内行花文と連弧文
鏡背の文様に、内行花文というのがあります。これは、高橋健自著『鏡と劔と玉』 明治44年7月刊 に図とともに明確に定義されています。それには、これを弧と言わずに花というのは、鏡形分類の六花鏡八花鏡と一致させるためだとしています。しかし、六花鏡・八花鏡は、鏡の縁にくぼみをつけて花弁のように見せた形をしているので、そういう名称になっているのでしょう。ちなみに、突起とくぼみを交互に配した鏡を六稜鏡・八稜鏡と称しています。
高橋氏は弧線の中部に葉尖(Cusp)がある文様を内行葉文と定義しています。この例は、新山古墳出土の2枚の鏡にあります。弧を連ねている文様は、中国の後漢時代に盛行した文様で、連弧文と呼ばれています。ところが、日本で造られた連弧文鏡は、内行花文鏡と呼びます、と高橋氏は宣言したのです。
梅原末治『大和國北葛城郡佐味田寶塚及大塚字新山古墳調査報告書』 大正10年10月刊 では、新山古墳出土の2例の鏡の文様を内行葉文と言って、突起のない弧を内行花文と言っています。それ以後、日本製の鏡は、連弧文とは言わず内行花文と呼ばれてきました。
小林行雄『古鏡』 昭和40年3月刊 では中国日本の区別なく、弧が連続していれば内行花文としています。そんな中、一部に内行花文ではなく、連弧文だという研究者があらわれましたが、それを事態を混乱させていると批判している研究者がいるのです。(中村千彰「内行花文鏡の研究」『古事 天理大学考古学・民俗学研究室紀要』12 平成21年3月)
そもそも、高橋氏がこの文様を内行花文と定義した根拠が納得いくものではないのが問題なのです。単なる弧を花弁に見立てること事態大きな錯誤です。しかも、弧の中心に突起があれば、葉文とするのに、何もない弧がどうして花文になるのでしょうか。内行花文鏡という名で重文指定が11件あるのは名称についての検討はなされたのでしょうか。形態をよく観察すれば誰でも気がつくことですが、大御所の唱えた説は、誰もそれに異を唱えないという風土がはびこっている証拠です。ここでは、突起のある弧を内行葉文、突起のない弧を持つ文様を連弧文と呼ぶのが誰もが納得する正解です。
同じように、十数年にわたって拙ブログで、薬師寺金堂薬師如来坐像は半跏趺坐だといってきましたが、最近刊の『近畿文化』888 令和5年11月刊で、いまだに結跏趺坐と断定しておられるのは、学説の忖度、学問の世界の閉鎖性、進取の精神の欠如が同様に表れています。まるで、時代を読めない浦島太郎のようです。
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