群馬県東部の旅
一応今年最後の旅をしてきました。今回もガラス・建物探訪の旅です。
まずは、車で東北自動車道を走り、館林ICを降りて、つつじが岡第二公園に行きました。
その公園内にあるのが旧秋元別邸です。館林藩主だった秋元氏の和館です。明治末年の建立です。その横に洋館がありますが、これは神田駿河台にあった秋元邸を移築したものだそうです。
内部には入れませんでしたが、外部から様子は見られました。和館の一部に泡入りガラスがあるところを見ると、明治のガラスかもしれません。ここには模様入りケシガラスはありませんでした。
すぐそばに、上毛モスリン事務所という洋館があります。明治41~43年の建立だそうです。ここは、窓硝子はすべて入れ替えられているようでした。
車で30分ほど走ると、太田市(旧境町)の利根川沿いの集落に、長い土塀が見える一角が中島知久平邸です。今回、是非見たい建物でした。
中島知久平といえば、あの中島飛行機の創設者です。両親のために昭和5年に建てました。敷地面積10,000㎡という広大な敷地を四周土塀で囲んだ大豪邸です。
しかし、戦後GHQの将校倶楽部になったり、昭和22年カスリン台風の為に床上浸水したりして、建物は荒廃してゆき、とうとう空家になり、平成21年に太田市の所有となりました。
平成25年に戦後増築部分を解体したり、改修工事を施して、今年6月に一部公開にこぎつけました。まだ、改修はほんの一部で、そのため公開も玄関応接間に限られています。
その応接間は2間あって、それぞれの窓のランマにステンドグラスが嵌まっています。
また、内部のドアのランマにもステンドグラスがありますが、何故か一方が壁になっており、これが当初からそうなっていたのか、不思議です。
このステンドグラスの作者は、玲光社東京店の三崎彌三郎だとパンフレットに書かれています。今まで、三崎の作品だと言われていた作品では、入間市の石川組製糸西洋館、十河信二邸を見たことがあります。
この3ヵ所のステンドグラスを改めて見てみると、たしかに田辺千代氏が書いているように、線に鋭角な箇所を表現している特徴的なデザインになっているのがわかります。
客間棟と居間棟は中に入れませんが、外部から中を見ることができます。
それぞれ贅を尽くした装飾をほどこしています。しかし、昭和22年のカスリン台風で浸水した部分の線が襖にわかるほどで、それから何の補修も施していなかったことがわかります。
市が財政難で、すべての改修ができないことはわかりますが、あまりにも無残な姿をさらすのはいいことなのでしょうか。改修するためのアピールにはなるのでしょうが。
つぎに行った、旧群馬県蚕業取締所境支所です。門の表札には東部電気株式会社の名がありますが、立入禁止のカンバンは伊勢崎市になっているところを見ると、現在は市の所有になった建物のようです。
その玄関のランマにステンドグラスが嵌まっています。建物に近づけないので、望遠で見ると、よく残っていました。是非内部から見てみたいステンドグラスです。
車を前橋まで走らせ、敷島公園ばら園の中に前橋市蚕糸記念館という洋館と、萩原朔太郎記念館という建物があります。
その中で、3棟ある萩原朔太郎ゆかりの建物うち、離れ座敷という部屋1つしかない建物のガラス戸に結霜ガラスが嵌まっていました。この建物は明治25年の建立だそうですが、おそらく当初はガラス戸はなく、かなり古い時代の改修で取りつけたもののようです。
時間も押してきたので、群馬会館のステンドグラス、臨江閣の建物はパス。
関越自動車道から圏央道に分岐し、川島ICで降りて、遠山記念館へ。ここは、40年前に一度訪れたことがありますが、博物館のロビーのテンペラ画に記憶がありました。あとでパンフレットを見てみると、この美術館の建物は今井兼次の設計だそうです。
むしろ、遠山邸の建物に興味があったのですが完成が昭和11年なので、窓ガラスには期待しませんでしたが、この頃になると、かなり大板のガラスが嵌められてきたのがわかります。
今回の、目玉はやはり中島知久平邸です。公開して間もないので、まだ、世間にあまり知られていないようです。もっと注目されて、これからの改修のあり方、保存・利用の方法などを議論されていくことを期待したいとおもいます。
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