


なんで、こんなに下のほうに、見下ろすような目の配置になったのか気になっていました。以前、ひとつの仮説として、この2体の仏像は、工房で作品を仕上げた後、寺院に安置して、崇拝者の下から見上げる目線と合わせるために、現地で目だけ彫ったのではないかと想像しました。
もとはといえば、井上正氏が、“目のない仏像”について論究したことでした。なぜ目のない仏像が存在するのか?について考えると、この3体の仏像も、もとは目を彫っていなかったのではないかと想像しました。これは単なる霊木化現ですまされない理由があるのではないか、もう少し精緻に追求すべきではないかとおもうことが続いています。

3202

2022年10月 7日 (金)

旧須藤邸 色硝子・型硝子・加工硝子編

10001

 旧須藤邸にはステンドグラス以外にも戦前のさまざまな板硝子がはまっています。
まずは、色硝子から。大正後期に増築されたとされる奥座敷の建物の中の風呂場周りにあります。
まず、廊下と風呂場の間の引き違い戸

1016b

廊下の突き当たりにある引き違い戸

1017c

風呂場の中の引き違い戸

1015a

そして、主屋からの廊下の引き違い戸にあります。

1019d

色硝子は赤・緑・黄・青の4種類と結霜硝子を組み合わせています。その内、青の硝子にはサクラの模様を抜いたサンドブラストを施しています。さらに、廊下の小さな青の色硝子の1カ所は、サクラではない模様がサンドブラストしています。あとで、写真を見てみると、透明の硝子には“大小菊菱文”の模様入りケシガラスがあるのを発見しました。風呂場周りの窓は、いわゆる“山パテ”によるガラスの取り付け方法をしています。

10181

1022

1020

10161b
次に型硝子ですが、国産のモールをのぞいて、ほとんど舶来の型硝子のようです。
サロン入口の上が半円のドア

1009

サロンの廊下のランマ

1012

10331

2階の窓

10251

1階サロン入口の引戸は、国産のモールよりさらに幅の狭いストライプ柄で、ステンドグラスで使われるCode(コード)と言われる型模様のようです。

1032


最後に加工硝子には紐抜きと絵柄のサンドブラストがありました。
まずは、紐抜きから2階の窓に”蕨木爪”があります。

1027

1階風呂場の窓の下部には“角丸”と“子持ち木爪”があります。

1023

1024

1階の居室の引戸他、サロン2階の吹き抜け部分にある引戸など、ランマも含めて、“内丸子持”という模様が全般的に使われています。大判のガラスの加工は、板そのものの製造と製造機械の関係でおそらく戦後の加工とおもわれます。

10311
その他、居室の座敷窓のストライプ柄

1030

2階の窓は花模様の図柄のサンドブラストが2カ所あります。

10261

10282


さらに、廊下の照明器具の傘にも模様入りケシガラスと思われるガラスが使われていました。

1029
色硝子と型硝子については、なかなか時代判定は困難ですが、いわゆるサンドブラストによる加工は、すくなくとも、大正期に入らないと作られていません。さらにサクラや、大小菊菱文のような加工は、型紙を使った技法で、大正から昭和初期ごろまでに流行った加工方法です。紐抜きは戦後も加工されていましたが、需要が落ち込んでしまって、もうその製造機械を探すのも苦労します。

2022年10月 6日 (木)

旧須藤邸 ステンドグラス編

1000

桐生市の住宅街に2階建ての大きな白い外壁の洋館があります。かつて金善織物株式会社の事務所兼住宅として明治前期から後期にかけて建てられたとしています。その後大正10年頃、増改築工事をしたようです。そして、所有者が須藤氏に替わり、数年前まで住んでいたようで、手入れもまだ行き届いています。今の所有者になって、月1回の公開に踏み切ったそうです。
 さて、この洋館には、10カ所以上にもおよぶステンドグラスが存在しています。そのほとんどがサロンと称する吹き抜けの建物の窓、ランマに取り付けられています。この南側の建物は、パンフレットによると、明治前期の建物で大正時代に改造したとしています。
そのサロンの前に、玄関横にある鳥のパネル。鳥の腹部と木の幹はリップルを使っています。

1001
10011

サロンに入る扉のランマに真ん中が大きく、左右に小さい花を配し、両脇には結霜硝子をいれているパネルがあります。赤の硝子はハンマードのようにも見えます。

10043

100413

その横には梅に鶯の図柄の日本画のようなパネルがあります。木の幹にはリップルを使って古木の質感をだしています。

1005

10051
10052

サロン入り口のランマには、2連の細かい花束模様のパネルがありました。これはかなり細かいピースを使っていますが、全てケイムでつないでいるようです。

10062

100612_20221006141601

応接間入り口のランマには真ん中に大きなつる花の模様、左右に小さな花が配置されたパネル。背景の硝子は細かな柄の型硝子を使っています。

10073

100713

もう一つのランマは中心に青の硝子を配した抽象柄のパネル

1008

サロンの大きな引き違い窓には、藤に孔雀の図柄のパネルがあります。背景の硝子はリーミーを使い、藤は幹から花まで表現していて、木の幹から花、さらに孔雀もすべて銅箔によるいわゆるティファニー方式でつくられています。

1010

10101  
10104
1010210103
その横の少し幅のせまい上げ下げ窓には、チューリップが左右それぞれの窓に描かれています。

1011

10111

玄関から東側の居室には、菖蒲だろうとおもわれる花のパネル。花、葉の部分はティファニー方式のようです。

1013
10131
2階の階段室のファンライトにバラと2頭の蝶の図柄のパネルがあります。

1014

最後に玄関右横の引き違い戸に花の模様が2種類あります。どうもこれは新しそうです。

102115

その他、玄関と風呂場にステンドグラス枠の鏡が1つづつありました。

1002

10021

ステンドグラスの主なものは、玄関の鳥と居室の菖蒲、2階階段室の花と蝶以外は、サロンのある建物に集中しています。図柄、技法などを見てみると、戦前のものとしてもいいのかなとおもいます。作者は、不明ですが、須藤家の歴史史料などが発見されれば、わかる可能性を秘めています。それにしても保存も大変すばらしく、よく維持できたなと感心するばかりです。

2022年9月23日 (金)

羽下薬師堂と西刑部観音堂

 もう半世紀ほど経ってしまいましたが、大学院生の頃、ゼミの一年先輩の尾崎さん(後に京都国立近代美術館館長)が車をだすというので、日帰り旅行をしようという話になりました。いっしょに行くことになった若林先輩(後の福島県立博物館から東京家政大学教授)も同行ということなので、宇都宮市内にある羽下薬師堂と西刑部観音堂を見たいと提案しました。突然のドライブなので、何のアポイントもとらないで、突然行ったものですから、羽下薬師堂は地域で管理している管理人の家を訪ねましたが、留守でかないませんでした。そして、西刑部観音堂(現 大関観音堂)は墓地の中にある堂で、これは、拝観がかないました。この像は、昭和56年に修理をしたので、修理前の状態を見たことになります。
それから、数年たった頃、小生はもう商売を始めていましたが、しばしば、休日に後輩をつれて関東近辺の寺院巡りをしていました。それで、後輩で大学院生だった成沢君(後に早稲田大学教授)に、栃木県立博物館の準備室に知り合いがいるというので、羽下薬師堂の拝観の手配ができないか頼んでくれました。それで、自社の車に後輩を乗せて宇都宮にいくと、栃木県立博物館準備室の北口氏(元栃木県立博物館学芸員)が待っていてくれました。それで、茅葺きの小さなお堂の中の厨子にはいった薬師如来立像を拝観することができました。北口氏は熱心に管理人に是非厨子から出したいと要望しましたが、地域住民の合意が必要ということでかないませんでした。

その後、西刑部観音堂(現 大関観音堂)の菩薩立像を拝観しました。その時は修理が終わったばかりのきれいな容姿でした。あまりにも黒漆が光っているのが印象的でした。こうも印象がかわるのかとおもいました。

0901_20220923111801

0902

0903

 

0901

 さて、羽下薬師堂の薬師如来のほうですが、螺髪は、肉髻部にはなく、額の上部のみに切りつけられているように見えました。顔部では左目の上にえぐれたような傷があり、両手は欠失していて、特に右手先には、手先を無造作に釘で打ち付けていました。そして、両足先は腐食しているようで、小さな厨子の中に立てかけてある状態でした。表面は全体的に黒漆のようなものが塗られているようでした。

0902_20220923112001

0903_20220923112001

それから数十年後、薬師如来像は無住の羽下薬師堂から近くの能満寺に移され、修復後、新しく六角堂を建てて安置した、という情報を入手しました。その写真をみて、ビックリ仰天! 頭にカツラのようではなく、明らかに帽子を被せたような螺髪がありました。この修復は、誰がどのような方針でなされたのだろうか?と首をかしげました。いかにも、仏像に帽子を被せているように見えること自体異常です。しかも、修復前の螺髪の形状とまるで違います。

0901_20220923112101

ところが、今回の展覧会に出品されると、一転、その帽子の螺髪が取り除かれていたのです。これは、どういうことなのでしょうか?図録の解説では、平成7年(1995)に修理が行われ、“着脱可能な螺髪、両手首先、一部の衣文表現などは修理で復元され補われた”としています。この修復での問題点は、当初、切り付けの螺髪があるのに、それを削って着脱可能な螺髪を被せたことです。従って、螺髪の大きさもまるで違ったものになってしまいました。それだけで、印象がかわってしまったのです。

0902_20220923112101

0903_20220923112101

 たしかに、帽子状の螺髪は、見た目不自然さを感じます。しかし、博物館は、なぜ帽子をはずしたのでしょうか?見た目がわるいから?そもそも当初は、螺髪がなかったから? たんに見た目が悪いから、修復者の意向を無視していいものなのでしょうか? 当初は螺髪があったのにそれを削った状態をみせて、当初のように見せるとしたら、それは、何かの意図があるようにおもえます。すくなくとも、博物館に展示する際に帽子螺髪を取り外した経緯は学術的に説明するべきでしょう。見た目が悪いから というのは学術的説明ではありません。あくまでもファクトとエビデンスにもとづいた説明でないと。念のために。

2022年9月21日 (水)

イッタラ展

07_20220921202801

09_20220921203401

10_20220921203401

08_20220921203401

12_20220921203501

11_20220921203501
 私が北欧デザインを知ったのは、大学で受けた“デザイン論”という授業からでした。先生は、当時、金沢美大の教授だった藤森健次先生でした。早稲田の美術史の傾向からはずいぶんと外れた授業内容でした。早稲田の美術史は、伝統的には、文献と実物を両輪のように研究するといわれ、むしろ、文献を重要視する傾向にあったようにおもいます。ところが、藤森先生は、スライドを多用し、さまざまな分野でのデザインについて見せてくれました。印象にのこったのは、先生の奥さんが北欧の人で、その洋服のスライドで、北欧のテキスタイルを見せたことでした。他の美術史の授業と違って、いつも新鮮な期待がありました。また、当時大森にあった「各務クリスタル」の工場見学。益子の窯元(しかも島岡達三窯)の見学など、実際の現場に連れて行ってくれました。
そして、私の義理の兄が、北欧家具の輸入商社に勤めていた関係で、北欧家具が家の中に増えてきました。時は、バブルのはじまった頃、同年代の仲間は、稼いだお金の使い道を探して海外旅行、車、ゴルフと遊ぶためにお金を使っていました。私はというと、ひたすらすぐ読みもしない文献を買いあさっていました。リタイアしたときに使えるようにといった壮大で、無謀な計画からでした。
その頃、船橋に“イケア”という家具のスーパーのような店がオープンしました。大きな倉庫の中の棚に、梱包した家具が置いてありました。それを持ち帰り、自宅で組み立てていました。北欧家具のリーズナブルで、シンプルなデザインが新鮮な感覚に感じられました。
そのイケアの店の中に“イッタラ”の硝子器の展示コーナーがありました。フランスのバカラのような鉛ガラスで豪華なカットの入った器とちがって、実にシンプルで使い心地のよさそうなデザインでした。しかも、調べて見ると、当時、4人のデザイナーがどの器をデザインしたかを箱に表示していました。いわゆるガラス器メーカーでは、よほど有名な作家でない限り、誰がデザインしたかは見せず、自社ブランドとして売り出していました。イッタラはデザイナーがそれぞれ個性あふれるデザインをし、デザイナーの名がわかるガラス器を発売していました。値段も手頃なので、何度か通って、購入しました。それが、現在所有の3セットです。

01_20220921203001

KALEVA(Tapio Wirkkala)タピオ・ウィルカラ

03_20220921203001
UNIKKO((Tapio Wirkkala)タピオ・ウィルカラ

02_20220921203101
ARKIPELAGO(Timo Sarrpaneva)ティモ・サルパネバ

その当時は、他に
カイ・フランク(Kaj Franck)
アルヴァ・アアルト(Alvar Aalto)
アイノ・アアルト(Aino Aalto)
のデザイナーがそれぞれのブランドを出していました。

今、イッタラのサイトを見ると、
オイバ・トイッカ(Oiva Toikka)
ヘイッキ・オルヴォラ(Heikki Orvola)
アルフレッド・ハベリ(Alfredo Habeli)
クラウス・ハーパニエミ(Klaus Haapaniemi)
の作品が売り出されているようです。

今回の、Bonkamuraザ・ミュージアムで開催された展覧会は、イッタラの歴史だけではなく、フィンランドのガラス工芸の全てにわたった展示でした。学生時代、藤森先生から繰り返し北欧デザインの素晴らしさを教えていただいた記憶がよみがえるようでした。図録を見ると、先生はその頃、フィンランドデザインを普及させるべく日本で奔走していたそうです。
そんなこんなで、今回の展覧会で購入したのは、まだ所有していない、アルヴァ・アアルトのアアルト ベースとアイノ・アアルトのコップをゲットしました。

04_20220921203101

アアルト ベース

05_20220921203201

アイノ・アアルト

その他に、今、使っている小鉢、色ガラスのシンプルなコップなどを所有しています。普段使っていても全然飽きが来ないデザインです。あまり思い入れが過ぎると、それぞれのデザイナーの作品がほしくなります。オ---ット!!、くわばら、くわばら、私はコレクターにはならないと誓っていますので。

06_20220921203301

«橋本の香(旧三桝楼)のステンドグラス

2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ