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2012年2月12日 (日)

松戸市戸定邸

 松戸市戸定邸は、松戸駅から徒歩で10分程度の小高い丘の上にあります。入口は茅葺きの門で、いかにも質素な造りの建物を連想させます。

というのも、この建物のもとの所有者は、徳川慶喜の弟で、水戸藩11代藩主、徳川昭武だったからです。

徳川昭武は、明治維新後の明治4年から、水戸藩の下屋敷だった小梅邸に住んでいましたが、明治16年家督を篤敬に譲り、明治17年(1884)に竣工した、戸定邸に移り住み、明治43年(1910)小梅邸で、死去しました。享年53才。

その後、昭武の子・武定が、1951年松戸市に寄贈し、一般公開することになりました。

昭武は、小梅邸を本邸とし、戸定邸を別邸とした使い方をしていたようです。

兄慶喜は昭武と趣味の写真など共通するものがあり、明治30年に静岡から東京に転居後、よく戸定邸を訪れていたそうです。

建物は、その間取りなど、当時の様子がよく残っています。あまり大きな改修はされていないようです。

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 さて、明治31年に徳川慶喜が撮影した、戸定邸の写真があります。これを現在の写真と比較してみると、明治31年当時には、まだ、外のガラス障子がないことがわかります。縁側と座敷の間にある、明障子の真ん中にガラスが嵌っているだけのようです。

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昭武の母が住んでいた離れ座敷の外障子のガラス戸を見てみると、手吹き円筒法によって作られたガラスが数多く嵌っています。泡が多く、円筒を回すときにできるスジもついています。

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内障子の真ん中に嵌っているガラスはほとんど新しいフロートガラスのようです。

 

 

 

 

 

 

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ところが、庭に面している表座敷の外障子のガラス戸の中に、あきらかに波を打っているガラスがあります。

しかし、よく見ると、泡が入っていません。おまけにロールを通ったような波のようなゆがみです。おそらく、昭和初めから、生産されはじめた、フルコール法かコルバーン法によるもので、一般にはフロートガラスに対して、普通板と呼ばれるものだろうとおもいます。

建物全体を見てみると、明治時代の写真など、当時の史料もあり、あまり改変されていないようです。

元将軍家というセレブの家にしては、まだ輸入品しかなかったガラスを明治時代後半になっても、建物の周囲すべてに使っていないというのは、かなり質素な生活だったようです。

しかし、ガラス戸の効用は認知していたようで、母の住んでいた離れ座敷にまず使ったのではないかと想像されます。

 

 

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窓ガラスの普及は、このように明治末年でも、まだ一般に普及するまではいたっていなかったのではと思います。

 

 

 

 

 

 

【廊下の結霜硝子入の窓】

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