伊達藩下屋敷の板ガラス
どうも気になってしようがありません。板ガラスの歴史を調べてみると、江戸時代の元禄の頃、仙台伊達藩の品川の下屋敷に、400枚もの板ガラスが嵌っていたというのです。
その、出典を探しているのですが、なかなか原典にぶちあたりません。
ひとつ見つけたのが、森鴎外が大正5年(1916)1月に発表した随筆です。「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に掲載されています。「椙原品」(すぎのはらしな)という題名で、伊達家3代当主綱宗の側室で、椙原氏の品(しな)という女性について書かれています。
伊達綱宗は、万治元年(1658)19才で藩主となり、万治3年(1660)21才で、隠居させられ、品川の下屋敷にいはば蟄居の身となり、正徳元年(1711)72才で死去するまで、品川に住んでいました。
余談ですが、寛文11年(1671)に原田甲斐による刃傷事件がおきます。綱宗は隠居の身のため、事件とは関わりがありませんでしたが、それは例の『伊達騒動』です。歌舞伎の「伽羅先代萩』、山本周五郎『樅の木は残った』などの題材になった事件です。
森鴎外の書によると、
「品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかった硝子板四百余枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買ったと云ふことである。」
と書いてあります。
綱宗という人は、書画、和歌ばかりでなく、蒔絵や陶器も作っていたなど、芸術に造詣が深かったようです。
しかし、その当時、日本では、建具に嵌めるような板硝子は、製造していませんでした。海外に目をむけると、ヨーロッパでの板硝子の製造は、鋳造法かクラウン法でしかできませんでした。鋳造法は、1675年、フランスのド・ヌゥーが開発しましたが、それは、鏡の製作のためでしたし、板厚がどうしても厚くなり、また、研磨が必要でした。
クラウン法にしても、そんなに大きな板硝子は製造できませんでした。
つまり、綱宗が品川に住んでいた時期1660年から1711年という頃は、手吹き円筒法が開発されて板硝子の大量生産がはじまる前の時代なのです。
そんな頃に、輸入したとしても、もう鎖国がはじまっていますので、中国かオランダからしか入ってきません。
ほんとうに、400枚もの板硝子が建物の建具に嵌っていたのでしょうか。
ところが、仙台の善応寺、通称ギヤマン寺という寺に、品川屋敷で使ったギヤマンの障子が残っているというのです。
善応寺は、四代伊達綱村の建てた寺です。いかにも、ありそうな話です。
でも、その真偽がわかりません。善応寺で、現物を見たという人の書き物が見あたりませんので、やはり、行って見ないとわからないのかな。
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