亀高文子伝
亀高文子伝
・明治19年(1886)7月9日横浜で、風景画家の渡辺豊州の一人娘として誕生。
・明治35年(1902) 女学校を2年で中退し、女子美術学校洋画科に入学。寄宿舎に入る。
・寄宿舎を出て、谷中清水町に横浜から引っ越してきた両親と同居。
・その後、本郷千駄木町へ転居。
・明治40年(1907) 女子美術学校を卒業。満谷国四郎に入門。
・その後、太平洋画会研究所に入所。同期の女性に長沼智恵子、埴原久和代がいた。
・明治42年(1909)4月、宮崎与平と結婚。
・同年 10月、第4回文展に『白絣』で入選。
・明治43年(1910)8月、長女美代子誕生。
・明治45年(1912)3月、夫の看病のため、築地に転居。
・明治45年(1912)4月、長男一郎誕生。
・同年 6月9日、夫与平死去。
・大塚の両親のもとに同居。体調を崩し、順天堂病院に入院。
・大正2年(1913)11月号「少女画報」に挿絵を掲載。
・大正2年(1913)頃より大正6年(1917)頃まで、平尾贊平商店広告部で広告の仕事をする。
・この頃、「少女画報」「子供之友」「少女の友」「新少女」などに挿絵を掲載。
・大森(荏原郡入新井村)に子供二人と女中とともに転居。
・大正4年(1915)、父豊州死去。母を引き取る。
・大正7年(1918)4月、東洋汽船の船長亀高五市と再婚。
・大正8年(1919)年末、女子の美術団体朱葉会を創立。
・同年 10月、次男洋介誕生。
・大正12年(1923)6月、夫の転職により、神戸に転居。
・大正13年(1924)、赤艸社女子洋画研究所を設立。
・同年 、三男素吉誕生。
・昭和4年(1929)、神戸市葺合区に南信設計の家を新築。
・昭和6年(1931)8月、亀高五市死去。54才。
・戦争中は、愛知県渥美郡赤羽村に疎開。
・昭和23年(1948)、神戸にもどり、西宮に転居。赤艸社を再開。
・昭和50年(1975)、西宮市大谷美術館で「亀高文子自選展」を開催。
・昭和52年(1977)9月6日、死去。91才。
・昭和56年(1981)10月、『日本の童画(第五巻)ー加藤まさを・須藤しげる・渡辺文子ー』に作品を掲載。
その後
・長女美代子は、瀬尾貫二と結婚。瀬尾美代子となる。洋画家。
・長男一郎は、洋画家。
・次男洋介は、神戸商大教授。
・三男素吉は、元神戸製綱会長。最近82才で薬学博士になったことで注目。
与平と文子の結婚について、文子は上笙一郎編著『聞き書 日本児童出版美術史』1974年7月5日 太平出版社 で次のように語っています。
「ーーーわたくしが、与平と知り合った最初でございますか。年こそ下でしたけれど研究所の先輩でしたから、おたがいに顔と名前はよく知っておりました。でも、何しろ明治時代の若者と娘でございますもの、正式に先生からでも紹介されないかぎり、口もきくことなど思いも寄りません。それなのに与平は、わたくしがデッサンを終って家へ帰ろうとしますと、一定のあいだを置いて、そのあとをついて来るのでございますの。その頃わたくしの家は、本郷の千駄木町に移っておりましたのですが、与平はその途中まで、毎日わたくしを送ってまいりました。そしてこれがきっかけで、与平とわたくしは、明治四二年の四月に結婚したのでございます。」
文子は個性の強い父の庇護のもとで育てられたので、同期の長沼千恵子のような、自我にめざめた女性ではなかったようです。しかし、たった3年の結婚生活でも、与平との結びつきは、強固なものであったことがわかります。年下の夫をたてていたのは、与平の才能を充分に認めていただけではなく、人間的魅力に惹かれたからなのでしょう。
与平の死後、文子は母として、たくましく生きることになります。父の庇護からはなれ、画家としての自活の道に進みました。文子自身語っているように、苦しい生活であっても画業を捨てることはなく、文展などに出品しつづけていました。
とくに注目する作品は、大正2年の文展に出品した『離れ行く心』(上右)という自画像です。文子によると、この作品は与平の死去の直前に書いたといっています。ところが、与平の作品で明治43年に描かれた『習作』(上左)という文子をモデルにした絵とそっくりなのです。文子の絵は帯の部分まで描かれ、着物の柄が違っていますが、全く同じ構図なのです。どうして文子は『離れ行く心』という題をつけたのでしょうか。それが、時間とともに薄れゆく記憶に対して、文子の与平に対する愛の確認であったような気がしてなりません。どんな他人も2人の間には入り込む余地はなかったのだろうと思います。
再婚相手の亀高五市については、神戸新聞学芸部編「亀高文子」『わが心の自叙伝<一>』昭和42年(1967)10月刊 の中に亀高家私刊『亀高五市の追憶』から引用した満谷国四郎の文がつぎのように書かれています。
「文子君と結婚の席上私は文子君に、ごく普通の人妻としての務めの上に氏に満足を与える様話した。処が後で氏より不足を言われたのだ。自分は文子君を後援して、芸術家としてなによりよく立たせたいから結婚したのである。人妻としてより芸術家として一層の鞭撻を希望するというのである。私は恐縮し、且つ感謝した。」
文子は父から女子美術学校へ転校させられてから、絵の道に一貫して進んできました。与平と結婚したのも、いっしょに絵が描けるからであり、与平死後は、生活の糧として絵を書き続けました。亀高五市と再婚して、金銭的余裕ができれば、後輩の女流画家に援助をし、さらに絵画団体にも積極的にかかわってきました。80才をすぎても、創作に意欲をみせていたそうです。
文子はその当時珍しかった女流画家であることで、世間から非難、中傷を受けて悩んだ。と書いています。そして波瀾万丈の生涯ながら、一貫して創作活動をつづけてこれたのは、周囲の援助や、理解があったからなのでしょうが、それにもまして、文子の強い創作に対する意志があったからなのでしょう。本当の明治の女に会ったような気がします。
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