早稲田文庫の版木 補遺
以前、「早稲田文庫の版木」で、竹久夢二の版木を2枚紹介しましたが、額にはいっているもうひとつの版木を渡辺与平の絵だといいました。そのときは、渡辺与平という人物がどういう人がわかりませんでした。その後、高山奇人さんのコメントで、渡辺与平の奥さんは會津八一の初恋の人だというのを教えていただきました。
それが、どうもひっかかっていたところ、たまたま茶房へ寄ったとき、その版木の話になって、それが、どの雑誌に掲載された絵なのか知りたくなりました。それには、まず反転している絵をもとにもどさないとわかりませんので、版木を借りて刷ることにしました。
額からはずしてみると、その版木の側面に墨で、“女學”と書いてあります。夢二の版木のほうには、“中學”と書いてありました。夢二の版木は「中學世界」10巻4号(明治40年3月20日)と11巻4号(明治41年3月20日)とわかっていましたが、与平はわかりませんでした。
それが、「女學世界」と判明したのです。与平の描いたいわゆる“コマ絵”は調べてみると、実に膨大な量を書いていたのです。たとえば、「ホトトギス」には明治39年11月から明治45年7月まで、裏表紙も含めて149枚にものぼります。さらに与平は「中学世界」の明治39年7月号をはじめとし、「ハガキ世界」「日本新聞」「国民新聞」「少年世界」「少女世界」「婦人世界」などの雑誌に“コマ絵”を掲載しているのです。
そんな中で、この版木が「女学世界」に掲載されていたものだとわかっただけで、手間がはぶけました。しかも西暦(1908)入りですので、すぐにわかりました。
「女学世界」第8巻第4号(明治41年3月1日)の135Pに載っていました。「コマ絵」というのはおもしろいもので、いわゆる“挿絵”とは違って、文章と何の関係もない絵なのです。この絵は 糸左近著の「分娩一ヶ月後の母子(母の攝生と子の養育法)」という文の中に挿入されています。
このコマ絵はその当時、竹久夢二と人気を二分していたようです。このような児童画や女性の描きかたから、「ヨヘイ式」ともよばれていたようです。
竹久夢二と渡辺与平との関係については、またの機会にして、与平は夢二のように世に知られないまま、その短い生涯を終えました。わずか22才で子供2人と愛妻をのこしてなくなったのです。
それにもまして、會津八一が恋こがれた人で、3才年上の渡辺文子と結婚した与平という人物とは、どんな人だったのだろうという、疑問がわいてきました。
渡辺文子という人もいったいどういう人だったのだろうとおもいます。写真や、与平が描いた文子をみると、気品の高い美人だったのがその絵からかもしだされてきます。こんな美人を射止めた男、渡辺与平と、そのつれあいの文子の生涯はどういうものだったのだろうか、とおもいました。
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