肩布考(四)
「領巾」について、もう少しまとめて見ようと思います。
まず、前回紹介した原田淑人著『唐代の服飾』に、中国では「帔帛」と「帔子」と呼ぶものがあると言いましたが、事物紀原衣裘帯服部帔子の條を引いて、「處女帔帛を用ゐ、出嫁すれば帔子を用ゆることに徴すれば、帔帛の方おそらく長く、帔子の方短かきものには非るなきか。」としています。しかし、「領巾」という言葉も唐代には使われており、「帔帛」「帔子」とどう違うのかは不明です。岩崎雅美・岡松恵・片岸博子・原田順子・馬場まみ「薬師寺吉祥天像の服飾における中国西域の要素についてー髪型や衣を中心にー」『日本服飾学会誌』20 2001年6月1日 では、「領巾は帛・披帛・帛巾などと称されるもので、大別して二つある。幅が広くて稍短い「披帛(被巾)」(ショール)と、細くて長い「被子(被帯)」である。披子は大きなリボンのようであり、さらに薄いと飛天の天衣のようにもみえる。」として、唐代の絵画で、「披帛」と「披子」の使用例を挙げて分類しています。
この「披帛」「披子」について、論文で採用しているのは、島田修二郎「鳥毛立女屏風」『正倉院の絵画』1977年(島田修二郎著作集1『日本絵画史の研究』1987年11月7日)です。この論文では島田氏は原田氏の説を註で紹介していますが、鳥毛立女屏風に描かれる女性の肩には「披巾」をまとう、としています。
田中陽子「薬師寺吉祥天女像の服飾に関する一考察ー中国歴代女子服との比較からー」『国際服飾学会誌』16 1999年9月30日 では「帔帛」という言葉を使っています。
そうはいっても、薬師寺吉祥天画像、東大寺法華堂塑造吉祥天像などには、「領巾」という説明をして「ひれ」という読みを入れているのが多数です。しかし、「領巾」をいつから「ひれ」と呼ぶようになったのでしょうか。錦織竹香『古今服装の研究』1927年10月15日 によると、第九章第一節 領巾 の項で、「領巾」の書かれている史料を15冊ほど挙げていますが、「領巾」という語が出てくるのは、『日本書紀』巻五 崇神天皇10年、『倭名類聚抄』巻四衣服、『倭訓栞』前編二十五比、『永仁御即位用途記』、『歴世服飾考』巻三 ぐらいでしょうか。あとは、「比禮」がほとんどです。『日本書紀』天武天皇11年の項では「肩布、此云比例。」としています。つまり、「領巾」という語はあきらかに中国から入ってきた言葉で、それ以前に日本では、「ヒレ」という着衣があって、その着衣方法を「領巾」という語に当てはめたということのようです。
これについて、増田美子『古代服飾の研究ー縄文から奈良時代ー』1995年3月7日 では、古事記などで、「領巾」が呪力をもつ布であることが記述されていることについて、「領巾は古墳時代中期以降に入ってきた外来の不可思議な服飾であったのではないか。埴輪にその姿がみられないのは、関東まで普及していなかったため。」とし、「インドで発達し、特に領巾を掛けて空を飛ぶ飛天の姿と深く結びついて、その長い布が呪力を持つという概念が生まれたのであろう。・・・これらは、仏像等の装束と結び付いて特別な力を持つと考えられた領巾がわが国にも伝わり、装われるようになったのではないだろうか。」としています。
増田氏の論考は、「領巾」と「天衣」について、曖昧な形で述べているようです。仏像の「天衣」は呪力を持つために着装しているという根拠があるのでしょうか。また、「領巾」は呪力をもつために女性が掛けるものなのでしょうか。単なる装飾ではないのでしょうか。そのことについて『倭名類聚抄』では「領巾所謂婦人項上飾也」と明確に装飾品としています。
「領巾」と「天衣」については、田澤坦「藥師寺の繪畫」町田甲一・坂本万七『薬師寺』1960年5月15日 実業之日本社 では「領巾ー或は披子、佛教像では天衣ー」としています。どうみても、「領巾」と「天衣」は同じもののようです。前回書いたように、崇拝対称物か、人物(女性)が着装するかで言い方が違うとしていいのではないでしょうか。
さて、まだ本題にもどれません。法隆寺四天王立像や観世音寺大黒天像の肩に掛けて、胸元で結んでいる布は、何と言ったらいいのでしょう。すくなくとも「領巾」ではありません。領巾=天衣だと、天衣を2つ着ていることになりますから。
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