子規庵
鴬谷の子規庵に行ってきました。子規庵は、台東区立書道博物館の目の前にあります。いつも書道博物館に行くたびに、入ろうか迷っていました。というのは、この建物は戦後、復原した建物だと知っていたからでした。
意を決して行こうとしたのは、子規が病に伏せっていた一室のガラス戸を見たいとおもったからでした。
この建物には、明治27年2月から、子規が亡くなる明治35年9月まで、子規は住んでいました。そして、子規の死後も、母八重が住み、関東大震災で、破損した後、建物を解体し、また建てなおし、昭和20年戦災で焼失した後、昭和26年に復原しました。
2回も建て直したにもかかわらず、子規が住んでいたころを忠実に復原したようです。
子規は、この建物の6畳間で、病に伏せりながら、短歌を読んでいました。
雪見んと思ひし窓のガラス張ガラス曇りて雪見えずけり
このガラス戸は、明治33年12月頃、高浜虚子たちが、子規のために贈ったものでした。
虚子は、上京した後、ここに居候していたので、そのお返しでもあったようです。
さて、明治33年というと、まだ、日本では板ガラスが生産されていない時期でした。したがって、子規庵に嵌めたガラスは、舶来品だったということになります。
統計によると、板硝子の輸入額は、明治元年には、10,144円だったのが、明治32年では、1,246,200円にまで増加し、明治34年の帝国議会に、窓硝子製造業保護奨励に関する建議案までだされ、何とか、貿易赤字の解消のために、板硝子製造の国産化を勧めようとしました。
そんな頃でしたので、高浜虚子が贈ったとはいえ、相当な金額だったのだろうとおもいます。
建物には、雨戸があるとはいえ、昼間は明障子のみでは、寒さがこたえたのでしょう。せめて、子規の寝ている部屋でも、寝ていて外の景色が見えることの安らぎを虚子は味合わせたかったのかもしれません。
子規の歌に、ガラス窓の短歌が、10数首残っています。
日本の住宅は、障子を簡単に、ガラス戸に換えることができる構造になっていることが、明治時代になって、急速にガラスが普及していった要因のひとつになっていたようです。
しかも、縁側の外側には、透明のガラスをいれ、内側には、障子の真ん中にだけ透明ガラスにするか、模様入のガラスにするなど、室内を見られないようにする配慮もされていました。
日本人の窓硝子という新しい素材の受け入れ方は、全く新しいコンセプトという意識でもなく、ちょっとした生活空間の修正だけで済んでしまっているような気がします。
しかも、ガラスという透明な隔てによって、外部が見えるという長所よりも、ガラスの単に光が入るという性質の方を重要視しているようにおもえます。
というのは、ガラスを透明なまま使うのではなく、スリガラスにしたり、模様を付けたりするのは、新しい素材を簡単にかみ砕いてしまう日本人の能力によるもののような気がします。
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