癌という病気
平木君は癌と宣告されてから、一年余りの間、どんな気持ちで生活していたのだろう、と思います。つれあいの京子さんは、淡々とその間の経過を述べていました。その語り口から、もうある程度、心の整理がついたのだろうと察しました。いや、そうではなく、この席では、その経過を出席者に知らせなくてはという責任感からだったのかもしれません。
本人は、自分の身体の状態の感覚と医者の理論的な話とのギャップを感じていたのだろうとおもいます。おそらく、最初は何でと思ったことでしょう。というよりも、直近の仕事をどうこなすかが、まず頭に浮かんだことだろうとおもいます。どういう方法ならば、今まで約束した仕事をこなせるかを考えたのです。未来のことは想像などつくはずもありません。まして、医者のいう一見、客観的に見える事実というようなものも、それが確実な予想ではないのですから。
彼は余命を医者から宣告されても、なお仕事に生きました。外からみると、何故そこまでするのか、と思うのでしょう。本人からすれば、それしか当面することが見つからなかったからだったのでしょう。そこに宗教的な思考が入らなかったのは、きっと、そんな余裕もなかったから、というよりも作らなかったのでしょう。
人間、逆境におかれると、長期的な予測などは、思いもつかないものです。当面何をしたらいいのかを考えるのです。あくまでも、今日を真剣に生きようとするのです。彼はそれができた人間だったような気がします。
これが克服できたあと、あるいは孤独になったときに、今までの人生を振り返ることをするようになるのです。その時、はじめて「死」の恐怖と向き合うのです。病気と戦っている最中は、正直そんな余裕はありません。
すくなくとも、私はそうでした。私には「死後の世界」は見えませんでした。最悪の事態になっても、それですべてパーになると、確信しました。いや納得ができました。
私は「確信犯的無神論者」であることが、自分で確認できました。
私の癌の時は、そう確信できました。それが、今の、あるいはこれからの生き方にどれ程影響を与えたか、というと実は、自信がもてないのです。平木君ほど、情熱が希薄なのかもしれません。修行が足りません。
細っこくて、髪の長い、重そうなカメラバックを抱えていた、茶房の
印象しかありませんが、ご冥福をお祈りいたします。
棺を覆うて、事定まる。と申しますが、死ぬまで、自分が自分の
主人公でありたいものです。
投稿: 高山奇人 | 2009年5月17日 (日) 21時38分