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2012年3月 8日 (木)

鏡ー魔性のかがやき

 鏡は、人間の歴史がはじまってから、つねに、不思議なものでした。鏡に映し出される人間の顔は、虚構の姿をただ映しているだけなのです。

それなのに、人間は、その虚構の絵に、魂を宿しているような錯覚にとらわれてしまうのです。

そんなこんなで、人間は、古代の昔から、鏡を宝物として大事に扱ってきました。

東大寺法華堂の天井には、銅鏡をつけ、外光をとりいれようとしました。神社の本殿の前には、鏡を置いて、光かがやくさまを演出しました。

フランスでは、ベルサイユ宮殿の鏡の間が、その後、さまざまな建物に鏡の間をつくるきっかけになりました。

板ガラスの歴史を調べていると、中世ヨーロッパでは、良質な鏡をつくるために、板ガラス製造の発達があったのです。

現代では、板ガラスは、そのほとんどが窓に嵌めるために作られていますが、中世から近世では、板ガラスは鏡をつくるための素材だったのです。

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最近、近代の日本の住宅を何軒かまわっていると、大抵、枠に収まったおおきな鏡があります。現在保存されている明治・大正時代の住宅は、それなりの地位のある人か、資産家の住宅で、家具など、いわゆる高級なものがおいてあります。鏡も贅沢品のひとつとして手元においていたのでしょう。

先日、鏡の補修の見積依頼がありました。それは、10年ほど前、工務店を通して、ある芸術作品につかう鏡の取付を頼まれたのがはじまりでした。

その芸術作品とは、深さ10㎝程度、縦横およそ2m×3mの水槽の底に鏡を取り付けるという仕事でした。鏡の大きさは、約1m×2m 厚さ5mmの鏡をすこしづつずらしながら3枚並べるというものでした。

当然、水の底に鏡があることになりますから、鏡と枠の間、鏡と鏡の間には、シールをして、水が鏡のウラに入らないようにしようとしました。

これは、鏡の性質からは当然の方法で、鏡は銀メッキをしてさらに銅メッキ裏止め塗料と、塗装されていますが、その塗装は、いわゆる湿気には非常に弱く、常時水分のあるところでは、塗装がはがれてしまうのです。いわゆる鏡の腐食がおきるのです。

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鏡の取付の当日、その芸術作品の作者の芸術家も見にきていました。その芸術家先生いはく、

鏡はできるだけ平らに置いてください。鏡と鏡の継ぎ目はなくしてください。

という要望でした。

私は、鏡を平らにするには、その水槽を平らにしなければ、鏡を平らにはできません。と反論しました。いわゆる一休さんの虎退治です。

まあ、その芸術家さんの、要望はできるだけかなえましょうと、それなりの努力をして見せましたが、あまり納得はしてもらえませんでした。しかし、芸術家先生自らできる作業ではないので、こちらがこれ以上は無理です、と言えばもうそれ以上は口をはさむことはしませんでした。

つぎの、鏡と鏡の継ぎ目をなくせという要望は、水が鏡のウラにまわるので、シールの目地は絶対必要です。ということを論理的に主張しました。

すると、その芸術家先生は苦し紛れに、

どうせ、鏡は1年位しかもたないのでしょう。それでもいいですから、シールは打たないでください。

とのたまうのです。

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そこまで言われて、できませんとは言えなくなり、プロとしてやらないわけにはいきません。水槽の底にただ鏡を置いただけにして、仕事を終えてきました。

そして、案の定、鏡は塗料がはがれて、その補修の見積がきました。

その見積の依頼者は、芸術家先生ではなく、その芸術作品をもっているオーナーでした。

なんとも、やりきれない仕事です。

お金をもらえるから商売としてはいいではないか、という考えもありますが、プロとしてなさけなさが先立ちます。ちゃんとした仕事をして、顧客とともに満足してもらうのが商売人です。

こちらがそう思っても、顧客がそうおもわなければいい物はうまれないのは当然です。

話を大きくすると、いわゆる自己完結する芸術作品は、すべてがその芸術家の責任になりますからいいのですが、プロデュースという芸術活動は、実際に作る人は別人で、そういう別の技術者を動かさなければ完成しないという作品は、その素材の性質や製作技術の程度を熟知していなければできないのです。

鏡の性質を熟知したうえで、鏡をつかった作品をつくらなければ、ろくな作品になりません。

というよりも、いまだに、プロデュースする芸術家は、自分のイメージが簡単に現実の作品になるとおもっているとおもわれてなりません。

その下で働く技術者は、その芸術家先生の意図をできるだけ実現しようとあらゆる知恵をしぼっているのです。そのことを理解していない芸術家先生の作品は結局、技術者の知恵で適当にあしらわれていることに気がついていないのです。

ひとつの作品の陰には、実に多くの名もなき技術者の創造によってなりたっているのに、これは、私が作った作品だ と言っている芸術家のノーテンキを嗤わずにはいられません。

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