渡辺与平伝
渡辺与平伝
・明治22年(1889)10月17日、長崎市西古川町に宮崎徳三、ケイの次男として誕生。
・明治35年(1902) 4月、13才、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。その間、鹿子木孟郎の私塾に入門。水彩画を習う。
・明治39年(1906) 3月、17才、京都市立美術工芸学校を卒業。
・同年 4月、上京。5月頃、大平洋画会研究所に入所。
・同年 7月頃より『中学世界』『文章世界』『ホトトギス』にコマ絵を掲載しはじめる。
・この頃、平尾贊平商店の広告部に籍を置く。日暮里七面坂下の三枝館に下宿。
・明治40年(1907) 3月、渡辺文子、女子美術学校を卒業し、その後、大平洋画会研究所に入所。
・同年 秋、18才、与平、脚気と肋膜炎を患い、療養のため長崎に帰省。
・明治41年(1908) 9月初旬、再上京。
・同年 10月、19才、第2回文展に『金さんと赤』(長崎県美術館所蔵)で入選。
・明治42年(1909) 4月、渡辺文子と結婚、渡辺姓となり、巣鴨の文子の両親の家に同居。
・同年 10月、20才、第3回文展に、落選。
・明治43年(1910) 5月、挿絵を担当した『笛の力』が出版される。
・同年 8月、長女美代子誕生。
・同年 10月、第4回文展に『ネルのきもの』(現泉屋博古館分館所蔵)で三等賞受賞。
・同年 11月、コマ絵画集『コドモ 絵ばなし』を出版。
・同年 12月、挿絵を担当した『おとぎばなし集 赤い船』が出版。『ヨヘイ画集』を出版。
・明治44年(1911)10月、21才、第5回文展に『帯』(渡辺与平展表紙、長崎美術館所蔵)、『こども』(個人蔵)で入選。
・明治45年(1912) 1月、大川端の佐々木病院に入院。
・同年 3月、退院。築地へ転居。
・同年 4月、長男一郎誕生。日本橋病院に入院。
・同年 6月9日、咽頭結核と肺炎のため死去。享年22才。
・同年 6月、「渡辺ヨヘイ遺作展覧会」が長崎図書館で開催。
・同年 9月、「故渡辺与平氏遺作展覧会」が上野竹之台陳列館で開催。
・大正2年(1913) 6月、『ヨヘイ画集 愛らしき少女』が出版される。
・平成20年(2008) 1月、「渡辺与平展」が長崎県美術館で開催。
・平成21年1月30日、毎日新聞大阪版に「夢二と張り合ったイラストの元祖」というタイトルで記事を掲載。
実質わずか6年間の画業しかない画家ですが、その人世は内容の濃い生き様だったようにおもいます。とくに、3才年上の才媛、文子と結婚したことは、与平はほんとうに幸せだったろうとおもいます。しかし、その幸せの時間があまりにも短すぎたのでした。
長谷川時雨『美人伝』のなかに「ネルのふみ子」という一文があります。その一節を紹介するにとどめておこうとおもいます。
初戀の人ー宮崎與平が初戀の人としてふみ子を描いてから『ネルの着物』時代までの、ほんの短い巣鴨の新居が又と繰りかへすことの出来ないふみ子の思出になってしまった。『ネルの着物』は文展の三等賞になって、後に伊太利の博覧會に出品された。・・・ふみ子の悦びはどれほどであったか。自分は藝術家の誇をすてゝも、子供の面倒を見ながら戀人の夫につかへる喜こびを樂しんでゐた。巣鴨の空に見ゆる雲は飛んでゆく行方まで二人で追って、二十四と二十二の年はふみ子の生涯にいつまでも幻となってゐるであろう。苔の下の屍の與平にも、生涯にその時ほどの人世の味はなかったことであらうと思われるほどであったが、その幸福は翌年の晩春までで、人世の花も其年の春の名残の雨と共に過ぎさつて、再び二人の顔には晴れやかな笑ののぼる日がかへって來なかった。
ふみ子がさる年の文展に出した『はなれゆくこゝろ』といふのは、與平の描いた肖像の自分をそっくりそのま冩して體だけをだしたものであった。心に思出多く、故人となってもふみ子の魂の中に與平は生きてゐる。けれどもふみ子は此頃人にむかってかういったといふ。
『私の面影に昔のふみ子の殘ってゐるのは眉ばかりだ。目も口許もしっかりちがってしまった』と。
何といふかなしい言葉であらう。ふみ子の心には、戀に生きてゐた時代、夫に描かれて殘ってゐる面影ほど自分に懐しい時はあるまい。二人の遺児を餓させまいとする努力、夫の藝術を繼いでゆかうとする決心、そのなみなみならぬ心づかひが、むかしの面影をなくさせたのは道理であるが、ふみ子にはそれがどのやうにか悲しいことであらう。
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