誠之堂、清風亭
埼玉県深谷市からタクシーで15分ほどのところの川沿いに、大寄公民館があります。まわりは、ネギ畑で、その公民館の敷地に誠之堂と清風亭が建っていました。
誠之堂は大正5年竣工で、渋沢栄一の喜寿を記念して建てられました。煉瓦造で、外観は英国の農家風に造られています。施工は清水組。平成15年に国重要文化財に指定されました。
清風亭は大正15年、当時第一銀行頭取だった佐々木勇之助の古稀を記念して建てられた建物です。鉄筋コンクリート造で、部分的にタイルと煉瓦をつけ、スペイン風の様式をとっています。施工は同じく清水組です。埼玉県指定文化財に指定されています。
この2棟は、以前世田谷にあって、第一勧業銀行の所有でした。平成9年になって、取り壊されることを知った深谷市は急拠、銀行からこの建物を購入し、平成10年にこの地に移設をしたのでした。
誠之堂には両開き窓3個所に6面、内部の化粧室入口の両開き戸に1個所2面のステンドグラスが嵌っています。
両開き窓は中国漢代の画像石を題材にとった庶民貴人を饗するの図としています。図案は図案科出身の清水組の技師森谷延雄に描かせたもので、「建築雑誌」によると関野・佐野両正員より援助してもらった。としています。関野とは関野貞ですが、佐野とは誰なのかはわかりません。
背景は白のオパールセントグラスを用い、人物はかなり細かな線でつないでいますが、眼や鼻、口などは、ガラスの上にハンダを載せて、輪郭を表しています。つまり、このステンドグラスはいわゆるグリザイユの技法を使わず、すべてガラスと鉛線で表現しているのです。このような人物像を表現するには、いわゆる硝子に筆で描くことが普通ですが、このステンドグラスの職人は敢えてそれをしなかったのか、絵付けの技術がなかったのかのどちらかだとおもいますが、よくわかりません。
『誠之堂ステンドグラス調査報告書』によると、製作者は宇野澤組ステンドグラス製作所だとしています。その当時は別府七郎か木内眞太郎が宇野澤組で仕事をしており、そのどちらかの手によるものかと思いますが、何故、筆で絵を描かなかったのかはわかりません。
このステンドグラスはオパールセントグラスという不透明の硝子を使っていますので、いはば、窓としての機能よりも、額入の絵画としての意匠を狙ったのではないかとおもいます。
化粧室入口扉は鳳凰と龍をモテイーフにしていますが、これも、鉛線のみで表現しているのと、硝子の色使いがどうもしっくりいかないのか、よく見ないと、龍か鳳凰かわかりません。
清風亭は大部屋の両妻を曲面で膨らまして、そこに、3個所の上がアーチ状の窓硝子をつけています。その窓の三方のまわりにキャセドラルガラスをつかって抽象模様のステンドグラスをはめています。この窓はいはば、窓硝子の装飾としてアクセントを付けるためのようです。
誠之堂のステンドグラスはその図案製作者がわかっています。ステンドグラスの製作が宇野澤組だとすると、施主・設計・製作の3者が判明している作品ということになります。たしかに、図案はのちにインテリアデザイナーになった森谷延雄ですが、実際の図案と現物との違いは相当あったようにおもいます。とても森谷が描いたいたとおりにはできていなかったのではないのでしょうか。どうもそんな気がしてなりません。
帰りに深谷市役所によって、『誠之堂ステンドグラス調査報告書』が手に入らないか問い合わせにいきました。すると、ロッカーからその本をとりだして、もう在庫が少なくなってしまって、わけられません。というのです。この本はカラー図版の部分が多いので、コピーではだめなので、どうしてもほしい。と頼むと、担当者は近くの上司に相談しに行きました。上司はチラッと私の人相を見て、やはりダメだというのです。まあ、役所とはそんなもんです。
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