伊達藩下屋敷の板ガラス(調査編)
前回の続きで、史料の出所がわかりました。大槻文彦著『伊達騒動實錄』明治42年11月16日刊 は乾坤の二分冊になっていますが、そのうちの坤 「第83篇 若狭守綱宗入道嘉心君、卒去の事」に書かれていました。
その中に、善應寺舊記(享保三年(1718)六月九日付)が引用されています。それによると、
品川の下屋敷には、大、中、小、三通りの大きさの“びいどろひしき板”が合計406枚あった。
それは40年以前に長崎に渡ってきたのを買い入れた。
小348枚(1番より17番まで、長、6寸5分まで、幅、3寸5分より、2寸8分まで)、
中46枚(1番より12番まで、長、1尺4寸より、6寸5分まで、幅、1尺より、5寸まで)、
大12枚(1番より6番まで、長、2尺七寸より、1尺7寸まで、幅、1尺8寸より、1尺4寸まで)、
そして、小は1枚について、金3両、中は20両、大は30両、内大は70両までの値をつけた。
厚さは遠目鏡の位で、上方に蝋障子というものがあるが、それは、ことの外うすいので、品川のびいどろひしきとは違うものである。
と書かれています。
大槻文彦氏は、別に注で、善応寺には今は、硝子1枚を蔵するのみと書いています。
以前、森鴎外が書いていたのは、この本からの引用だとわかります。
とすると、果たして、今、善応寺には、その当時の板ガラスが現存しているのでしょうか。
それを確かめるべく、仙台に飛びました。善応寺は、東仙台駅から徒歩15分程度の、住宅街の中にあります。
アポイントが午後でしたので、午前中、綱宗の霊廟がある瑞鳳殿に行ってきました。ここは、政宗、忠宗、綱宗の三代の霊廟があるところです。戦争で焼失しましたが、昭和54年再建されました。再建にあたって発掘調査をして墓を堀り出し、資料館には、三代の髑髏が展示してありました。綱宗は、歯の病気が原因で亡くなったそうです。
さて、午後善応寺に到着。さっそく、寺蔵の板ガラスを見せていただきました。うすい鉛ガラスのような黄色い色がついていました。厚さは2mm 2方は破損していて、現状で、高さ205mm、幅160mm で、破損していない2辺には、うすく面取りがしてありました。面幅は24mmです。また、小口はカマボコ状に磨いていました。
持ってみた感じでは、鉛ガラスのような重量感はありませんでした。
箱書は、明治33年に書かれていました。
もうひとつ、この寺にギヤマン枠というものがありました。現在は、衝立状の中に両面透明のガラスで挟んでありました。
枠の大きさは幅900mm、高さ1200mm で、中の空洞の枠の大きさは、内法で幅578mm、高さ753mm で、そのまわり縁は13mm程度で黒漆で塗られていました。
そのまわり縁は今は、埋木がされていますが、溝があってガラスがはまっていたのだろうと推測されます。その埋木の幅は5mm位のようでした。
枠のまわりの装飾は、2頭の龍が右上と左下の位置に頭があり、中央上部には宝珠のようなものが彫られていました。
この彫刻は、裏面も同様の図様です。
さて、この板ガラスと、ギヤマン枠と称する建具は、伊達藩下屋敷にあったものだったのでしょうか。
その検討は、次回ということで。
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