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2012年2月19日 (日)

伊達藩下屋敷の板ガラス(考察編)

 まず、『伊達騒動實錄』第八十三篇に採録されている「善應寺舊記」を掲げてみます。

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この『伊達騒動實録』は明治42年11月刊で、国会図書館の近代化デジタルライブラリーに全文UPされており、面倒な手続きをしなくてもこのような貴重書が読めるのは大変ありがたいことです。

といいながら、上の文は、私が新たにワープロで打ち起こしたものです。それは、近代化ライブラリーにUPされているデータは、欠陥品のマイクロフィルムをただPDFに変換したものだからです。

以前にも書きましたが、そもそもマイクロフィルムに写すのに、その内容が読めるかどうか、写真がしっかり見られるものなのかの検討も一切しないで、ただ写真に撮っただけのものなので、字がつぶれて読めないとか、写真を白黒のコントラストのみで撮ったりして、何が写っているのかまるでチェックもしないで、公開しているものです。まったく、こんなひどい製品に税金を払っているです。

文句はこれまでにしといて、本題のこの文書の検討にはいります。

びいどろひしき板」 : これは、板ガラスにはまちがいないとおもいますが、“ひしき”という意味がまだよくわかりません。“引敷”という言葉がありますが、修験道の行者が携帯している敷物で、熊皮でできているものだそうです。

四十年以前、唐渡り物にて、長崎より到来申候」 : 享保3年(1718)から40年前というと、延宝6年(1678)年ということになります。伊達綱宗は、万治元年(1660)に品川屋敷で隠居生活にはいり、寛文11年(1671)刃傷事件が起きていますので、その後状況が落ち着いていた時期だったようです。

殘品川ヘ被買収」 : 長崎に到着したガラス板を残らず買い入れたようです。その総額を計算してみますと、大のうち特大を1枚だけとしますと、

大 11枚×30両= 330両
大  1枚×70両=  70両
中 46枚×20両= 920両
小348枚× 3両=1044両

計2364両となります。江戸時代の物価を現代に換算すると、計算方法によって違いがありますが、おおざっぱに 1両=10万円 とすると、

2364両×10万円=2億3千6百4拾万円 となります。

しかも、これを買い上げるにあたって、他で買い名乗りをあげるところがなかったと云っています。伊達藩あげての買い入れだったのが、金額をみてもわかるとおもいます。

品川にても、御凉處の御座敷へ、あなた、こなたへ、御張せ被遊候て、冬之内、御池などを御覽被遊候」 : ガラス戸をいれて、冬でも外の景色が見られるようにした、ということでしょう。板ガラスを現代とおなじ使い方をして、窓ガラスとしたのです。

厚さ、遠目鏡の位に御座候」 : 板ガラスの厚さがレンズのようだったといっています。ということは、この板ガラスは鋳造で作られたとみることができます。しかし、これは、大板の場合のようです。善応寺のギヤマン枠の大きさは、内法で578mm(1尺9寸)×753mm(2尺5寸) です。買い入れたガラスの内で一番大きなガラスに相当するようです。

ちなみに、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間(1678~1686)の鏡の1枚当たりの大きさは、760×1070 厚さ 6mm だそうです。これは鋳造法で作られています。

上方にて、蝋障子と申もの御座候」 : 蝋障子とは、どういうものかはよくわかりませんが、想像するに、蝋紙のようなものではなかったのかとおもいます。透けて見えることはできますが、ぼんやりとぼやけて見えるガラスということでしょうか。しかも「びいどろ板よりは、ことの外うすく御座候」というのは、これこそ手吹き円筒法によるガラスではないかとおもわれます。

その当時ヨーロッパでも、手吹き円筒法は、ほそぼそと行われていたようで、大きな寸法のものはまだ、生産されておらず、工業化して、大量に大板を生産できるようになったのは、1851年ロンドン博のクリスタルパレス建築からです。

日本では、口傳によると、長崎で修業した播磨屋清兵衛が、大坂で硝子製造業を宝暦年間(1751~1764)に開始した(『日本近世窯業史』)とされ、それが、大坂におけるガラス製造の始まりだとしていますが、それ以前にすでにガラス板が作られていたことになります。また、司馬江漢は大阪の硝子板職人について記載していますので(天明8年(1788))、それ以前からすでに板ガラスの製造は行われていたということがわかります。

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ということを勘案してみると、善応寺のギヤマン枠には、一番大きな70両もする鋳造法によってつくられた板ガラスが嵌っていた可能性があります。

今回、善応寺を訪問して、この「善応寺舊記」の存在を確認できませんでしたが、寺蔵文書で、天保頃の寺の什物帳では、「硝子が4枚」あったと記載されており、この406枚の板ガラスは善応寺に納められたとしていいのかもしれません。

 

 

 

 

 

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