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2009年3月10日 (火)

平木収君

 平木君にはじめて会ったのは、茶房早稲田文庫でした。たしか、私が大学院に入った年だから、昭和47年だったとおもいます。いつものように茶房へ行くと、店長の日下さんといっしょにカウンターの中で仕事をしている人がいました。日下さんが新人だと紹介すると、実は二文の学生で美術の専攻に行きたいのですが、と私に相談を持ちかけてきたのが最初だったとおもいます。あとで、わたしと同様に茶房の常連だった齋藤君がじつは平木君の高校の後輩だったことがわかり、大学では先輩で、高校では後輩になるといったややこしいことから、打ち解けていきました。平木君は茶房には1年位しかアルバイトはしていなかったと記憶していますが、持ち前の人づきあいのよさから、やめたあとも、茶房にかかわりをもって、オーナーの富安さんや我々常連と話をしたり、飲みにいったりしていました。Photo_5
 ある時、私が研究室で仏像の調査をしたとき撮った写真の焼付を平木君にたのみました。調査のとき撮った写真は6×9のネガだったので、それに対応する引伸し機がなく、当時写真部に籍を置いていた平木君にたのんで、写真部の引伸し機をつかわしてもらったのです。5~60枚をてなれた仕草で、焼き付けをしてもらいました。そして、乾燥ドラムが美術史研究室にあったので、それを使いに研究室にいくと、バッタリと佐々木剛三先生に出会ったのです。先生は平木君を学部の授業で知っていたらしく、「なんだ君は写真をやるのか」とおっしゃったのです。その後、先生はいろいろ写真のことで、平木君にたのみごとや、相談をしていたようです。
 私が大学院の修士を卒業して、家の商売をはじめた5月の連休に平木君と、大学院の美術史にいた齋藤君、仲嶺君の4人で京都旅行をしました。平木・齋藤君は京都出身で、仲嶺君は大学が同志社だったので、私が京都を案内してもらうということでした。宿は平木君の伏見の実家に泊めさせてもらいました。平木家の父君は会社勤めながら、趣味で篆刻をやっている人で、それも趣味の域をこえた実力の持主で、たのまれて書を揮毫したこともあったようです。ものしづかな御尊父で、子供を遠くからあたたかくみまもっているといった風情でした。しかし、本人はじつに調子よく気配りの人生をあゆんでいました。
 旅行中、私が京都でそばのうまい店があるのか尋ねたところ、まかせてくだいと胸をはって言うのです。その店にいくと、何やら老舗のお茶屋という玄関のつくりです。平木君はようようと、玄関にはいって空いていますかと尋ねると、そこの女将は、彼の風体をみて「すみません。あいにくと満員でおことわりしているのです。」というのです。あの格好で、京都の老舗にいって予約なしで入れるわけがありません。京都人が京都のしきたりを知らなかったのです。
 そうこうしているうちに、平木君と齋藤君の伏見高校の先輩後輩は、既定の学年を過ぎていってしまいました。そんなとき、佐々木先生か加藤先生の紹介だったかは定かではありませんが、二人そろって図書館の特別資料室でアルバイトをすることになりました。その時の室長は柴田光彦氏、その下に松本さんというユニークな人がいました。特別資料室に遊びにいくと、和本の修復の手伝いをしていました。紙に古色をほどこしたり、とその中でも、実に要領よく仕事をしていたなという印象でした、というよりも、松本さんに二人ともよくかわいがられていたなという印象でした。
 その後、佐々木先生の紹介で、京都の光村推古書院で仕事をしていたようです。奈良国立博物館でもアルバイトをしていたようです。そして、ヨーロッパに単身旅行をして、いよいよ写真で生きる覚悟ができたようです。それからは、写真雑誌のコラムや、展覧会の企画などをやり、着々と写真評論家の地位をかためていったのです。
 平成10年の秋だったか、突然、私の会社に電話が入りました。じつは、佐々木先生の古稀のお祝いの会があるので、来ませんかという誘いでした。私はこの業界(学界)から遠ざかっていましたので、情報が入ってきませんでした。平木君は私と佐々木先生の関係をじつによく知っていました。彼の気配りに感謝しました。先生はその一年後に亡くなり、これが最後の対面でした。Photo_4
またその翌年だったか、私のゼミの先輩だった多摩美のヨコチューこと横田忠司さんの葬儀の時に会いました。そのときは、昼食をともにしながら、今やっていること、これからのことなどを、じっくりと二人で話しました。その当時は、大学の非常勤講師や、雑誌にコラムなどを書いていましたが、もうそろそろおちついたらどうだ、というようなことを私が言うと何となくうなづいているようでした。さらに、これから、もうそろそろ体系的な写真史の本を書いたらどう、とけしかけると、まんざらでもなさそうでした。
それから、風のたよりに平木君が九州産業大学に就職したのを知りました。やっと落ち着いてくれたか、というのが私の印象でした。きっとこれからは、腰を落ち着けて研究にとりくんでくれるだろうと思っていました。
平木君は、平成21年2月24日なくなりました。 残念です。

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コメント

平木さん、亡くなったんですか!! ちっとも知りませんでした!
いつのことか忘れましたが、小生も淀のご自宅に寄せてもらったことがありました。
卒業してからも、アサヒカメラに連載をされたり、川崎の美術館や写真美術館でご活躍のご様子だったのに・・・。そういえば某カメラメーカーでばったりお会いしたこともありましたっけ。
平木さんのことを思い出せばあのゆったりした京都弁(?)が聞こえてくるようです。
衷心よりお悔やみ申し上げます。 合掌。

柴田光彦先生には、書誌学を教わりました。レポート代わりに和装本の見本を造ったのですが、『これは研究室にもらっておく』ということで、そのままになっています。折本、旋風葉、粘蝶装、大和綴じ、亀甲綴じ、麻の葉綴じ、唐本の康熙綴などなど、きちんと和紙で製本し、楮の外皮や、綺麗な穴糸で綴じましたので、想いだしても楽しいレポートでした。しばらく年賀状を交わさせていただきましたが、今どうなさっているのでしょうか。

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