仏像

2022年10月14日 (金)

『祈りの仏像 出雲の地より』展で思うこと

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 9月の終わりに松江まで行ってきましたが、今回は、いままで気になっている仏像が出品されていたので、大変満足感のある展覧会でした。もう一回現地に運んでわざわざ見に行かなくてもよくなったのは、本当にありがたい。
 そのひとつは、鰐淵寺観音菩薩立像(692年銘)です。その台座の格狭間を見たかったのです。いわゆる白鳳時代の格狭間の形状についてその一例を確かめることができました。
格狭間は、ひとつの装飾であり、時代にによってその特徴が現れるので、白鳳時代の格狭間の作例をまとめることによって、時代判定に資するとおもわれるからです。特に、鰐淵寺観音菩薩立像は銘文があり、基準作例となるものです。それで、四十八体仏を中心として、台座の格狭間の形状を見てみると、およそ3パターンに分類されます。

Ⅰ型:鋭角の突起が1つある形
Ⅱ型:鋭角の突起が2つある形
Ⅲ型:鋭角の突起が1つ内側にくぼむ形か、くぼみがない形

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Ⅰ型の例:法隆寺献納144号、148号、153号、162号、187号、鰐淵寺観音菩薩
Ⅱ型の例:法隆寺献納163号、164号、165号、狛坂磨崖仏
Ⅲ型の例:法隆寺献納167号、184号、185号

Ⅰ型の格狭間

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法隆寺献納144号

 

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法隆寺献納148号

 

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法隆寺献納153号

 

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法隆寺献納162号

 

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法隆寺献納187号

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鰐淵寺菩薩立像

 

Ⅱ型の格狭間

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法隆寺献納163号

 

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法隆寺献納164号

 

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法隆寺献納165号(辛亥年銘)

 

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狛坂磨崖仏

 

Ⅲ型の格狭間

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法隆寺献納167号

 

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法隆寺献納184号

 

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法隆寺献納185号

 

これらの仏像の台座の格狭間は、1つあるいは2つの突起を表す形状をしており、以後の時代の格狭間には見られない形式です。その中で、法隆寺献納165号は辛亥年銘(651)を有し、この格狭間は、狛坂磨崖仏の格狭間と全くといっていいほど共通点があります。格狭間という装飾は、仏像製作における決まり事(儀軌など)にはかかわらない形状といえるので、時代を充分に反映している装飾とみるべきでしょう。

 

もうひとつ、もう1回現地へ行って確かめたかった仏像が、今回、3体も出品されていました。
ひとつは、仏谷寺菩薩立像(伝虚空蔵菩薩)と、大寺薬師の4体の菩薩立像のうち、伝観音菩薩薩と伝月光菩薩像です。
この3体とも、目の形状に注目をしていました。仏谷寺菩薩立像の目の形状を見てみると、眼球の膨らみを彫刻し、その膨らみに上下の瞼を薄く彫っています。単眼鏡で見ると、墨て黒目を描いているようです。

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仏谷寺菩薩立像


大寺薬師の2体の菩薩像も眼球の膨らみを表し、上下の瞼を彫っているのですが、三日月状に極端に下に彫られています。下瞼は、眼球の膨らみの下端の線より上にあり、眼球の膨らみを彫った後に瞼を彫ったことがわかります。

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大寺薬師伝観音菩薩

 

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大寺薬師伝日光菩薩


なんで、こんなに下のほうに、見下ろすような目の配置になったのか気になっていました。以前、ひとつの仮説として、この2体の仏像は、工房で作品を仕上げた後、寺院に安置して、崇拝者の下から見上げる目線と合わせるために、現地で目だけ彫ったのではないかと想像しました。
もとはといえば、井上正氏が、“目のない仏像”について論究したことでした。なぜ目のない仏像が存在するのか?について考えると、この3体の仏像も、もとは目を彫っていなかったのではないかと想像しました。これは単なる霊木化現ですまされない理由があるのではないか、もう少し精緻に追求すべきではないかとおもうことが続いています。

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2022年9月23日 (金)

羽下薬師堂と西刑部観音堂

 もう半世紀ほど経ってしまいましたが、大学院生の頃、ゼミの一年先輩の尾崎さん(後に京都国立近代美術館館長)が車をだすというので、日帰り旅行をしようという話になりました。いっしょに行くことになった若林先輩(後の福島県立博物館から東京家政大学教授)も同行ということなので、宇都宮市内にある羽下薬師堂と西刑部観音堂を見たいと提案しました。突然のドライブなので、何のアポイントもとらないで、突然行ったものですから、羽下薬師堂は地域で管理している管理人の家を訪ねましたが、留守でかないませんでした。そして、西刑部観音堂(現 大関観音堂)は墓地の中にある堂で、これは、拝観がかないました。この像は、昭和56年に修理をしたので、修理前の状態を見たことになります。
それから、数年たった頃、小生はもう商売を始めていましたが、しばしば、休日に後輩をつれて関東近辺の寺院巡りをしていました。それで、後輩で大学院生だった成沢君(後に早稲田大学教授)に、栃木県立博物館の準備室に知り合いがいるというので、羽下薬師堂の拝観の手配ができないか頼んでくれました。それで、自社の車に後輩を乗せて宇都宮にいくと、栃木県立博物館準備室の北口氏(元栃木県立博物館学芸員)が待っていてくれました。それで、茅葺きの小さなお堂の中の厨子にはいった薬師如来立像を拝観することができました。北口氏は熱心に管理人に是非厨子から出したいと要望しましたが、地域住民の合意が必要ということでかないませんでした。

その後、西刑部観音堂(現 大関観音堂)の菩薩立像を拝観しました。その時は修理が終わったばかりのきれいな容姿でした。あまりにも黒漆が光っているのが印象的でした。こうも印象がかわるのかとおもいました。

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 さて、羽下薬師堂の薬師如来のほうですが、螺髪は、肉髻部にはなく、額の上部のみに切りつけられているように見えました。顔部では左目の上にえぐれたような傷があり、両手は欠失していて、特に右手先には、手先を無造作に釘で打ち付けていました。そして、両足先は腐食しているようで、小さな厨子の中に立てかけてある状態でした。表面は全体的に黒漆のようなものが塗られているようでした。

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それから数十年後、薬師如来像は無住の羽下薬師堂から近くの能満寺に移され、修復後、新しく六角堂を建てて安置した、という情報を入手しました。その写真をみて、ビックリ仰天! 頭にカツラのようではなく、明らかに帽子を被せたような螺髪がありました。この修復は、誰がどのような方針でなされたのだろうか?と首をかしげました。いかにも、仏像に帽子を被せているように見えること自体異常です。しかも、修復前の螺髪の形状とまるで違います。

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ところが、今回の展覧会に出品されると、一転、その帽子の螺髪が取り除かれていたのです。これは、どういうことなのでしょうか?図録の解説では、平成7年(1995)に修理が行われ、“着脱可能な螺髪、両手首先、一部の衣文表現などは修理で復元され補われた”としています。この修復での問題点は、当初、切り付けの螺髪があるのに、それを削って着脱可能な螺髪を被せたことです。従って、螺髪の大きさもまるで違ったものになってしまいました。それだけで、印象がかわってしまったのです。

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 たしかに、帽子状の螺髪は、見た目不自然さを感じます。しかし、博物館は、なぜ帽子をはずしたのでしょうか?見た目がわるいから?そもそも当初は、螺髪がなかったから? たんに見た目が悪いから、修復者の意向を無視していいものなのでしょうか? 当初は螺髪があったのにそれを削った状態をみせて、当初のように見せるとしたら、それは、何かの意図があるようにおもえます。すくなくとも、博物館に展示する際に帽子螺髪を取り外した経緯は学術的に説明するべきでしょう。見た目が悪いから というのは学術的説明ではありません。あくまでもファクトとエビデンスにもとづいた説明でないと。念のために。

2021年5月30日 (日)

鎌倉彫刻資料集

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このところ、旅にも行けず、自宅時間が増えて、やることがたくさんあるのに、なかなか手がつけられなくて、無為な時間を過ごしてきましたが、やっと、一つまとめることができました。
『鎌倉彫刻資料集 造像銘記編(稿本)(1301年~1333年)です。なれないpdfファイルにも挑戦して、なんとか変換ができました。
プリントして、綴じれば、一応、本の体裁になります。

ダウンロード - e98e8ce58089e5bdabe588bbe8b387e69699e99b86e980a0e5838fe98a98e8a898e7b7a828e7a8bfe69cac291301e5b9b4efbd9e1333e5b9b4.pdf

 

2020年4月20日 (月)

『日本彫刻史基礎資料集成』データベース

 1ヶ月ほど自宅で過ごしていましたので、やっと集中してパソコンに向き合うことが出来ました。『基礎資料集成』も2期目が完成し、これから鎌倉時代の残りが3期目として刊行される予定なのでしょうが、このまま1年1巻のペースだと、とても、鎌倉時代が終わってから、まとめようにも、自身の能力に確信がもてません。なので、2期目という途中なのですが、一応データのまとめをしてみました。
このデータベースは、日頃入力している「単行本及び単行本論文」のデータをもとにして、項目を追加したり、入力間違いの訂正、及び書式の統一をしたものです。
以下、このデータベースの構造について、すこし詳しく述べてみようとおもいます。それは、このデータベースに入力してあるデータが、各項目にどういう書式で書かれているかを知ることによって、“検索”、“並び替え”がどういう方法でできるかを知ってもらうためです。データベースは、入力してある内容をある程度把握していなければ、十分な使い方は出来ないことになります。


入力項目(見える部分)
【単行本論文NO】
 NCHO 00 000 0000 最初の“NCHO”は単行本のタイトルの最初の4文字をアルファベットで表現したもの。“日本”から始まるタイトルは数が多いので、独自につけたもの。つぎの“00”は"NCHO”が複数在る場合の番号。つぎの“000”は巻数。最後の“0000”は、その本の内容で、入力項目を順番に並び替えられるように、その本の項目の状況によって、適宜つけたもの。たとえば、NCHO-00-001ー0200 は 「平安時代 造像銘記篇 第1巻 2,薬師如来像 黒石寺」』となります。ちなみに、“00”は平安時代造像銘記篇、“01”は平安時代重要作品篇、“02”は鎌倉時代 造像銘記篇 となります。
【年号】
書式は“年号”、(西暦)、その後に、“?”、“頃”、“前後”、“以前”、“以後” という語を適宜つけています。又、天仁年中(1108-1110)という表記もします。この項目では、年号をわかりやすく表記するための項目です。後記するように、インデックス項目として、【西暦】項目があり、そこから“並び替え”ができるようになっています。
【見出】
作品 都道府県 所蔵者 の順です。“作品”はこの本の目次に書かれているのをそのまま表記しています。従って、平安時代篇では、本字(旧字体)をそのまま表記しています。たとえば「17,藥師如來及兩脇侍像 奈良 靈山寺」というように。
所蔵者は、インデクス項目に【地域分類】という項目があり、そこには所蔵者名を新字体で書いていますので、所蔵者名で抽出することはできます。
【品質・仕上・員数・姿勢】
「品質」は“木造”、“銅造”、“鉄造”などの材質。「仕上」は“漆箔”、“彩色”、“素地”、“鍍金”、“切金”などの表面の状態。「員数」は文字通り“○軀”、“一対”等。「姿勢」は“立像”、“坐像”、“跪坐像”、“片足垂下像”等と表記しました。これはこの本の最初の基準から“姿勢”の表記が“形状”項目でしか書かれていないため、いちいち写真を参照しなければならなかったことの手間を省くためです。
【作家】
仏師名の項目です。銘記等で書かれている肩書・住所などその人物にかかわる記述をすべて入力することにしました。たとえば「158,馬頭観音菩薩像 京都 浄瑠璃寺 南都巧匠善義房良賢,禅林房増全,増良房観慶」
書体は検索時の障害を除くため、新字体に統一しました。“採色”も“彩色”としました。“アン阿弥陀仏”だけの銘記の場合はその後に“(快慶)”と加えました。検索の便のためです。
【修理銘等】
修理銘を“西暦”年修理[修理仏師名]のように表記しました。修理仏師も肩書等の情報も表記しました。例えば「76,四天王像 兵庫 圓教寺 1556年修理[修補大仏師覚継法印],1732年修理[定朝法印廿一代家京四条堀川西入町大仏師法橋祐慶,前田修理政美]」、また、仏像が複数の場合、どの仏像に銘記があるか等銘記・納入品に関することで特記の用がある場合表記をしています。
【備考】
所蔵者が複数の場合、その所在の表記。旧蔵者の表記等、その仏像にかかわる特記事項。
【著者名】
仏像の解説を担当した著者。著者名は、作品ごとではなく、下記の「論文名」の項目を書いているごとに1データとしています。
【論文名】
解説の項目。“銘記”、”納入品”、“形状”、“法量”、“品質構造”、“伝来”、”保存状態”、“備考”、“參考論文” という表記。
【始頁】
その論文の始めの頁
【終頁
その論文の終わりの頁
【書名】
本来なら『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 1』と表記するべきなのですが、省略して「平安時代 造像銘記篇1」としました。
【年月日】
本の発行年月日です。

 

入力項目(見えない部分)インデックス
以下の項目は“検索”、“並び替え”のために、もうけた項目です。従って、公表はしません。
【形態分類】
“論文”、“図版”、“解説”等12項目を設定したもの。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【大分類】
美術作品のジャンル。“彫刻”、“絵画”、“工芸”等30項目を設定したもの。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【中分類
主に、彫刻に関する分類。“作品“、“銘記”、“納入品”等23項目。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【尊像コード】
仏像・神像・肖像等の彫刻作品、曼荼羅を4桁のコードにまとめたもの。試行錯誤の末、なんとか使えるようにはなりましたが、例外処理にどうしても主観的になってしまうのが、これからの問題です。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外は認めない。
【尊像分類】
尊像コードの項目に照合する尊像名。入力時には、ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外を認める。
【所在コード】
7桁の数字で、都道府県・市町村名・寺院名を表記したもの。最初の2桁は都道府県コード、例えば“13”は東京都。次の3桁は市町村コード、最後の2桁は、合併以前の識別番号と合併以前の市町村名、主な寺院の番号。
例えば“
2222500 静岡県伊豆の国市【新設】
2222501 静岡県伊豆の国市(旧田方郡伊豆長岡町)
2222502 静岡県伊豆の国市(旧田方郡韮山町)
2222503 静岡県伊豆の国市(旧田方郡大仁町)
2222510 静岡県伊豆の国市<願成就院>
【地域分類】
所蔵者など、寺社名・個人名・機関名
【地域控】
所蔵者が複数の場合、表記する項目。その他、特記事項。
【時代コード】
4桁の数字。縄文時代から、朝鮮・中国の時代を網羅したコード。
例えば、
中国南北朝 3140
中国南朝   3141
中国宋    3142
中国斉    3143
中国梁    3144
中国陳    3145
中国北朝   3150
中国北魏   3151
中国西魏   3152
中国東魏   3153
中国北斉   3154
中国北周   3155
中国隋    3160
中国唐    3170
中国渤海   3177
【時代分類】
時代コードに照合する時代名。ポップアップメニューで選択できるようにしたもの。例外を認める。
【西暦】
4桁の数字、それに、以前<、以後>、頃%、と& を末尾に加え、並び替え用に作成したもの。
【編著者名】
この項目は、ほぼ同一データで煩雑なこともあり、非公表としました。

以上の項目を設定し、やっとのことで、多少、影響をおよぼさない程度に入力を省略していますが、人に見られるようになりました。これから、このデータをどのように加工していくかを考えなければなりません。
データベースを使う基本は、“抽出”、と“並び替え”です。まず、“抽出”に当たって、抽出する項目は、すべて新字体に統一しました。修理銘等の項目はすべて新字体にしてありますので、修理仏師名の抽出ができます。見出には、平安時代篇では、旧字が使われていますが、尊像名は“尊像分類”項目で抽出できます。納入品の尊像リストも“中分類”項目によって抽出できます。作家のリストも、“作家”項目で作家の名前のみの検索で抽出できますが、全体の並び替えはできません。
次に、“並び替え”ですが、もちろん年代順の並び替えは“西暦”項目でできます。尊像順の並び替えも“尊像コード”で可能です。また、著者の抽出も“著者名”項目でできます。その他、“地域コード”を使って地域順に並び替えができます。
さあ、これをどう調理するかは、これから考えていきたいとおもいます。ホームページ[春秋堂文庫]に掲載しようと思いますが、HTMLに変換するのに、結構手間がかかります。文献データベースもずいぶんとサボッているので、それもやらなければと思うと、まだ30年は生きなければなりません。データの1例を紹介します。ご評価をいただきたい。

時代順
NCHO-02-070-2260
 康元元年(1256) 226,十一面観音菩薩像 千葉 天福寺
 木造 素地 1軀 立像
 仏師賢光弁君
 武笠朗 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 162~163 『鎌倉時代 造像銘記篇7』  2009年02月25日 

NCHO-02-070-2220
 建長 8年(1256) 222,如意輪観音菩薩像 京都 透玄寺
 木造 金泥塗・漆箔 玉眼 1軀 坐像 
 水野敬三郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 140~147 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2210
 康元元年(1256) 221,地蔵菩薩像 奈良 春覚寺
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 大仏師刑部法橋快成,小仏師二人之内快尊浄□,都維那師□□,快弁□因□□,厨子絵尊智法眼嫡子快智大夫法眼,彩色朝命尊蓮房尊智弟子也 
 岩田茂樹 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 133~138 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2280
 康元元年(1256) 228,地蔵菩薩像 神奈川 正眼寺
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 武蔵法橋康信?
 1671年修理[細工武州之住□□江戸之□□仏□□□],1803年修理[大工小田原新宿町棟梁林右衛門,仏師同大黒屋文蔵]
 水野敬三郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 177~182 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2200
 建長 8年(1256) 220,愛染明王像 奈良 奈良国立博物館
 木造 彩色・切金 玉眼 1軀 坐像
 大仏師刑部法橋快成,小仏師都維那快尊,因幡公快弁
 岩田茂樹 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 128~132 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-070-2230
 建長 8年(1256) 223,金剛力士像 岐阜 横蔵寺
 木造 彩色 玉眼 2軀 各立像
 仏師五人坪坂住大仏師法眼和尚位定慶,小仏師越後法橋上人□□,讃岐法橋上人長慶,僧越中朝慶,僧讃岐□□己上五人
 1445年修理,1477年修理[仏師道破薩摩国住人也]
 根立研介 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 150~154 『鎌倉時代 造像銘記篇7』 2009年02月25日
 
NCHO-02-081-1200
 建長 8年(1256) 補遺一二 泰澄大師像 岐阜 大師講
 木造 彩色 玉眼 1軀 坐像
 美濃国安八郡大嶋郷住大仏師幸賢,少仏師覚尊
 水野敬三郎 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考 64~66  『鎌倉時代 造像銘記篇8補遺』 2010年02月25日

尊像順(淸凉寺式釈迦)
NCHO-02-010-1000
 建久 4年(1193) 10,釈迦如来像 東京 大円寺
 木造 彩色・切金 1軀 立像
 1707年修理[江戸中橋仏師須藤内記浄安]
 西川杏太郎 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 93~95 『鎌倉時代 造像銘記篇1』 2003年04月15日

NCHO-02-030-0710
 建保元年(1213) 71,釈迦如来像 京都 平等寺
 木造 金泥塗・彩色 玉眼 1軀 立像
 仏師僧良円,僧良□
 山本勉 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 12~14  『鎌倉時代 造像銘記篇3』 2005年03月28日
 
NCHO-02-060-1890
 建長元年(1249) 189,釈迦如来像 奈良 西大寺
 木造 素地・切金 1軀 立像
 大仏師法橋上人位善慶歳五十三臘二十五持斎二十三日,増金,行西,盛舜,観慶,弁実,迎摂,慶俊,尊慶,絵師定春,蓮□,幸実,鏡辨,番匠行久,紀時末,真野末国,三国国満,紀時末己上三人厨子
 1584年修理,1850年修理[京都大仏工職清水定運,量度]
 田邉三郎助 銘記・納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 126~197 『鎌倉時代 造像銘記篇6』 2008年02月25日
 
NCHO-02-090-2360
 正嘉 2年(1258) 236,釈迦如来像 奈良 唐招提寺
 木造 素地・切金 1軀 立像
 台座蓮弁修理銘[椿井次郎丸],台座葺軸修理銘[南都元林院町大仏師淸慶] 
 奥健夫 納入品・伝来・備考・参考文献  34~112 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日
 岩田茂樹 形状・法量・品質構造・伝来・保存状態 106~112 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日

NCHO-02-090-2440
 文応元年(1260) 244,釈迦如来像 岐阜 即心院
 木造 金泥塗・彩色・切金 玉眼 1軀 立像
 覚円仏子造也
 山本勉 納入品・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 164~166 『鎌倉時代 造像銘記篇9』 2013年02月10日
 
NCHO-02-100-2820
 文永 5年(1268) 282,釈迦如来像 愛媛 宝蔵寺
 木造 漆塗 1軀 立像
 大仏師薩摩法橋興慶
 副島弘道 銘記・形状・法量・品質構造・伝来・保存状態・備考・参考文献 87~89 『鎌倉時代 造像銘記篇10』 2014年02月28日

 

2018年3月18日 (日)

狛坂磨崖仏 その1

 2月の小雪の舞う寒い日に、狛坂磨崖仏に行ってきました。40数年前に登って以来です。今回は、数ヶ月前から、足腰のトレーニングや、装備などの準備をした上での挑戦です。
まず、車で、道の駅こんぜの里りっとう から林道にはいり、金勝寺を通りすぎて、馬頭観音堂の駐車場で車を置いて登山の開始です。出発地の駐車場は、すでに標高が高く、それほど登らなくてもすむので、一番楽なコースとおもっていましたが、道は、細い尾根沿いの道で、アップダウンの激しい急坂の連続でした。準備していたストックで、なんとか進むことができました。途中、茶沸観音という石をくりぬいた中に仏像が彫られています。この石仏を太田古朴氏は飛鳥時代で、現存最古の仏像である。〔文献6〕といっていますが、何の根拠で言っているのかわかりません。
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「写真:茶沸観音」

 

歩き始めておよそ一時間で、磨崖仏に到着しました。本物の迫力は、写真をいくら見てもまさるものはありません。これだけ体力を使っても実物を見る価値がありました。しかし、時折,舞う小雪と、膝の疲労が、十分に作品を味わう余裕がありませんでした。第一印象は、鳥の糞とおもわれる白いしみが至る所についていることでした。(注:小松葉子氏によるとカビの一種だということです。) さらに、頭や肩に落ち葉が溜まっていて、随分と外観を損ねていました。

 

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「写真:狛坂磨崖仏全体(新)」

 

40数年前の写真と比べてみると、その当時は9月だったのに、周りの様子は、40数年前とほとんど変わっていないようで、草木が覆っているわけではなく、現状よりも格段に状態がよかったのがわかります。これだけの重要な文化財に十分なメンテナンスがされていないのは、なんとも悲しいかぎりです。

 

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「写真:狛坂磨崖仏全体(旧)」

 

 さて、自宅に戻って旅行記でも書こうとおもって調べてみると、この石仏には、さまざまな問題があることに気づきました。その整理をするのにずいぶんと時間がかかってしまいましたが、いくつかの点を指摘しながらこの磨崖仏の実情に迫りたいと思います。

 

【印相】
 この石仏の中尊の印相は、いままでの論考では、転法輪印(説法印)という説明がほとんどですが、一部の執筆者は、「説法印とおもわれる」といった、断定しないあいまいな表現を使っていて、さらに田中日佐夫氏は説法印に疑問を呈しています(文献11)。

 

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「写真:狛坂磨崖仏印相(旧)」

 

転法輪印(説法印)については、光森正士氏が、7種類に分類した図解を発表していますが(文献32)、

 

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「写真:阿弥陀仏印相図解」

 

それよりももっと大雑把に分類してみると、右手は掌を正面にむけ、左手は手の甲を正面にむけて、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅰ・Ⅱ)と、両手の掌を正面にむけ、大指とその他の指を捻じるかたち(図解Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)に分けられます。狛坂磨崖仏の中尊は、明らかにⅠ・Ⅱ式を表現したものと考えられます。
Ⅰ・Ⅱ形式の印相は、インド・サールナート出土の初転法輪像 インド・サールナート考古博物館(グプタ時代、5世紀後期)に現れています。

 

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「写真:初転法輪印像(サールナート出土」

 

中国では、金銅如来坐像 メトロポリタン美術館(中国・唐)があり、

 

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「写真:金銅如来坐像(メトロポリタン)」

 

朝鮮半島では、雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊像(統一新羅)が例としてあり、

 

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「写真:雁鴨池出土金銅阿弥陀三尊)」

 

日本では、法隆寺献納宝物の中の押出仏、法隆寺所蔵の塼仏・押出仏もこの形式で表されています。

 

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「写真:押出阿弥陀五尊(Nー198)」

 

石仏では、頭塔にある三尊像の中尊もこの形式です。

 

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「写真:頭塔三尊像」

 

一方、Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ形式は、インド、中国、朝鮮にもその例がなく(文献34)、日本の法隆寺伝法堂西の間の中尊がその初現とおもわれます。東の間像は掌が正面に向いていないので微妙ですが、造形意図としては、西の間像と同様と考えてもいいかとおもいます。その後日本では、興福院阿弥陀如来、西大寺伝宝生如来、平安時代に入って、広隆寺阿弥陀如来、伏見寺如来、孝恩寺伝弥勒菩薩など、この形式の説法印が主流になっていきます。

 

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「写真:伝法堂西の間阿弥陀如来」

 

その後、Ⅰ・Ⅱ形式が日本で消滅したわけではなく、平安後期~鎌倉時代と言われている金屋石仏の伝釈迦如来はこの印相で、例外的に、この形式の作例はあります。

 

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「写真:金屋石仏伝釈迦如来」

 

藤岡氏は、8世紀後半にⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式の印相が現れたのは『陀羅尼集経』(史料42)に説く阿弥陀説法印によるものとしています(文献34)。このように、経典によって規定された印相が、主流になっていったとおもわれます。
とすると、狛坂磨崖仏の印相は、左手の指の位置を見れば、どうみても日本で奈良時代に発生したⅣ・Ⅴ・Ⅵ形式とは見えません。Ⅰ・Ⅱ形式の印相を表現しようとしたと説明するのが常道でしょう。

 

【坐法】

 

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「写真:狛坂磨崖仏坐法」

 

 足を交差している形式を見た歴代の研究者は、戸惑ったのでしょう。交脚像というのは、インド・中国に多数見られるのは承知していても、日本に存在するとは思わなかったとおもいます。なので、毛利久氏はX状に両足を交叉しているとしながら、交脚像と関係があるか(文献8)と判断しかねています。佐々木進氏は、結跏趺坐を崩し、両足を交差させる坐法はいかにも不自然である。(文献25)としていますが、発想が結跏趺坐を崩したとみる執筆者もおり(文献20)、結跏趺坐と言い切っている執筆者も多数います(文献13・16・19・24)。いまさら申すまでもないことですが、結跏趺坐とは、両方の足の甲が他方の股の上のる坐法をいうのです。狛坂磨崖仏は、結跏趺坐の定義に当てはまらないのはあきらかです。作家は、足を交差させる造形を意図していることは見て判断がつきます。

 

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「写真:雲崗第7窟交脚像」

 

その交脚像は、石松氏によるとインドでは特定の尊像に限らないで造像され、中国は5世紀代の菩薩像の主役的存在だったが、朝鮮および日本では交脚像の作例は知られていないとしています(文献38)。ただ、石松氏は、中国で交脚坐から結跏趺坐へ変化したという結論は、半跏趺坐の概念を抜きにして論じているため、説得力がありません。狛坂磨崖仏の中尊は日本で唯一交脚坐で造形された尊像であることに反論の余地はないでしょう。ちなみに、小磨崖仏の中尊は蓮華坐のうえに降魔坐の半跏趺坐のようです。

 

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「写真:狛坂磨崖仏小磨崖仏」

 

 

【格狭間】

 

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「写真:狛坂磨崖仏格狭間」

 

 中尊は、宣字座にすわり、両脇侍像は蓮華座の上に立ち、ともに3つの格狭間のある須弥壇のうえに乗っています。横の小磨崖仏も、2つの格狭間をもつ須弥壇の上に三尊とも蓮華座の上にのっています。小磨崖仏の格狭間は摩耗していますが、ほぼ同じ形式とみていいでしょう。

 

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「写真:狛坂磨崖仏横」

 

この鋭角にしのぎのある形式の格狭間は、四十八体仏の辛亥銘観音菩薩像の台座の格狭間と非常に類似しています。

 

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「写真:辛亥銘格狭間」

 

石田茂作氏は、格狭間の形式を5形式に分類し、辛亥年銘像台座の格狭間は、第三類 肘木式に当たるとしています(文献39)。この肘木式は、飛鳥、白鳳、奈良時代に盛行したが、奈良時代に入ると、発展型が優勢になっているとしています。小杉一雄氏は、韓国および四十八体仏の格狭間は、六朝仏の唐草系格狭間の系統ではなく、後漢以来の典型的格狭間の系統で、飛鳥時代の造像の主流が中国直系ではなく、韓国系であったのではないか(文献40)としています。さらに、曽布川直子氏も、7・8世紀の格狭間は中国直系ではなく、一度朝鮮で保持された様式がほぼ同じくして、混交して日本に移入された可能性(文献41)を指摘しています。狛坂磨崖仏の格狭間が辛亥銘の台座と非常に近いこと、その形式が奈良時代には変化していることを考慮すれば、狛坂磨崖仏の格狭間の形式が奈良時代以降である可能性は少ないとみるべきでしょう。

 

その2に続く

狛坂磨崖仏 その2

承前

 

【狛坂寺】
 狛坂寺の歴史を語る前に、金勝寺の歴史を知る必要があります。金勝寺は、奈良時代、良弁僧正によって創立された後、弘仁年中に興福寺僧の願安によって再興され、天長10年(833)に定額寺に列せられ(史料45)長く信仰を集めていました(史料46)。仏像も十世紀の造像と思われる仏像から平安後期の仏像が多数残っています。狛坂寺は、大永6年(1526)の縁起によると(史料47)、弘仁7年(816)、僧願安によって金勝寺の別院として建立されたとしています。ただ、この縁起には磨崖仏の記載がないことが気になるところです。林博道氏によると、その後、回禄と再建をくりかえし、明治維新に廃寺となったとしています(文献30)。現在の狛坂磨崖仏のそばには、石垣があって、建物跡があります。

 

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「写真:狛坂寺址石垣」

 

斉藤氏は、金勝寺所蔵「金勝寺寺領牓示絵図」に狛坂寺伽藍が金勝寺西方の山中に描かれている(文献7)としていますが、この絵図は平安の原本ではなく、鎌倉中期の写本だと注記していて、平安時代に狛坂寺が金勝寺の末寺であったとの根拠としています。しかし、嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』の大菩提寺(金勝寺)の項に二十五箇別院が列挙されていますが、狛坂寺に該当する寺院がありません。ということから考えると、大永6年以前の、金勝寺と狛坂寺との関係は不明としたほうがいいと思います。
林博道氏によると(文献29)、石山寺に狛坂寺出土と伝えられる軒丸瓦二点が保管されていると言うのです。寛政年間、石山寺座主だった尊賢僧正が収集したもので、拓影集『古瓦譜』にその収集のいきさつが著されています。この拓本は4点で、3つは7~8世紀の複弁蓮華文の軒瓦で、ひとつは斜め格子状の模様がある平瓦です。林氏は、この平瓦と同じ模様の瓦片を現地で採集しているというのです。この論文は、ほとんどの研究者が注目していません。(李廷冕氏がその論文でとりあげてはいますが、懐疑的な言及をしています(文献22))。これだけの証拠がありながら、発掘調査などで検証しないのはどういうことでしょう。

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「写真:駒坂寺出土瓦」

 

 もうひとつ、狛坂寺址の地理的な位置について考察する必要があります。金勝寺は、金勝山頂の北側に位置し、草津方面から南に金勝山に向かってのぼるルートが主要だったとおもいます。『興福寺官務牒疏』に書かれている二十五箇別院は(史料48)、皆、金勝寺から北北西から北東方面に存在しています。

 

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「写真:金勝山地形図」

 

狛坂磨崖仏へは、3つのルートがあります。ひとつは北の鶏冠山を通って、白石峰から、下るルート。もうひとつは上桐生からなだらかな山道を登るルート。最後は大戸川沿いの桐生辻から一気に北上して登るルートです。3ルートとも、西および南側からのルートです。狛坂磨崖仏と金勝寺は、尾根伝いに通る道です。しかも途中に竜王山、白石峰と2つの頂を通るルートになっています。標高でいうと、金勝寺は530m、馬頭観音堂595m、竜王山は605m、白石峰は580m、狛坂磨崖仏は480mとなります。つまり、もともと狛坂寺が、金勝寺の別院として創立したにしては、連山の東西の端に位置していること、距離的に離れていること、また、寺にはそれぞれ別々のルートで行かなければならないことを考えると、二つの寺院がもともと関係があったのかは、もう少し精査が必要です。

 

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「写真:金勝山断面図」

 

【時代判定】
 この磨崖仏の製作年代を今までの執筆者から分類すると次のようになります。

  1. 白鳳(奈良前期)・・・太田古朴(文献4・6)、田中日佐夫(文献11)
  2. 奈良(8世紀)・・・・・・秦秀雄(文献5)、斉藤孝(文献7)、水野敬三郎(文献20)、李廷冕(文献22)、佐々木進(文献25)
  3. 奈良末~平安初期(8世紀末~9世紀初)・・・毛利久(文献8)、宇野茂樹(文献9)、久野健(文献10)、川勝政太郎(文献2・3)、宮本忠雄(文献16)、水野さや(文献26)
  4. 平安後期・・・堀井三友(文献1)

この磨崖仏の製作者は、渡来した新羅の工人ではないか、と推測したのは、川勝氏でした(文献2)。それをさらに発展して、詳細な論考をしたのが斉藤孝氏でした(文献7)。まず、斉藤氏の論文から新羅的要素を三点述べています。

  1. この三尊は花崗岩に刻まれた磨崖仏である。
  2. この三尊は唐風の様式で、木彫仏に迫るような本格的な様式で表現されている。
  3. この三尊は壁面から完全な浮彫りになっている。

この条件は、新羅の南山七仏庵三尊磨崖仏とおなじ条件で満たされている。さらに、花崗岩を刻む技術は、日本では鎌倉時代にまで下るということなど、その石匠は半島の帰化系民か、あるいは新羅文化と深いかかわりをもった本邦人ではないか。としています。
毛利久氏もそれに付け加えて、中尊の形状がブロック状積み重ね式で構成されている。さらに、脇侍菩薩像の一八〇度的立ち方、胡桃形の連弁は、南山七仏庵磨崖仏に見いだされる(文献8)。としています。この新羅系工人説は、さまざまな周辺情報を根拠として付け加えながら、その後の研究者に受け継がれていきました。そのため、2 奈良説をとる研究者は、この新羅工人説を採用して時代判定をし、さらに、3 奈良末~平安初期説をとる研究者は、奈良時代の願安の活躍から、金勝寺の創立時期を考慮したうえで、時代判定をしているように見えます。
それに対して、田中日佐夫氏は、格狭間の様式、仏像の形体から、この磨崖仏は白鳳時代の様式を持っているとし、狛坂の狛は「高麗」であり、「高句麗」を意味するので、高句麗からの渡来人による造像の可能性を指摘しています(文献11)。

 

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「写真:南山七仏庵磨崖仏」

また、李廷冕氏は、新羅七仏庵三尊磨崖仏との比較から、七仏庵像を八世紀初半の造立とし、狛坂磨崖仏は八世紀初半から中期に至る間に造立され、百済系渡来人による造像と結論づけました(文献22)。この田中氏と李氏の新羅工人説の否定は、説得力があります。というのは、新羅工人説を唱える執筆者は、一様に、この金勝山の花崗岩が露出する風景が、慶州南山の風景と類似することを根拠としているからです。しかし、磨崖仏は、彫刻する素材の石があれば、どこであっても造像が可能です。風景が造像の根拠であるというのは薄弱な材料です。

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「写真:狛坂磨崖仏見上げ」

さらに、花崗岩という堅い石を刻む技術が日本にはないから、新羅工人によるものという推測も、たとえば、頭塔の石仏は花崗岩製ですし、奈良時代には花崗岩の加工を日本でおこなっている事実を考えればあてはまりません。石工の技術は、道具がそれに対応したものがその当時あったかどうかが問題なのであって、石の大小で判断されるべきではありません。様式の比較も、個人の感覚に依拠するような見た目の判断は慎まなければなりません。これとこれ、似ているでしょう。といわれてもどこがどう似ているの?ということに客観的に答えられなければ学問として成り立たなくなります。
 美術史の様式論は、その時代を反映したものであり、基本は時代を超えて存在するものではありません。例外的に過去の様式の複製、模倣という形が存在しますが、その違いを判断できるのが美術史としての学問でしょう。ということは、その時代の様式とその時代がしっかりと把握されていれば、時代判定の確実なものとなるのは明白です。

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「写真:狛坂磨崖仏中尊(新)」

 狛坂磨崖仏の中でいくつかの形状とその様式について検証してきましたがそれにもとづいて判定することにします。

まず、印相についていえば、狛坂磨崖仏中尊の印相は、Ⅰ・Ⅱ式の説法印との判定からすると、このⅠ・Ⅱ式の形式の印相は日本では、奈良時代にⅣ・Ⅴ・Ⅵ式に代わっていることがわかります。Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ式は平安時代には主流になっていることを考慮すれば、平安初期の造像とは考えにくいことになります。

坐法についていえば、日本にも、朝鮮半島にもない交脚坐は、すくなくとも朝鮮半島から経由した様式ではないことがわかります。中国からの直接的な流入として考えるべきでしょう。

格狭間についていえば、白鳳時代の基準作例のそれと類似していること、格狭間のような装飾の様式は、時代とともに変化していくのが普通であるということを考慮すれば、白鳳時代と判定するのが本来です。

狛坂寺の創立については、史料の不足もあり、断定的なことはいえませんが、新羅工人説を全面的に信用はできないこと、さらに、林博道氏の発見された瓦に対して検証すべく、磨崖仏周辺の発掘調査の必要性を感じます。

また、良弁、願安とのかかわりは、あくまでも奈良時代にかかわったという前提ですので、狛坂寺の創建がそれ以前ということならば、その接点はないというべきでしょう。白鳳時代には、崇福寺の例もあるように、すでに山岳寺院は存在していたのであり、山岳寺院創建の根拠となる理屈も存在していたとすべきで、狛坂寺の白鳳時代創建説に支障はないとおもわれます。

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「写真:狛坂磨崖仏横(新)」

 

文献リスト

〔狛坂磨崖仏〕

  1. 三友生「狛坂寺磨崖佛踏査記 」 『東洋美術』 16  1932年11月10日 飛鳥園 140p~144p
  2. 川勝政太郎「第六章 古石佛巡禮/三一、金勝山彌陀三尊磨崖佛」『日本の石佛』 1943年6月1日 232p~235p
  3. 川勝政太郎「日本石佛の性格ー特に材質と彫成手法を中心としてー」『佛教藝術』 30 1957年1月30日 20p~32p
  4. 太田古朴・辰巳旭・細川政之介「近江金勝山狛坂寺跡奈良時代大磨崖丈六弥勒説法浮彫像 」 『石仏』 3  1964年10月10日 奈良石造美術研究会 33p~36p
  5. 秦秀雄「埋もれていた奈良朝の石仏 ー狛坂廃寺跡の大磨崖仏ー」 『芸術新潮』 17-12(204) 特集1: ボナールをつぐ色彩 [Pierre Bonnard]/特集2: 美のガラス3000年 1966年12月1日 新潮社 92p~93p
  6. 太田古朴「白鳳/八 日本第一の磨崖仏/丈六弥勒大説法磨崖仏ー近江狛坂寺ー 」 『飛鳥 奈良ー仏像鑑賞シリーズ1ー』 1971年2月20日 綜芸舎 40p~41p
  7. 斉藤孝「江州狛坂寺址大磨崖仏私見 ー我国奈良時代と統一新羅の石仏ー」 『原弘二郎先生古稀記念東西文化史論叢』 1973年1月20日 原弘二郎先生古稀記念会 315p~336p(『日本古代と唐風美術』 1978年5月20日)
  8. 毛利久「当麻寺弥勒仏像と新羅様式」『日本のなかの朝鮮文化』 20 1973年12月25日 4P~11P(『仏像東漸』 1983年3月10日 )
  9. 宇野茂樹「第二編 第二期の近江宗教彫刻/第四章 金勝山寺の諸尊像/(四)別院狛坂寺阯磨崖仏」『近江路の彫像』 1974年5月25日 雄山閣出版 161p~164p
  10. 久野健「日本の石仏/3,狛坂廃寺の磨崖仏 」 『石仏』ブック・オブ・ブックス 日本の美術・36 1975年12月10日 小学館 128p~131p
  11. 田中日佐夫「狛坂寺大磨崖仏とその周辺 」 『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』 1976年1月11日 柴田實先生古稀記念会 525p~539p
  12. 「遺品編/狛坂寺磨崖仏 滋賀県栗太郡栗東町 」 『日本石造美術辞典』 1978年8月25日 東京堂出版 96p~97p
  13. 久野健「図版解説 狛坂廃寺/20 狛坂磨崖仏・如来三尊像 」 『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年11月23日 集英社 127p~127p
  14. 毛利久「狛坂磨崖仏と金軆寺/狛坂磨崖仏 」 『近畿文化』 396 1982年11月1日 近畿文化会 1p~2p
  15. 「4,近畿地方(一) 滋賀県/狛坂磨崖仏如来形三尊像 」 『日本仏像名宝辞典』 1984年9月30日 東京堂出版 233p~233p
  16. 宮本忠雄「作品解説 石山寺と近江の古寺/38,狛坂磨崖仏 如来形三尊像 」 『全集日本の古寺 5 石山寺と近江の古寺』 1985年7月21日 集英社 135p~135p
  17. 邊見泰子「近畿/狛坂寺跡磨崖仏 」 『磨崖仏紀行』 1987年1月23日 平凡社 46p~48p
  18. 佐々木進「栗太郡/167,狛坂磨崖仏 」 『日本の仏像<滋賀>』仏像集成 4 1987年2月1日 学生社 132p~133p
  19. 高梨純次「佛解説/狛坂磨崖仏 栗太郡栗東町荒張字狛坂 」 『滋賀の美 佛 湖南・湖西』 1987年3月26日 京都新聞社 196p~196p
  20. 水野敬三郎「図版解説/141 狛坂磨崖三尊仏 史跡 栗東町 滋賀 」 『日本美術全集 第4巻 東大寺と平城京 奈良の建築・彫刻』 1990年6月8日 講談社 228p~228p
  21. 佐々木進「滋賀県(湖東・湖南・大津)/良弁と金勝寺ー狛坂磨崖仏 」 『仏像を旅する 東海道線ー東下りと上方への道、民俗・文学・文化財ー』 1990年10月10日 至文堂 263p~265p
  22. 李廷冕「近江狛坂寺址磨崖佛についてー特に朝鮮渡来人と関連してー」『リベラル・アーツ(札幌大学教養部教育研究)』 4 1991年1月15日 73p~101p
  23. 「美術工芸編 第二章 彫刻/41,狛坂磨崖仏 荒張 」 『栗東の歴史 第四巻 資料編Ⅰ』 1994年3月31日 栗東町 228p~228p
  24. 村田靖子「第Ⅶ章 韓半島/顏貌表現・裳懸座/統一新羅時代/磨崖如来坐像 滋賀・狛坂廃寺 」 『仏像の系譜ーガンダーラから日本までー』 1995年5月19日 大日本絵画 240p~242p
  25. 佐々木進「本文/狛坂磨崖佛 」 『國華』 102-7(1216) 特輯 日本の石佛(下) 1997年2月20日 國華社 15p~17p
  26. 水野さや「図版解説/88 狛坂磨崖三尊像 」 『日本美術全集 第3巻 東大寺・正倉院と興福寺 奈良時代Ⅱ』 2013年9月2日 小学館 243p~244p
  27. 「第1章 滋賀の仏像の歴史/3 近江国での寺院の建立ー飛鳥時代から奈良時代/狛坂磨崖仏 (栗東市) 」 『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』 2015年1月30日 サンライズ出版 12p~12p

 

〔狛坂廃寺〕

  1. 28 高梨純次「図版解説/狛坂廃寺」『日本古寺美術全集 11 石山寺と近江の古寺』 1981年7月21日 集英社 127p~127p
  2. 29 林博道「石山寺に蔵する『古瓦譜』およびその古瓦について」『考古學雜誌』 67-4 1982年3月31日 48p~62p
  3. 30 林博通「第二部 近江の古代寺院/狛坂寺跡(栗太郡栗東町荒張) 」 『近江の古代寺院』 1989年5月30日 近江の古代寺院刊行会 332p~337p
  4. 31 宇野茂樹「草創期の金勝寺」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 12p~14p

 

〔印相〕

  1. 32 光森正士「阿弥陀仏の印相図解」『阿弥陀仏彫像』 1975年4月15日 (『日本の美術』241 阿弥陀如来像 1986年6月1日)
  2. 33 神戸佳文「小野万勝寺阿弥陀如来坐像についてー説法印を結ぶ阿弥陀如来坐像の一例ー」『塵界』 6 1993年3月31日 91p~111p
  3. 34 岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」『美術研究』 373 2000年3月30日 1p~47p
  4. 35 藤岡穣「説法印阿弥陀如来像をめぐる試論」『待兼山論叢』 35 2001年12月20日 1p~27p
  5. 36 中野聰「法隆寺伝法堂西の間阿弥陀如来坐像の印相について」『美術史研究』 41 2003年12月15日 147p~264p(『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)
  6. 37 中野聰「頭塔の阿弥陀三尊石仏をめぐる一考察」『日本宗教文化史研究』 13-1 2009年 (『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』 2013年1月25日)

 

〔坐法〕

  1. 38 石松日奈子「中国交脚菩薩像考」『佛教藝術』 178 1988年5月30日 55p~83p

 

〔格狭間〕

  1. 39 石田茂作「香様の起源と發展」『考古學雜誌』31-7・8 1940年7月・8月(『佛教考古學論攷』 六 雜集編 1977年12月30日)
  2. 40 小杉一雄「格狭間について」『美術史研究』 7 1969年3月20日 1p~26p
  3. 41 曽布川直子「格狭間の変遷ー東アジアにおける文化受容の一例としてー」『デザイン理論』 40 2001年11月11日 1p~14p

 

〔史料〕

  1. 42 「陀羅尼集經 巻第二」『大正蔵』18 800p下
  2. 43 「覺禪抄 巻第六」(阿彌陀上)『大正蔵図像』4 455p上
  3. 44 「阿娑縛抄 巻第五十三」(阿彌陀許可作法)『大正蔵図像』8 1103p上
  4. 45 「天長十年(833)九月八日条」『続日本後記 巻第二』
  5. 46 「寛平九年(897)六月廿三日太政官符」『類従三代格 巻第二 佛事上 年分度者事』
  6. 47 「史料篇/江州狛坂寺本尊縁起 」 『金勝寺ー良弁説話と二十五別院ー』開館5周年記念展 1995年10月0日 栗東歴史民俗博物館 116p~117p
  7. 48 「興福寺官務牒疏」『大日本佛教全書』寺誌叢書三

 

2017年10月17日 (火)

小浜散策

 朝一番で東京を出てきたのに、東小浜駅に着いたのはお昼近くでした。さっそく福井県立若狭歴史博物館へ。『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』展を見学。平安末期~室町時代の仏像を展示していました。

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たしかに、今まであまり知られていない仏像が多く出品されていましたが、特別展の仏像よりも常設展で展示されている、複製の仏像に注目しました。そのひとつが、長慶院聖観音坐像です。

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上から、膝部分を見ると、明らかに”半跏趺坐”です。さらに、常禅寺不動明王坐像のレプリカもありました。

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どう見ても”半跏趺坐”です。常禅寺像は、『基礎資料集成』では、”結跏趺坐”と書いています。明らかに間違いです。

東小浜駅で、電動アシスト自転車を借り、羽賀寺に向かいました。

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ひさしぶりに、十一面観音立像を見たくなったからです。いつ見ても、不思議な像です。

最近の電動自転車は実に快適です。羽賀寺から先の予定は決めていなかったのですが、この調子ならば、昔をおもいだして、妙楽寺へ行くことにしました。

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妙楽寺は、大学院のゼミ旅行でのレポートの題にした聖観音立像があります。

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この聖観音立像は、11世紀頃の作と判定しましたが、渦文が、今回数えただけでも18個ありました。この過剰なまでに装飾をした渦文を調べましたが、結局よくわからずレポートも中途半端な論文になってしまいました。先生には、詰めが足りないと指摘されました。

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その後、井上正氏が『日本美術工芸』550号 昭和59年7月1日でとりあげられました。井上氏は、渦文が現存だけでも19個、失われた天衣垂下部をいれれば20数個あると書いています。そしてこの表現は、”古密教彫像表現の一画をなす霊威性の特異な表現”と書いていますが、むしろ、この渦文という表現方法が、何を参考にして彫られたのかが疑問でした。確かに、渦文は、平安前期彫刻であることのひとつの表象ととらえられますが、いったい何時、誰がこの表現をはじめたのかが知りたかったのですが、残念ながら、それには答えてくれませんでした。頭の中はまだもやもやが晴れません。

 そして、近くの圓照寺で。ここは、胎蔵界大日如来坐像と庭園がみどころです。

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電動自転車は快調で、次は、山の向こうにある若狭彦神社へ、トンネルを突き進みます。

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すぐ近くには、萬徳寺、ここは、阿弥陀如来坐像と庭園があります。

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ここまで来ると、さすがに自転車をこぐ筋肉と歩く筋肉の違いで、足に筋肉痛がはしり、今日の寺巡りはおしまい。

翌日、小浜西組の重要伝統的建造物群保存地区と、特別公開の寺院を巡りました。

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たしかに、小浜西組の町並みは、よく保存されていました。しかし、何か特徴がありません。小浜という町は、城下町なのですが、むしろ若狭街道と、北前船の寄港地として発展した町のようです。しかし、大きな屋敷があるわけでもなく、特徴のない町並みに感じられました。

その小浜西組の外れにある高成寺から。

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本尊の千手観音立像は、平安前期の像として、注目をあびましたが、9世紀かな?というところですか。

正法寺は、銅造如意輪観音半跏像があります。想像以上に大きな仏像でした。

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栖雲寺は、永万元年(1165)銘のある阿弥陀如来坐像を拝観しました。この像も想像するより小さな像でした。写真撮影OKなので、撮らせていただきました。

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といったところで、小浜の仏像探訪は、これでお開きとしました。

2017年5月 7日 (日)

関西仏像旅

 ゴールデンウィーク前半に2泊3日の旅をしてきました。
4月30日
 兵庫県立博物館「ひょうごの美ほとけ」展へ。

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兵庫県の白鳳から江戸時代の仏像をならべた展覧会でした。その中で“半跏趺坐”像を確認することができました。

  • 日野辺区 聖観音坐像

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  • 神積寺 阿弥陀如来坐像
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  • 参考 遍照院 銅造如来坐像

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神積寺像と遍明院像は右の足裏が左手に隠れて見えないので、“半跏趺坐”と断定するには躊躇するが、足の組み方の造形は、”結跏趺坐”の造形意図で造られていないと判断できる。
このような、形状の坐像は、仏師の造形意図をくみ取ることによって、”結跏趺坐”ではなく、”半跏趺坐”像と判定するのが、今の所最良の判断材料であろうと思います。

大阪市立美術館「木×仏像」展へ。

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この展覧会も飛鳥から江戸時代までの全時代の木彫仏を展示していました。
その中で、3体の”半跏趺坐”像を確認しました。

東大寺弥勒如来坐像

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この仏像は、以前から言及してきましたが、膝部分の奥行きのなさが、そうさせているのでしょうか?

宮古薬師堂 薬師如来坐像

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この仏像は、初見です。

四天王寺 阿弥陀三尊像のうち阿弥陀如来坐像

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右足裏が左手に隠れているので、正確には断定できませんが、膝の造形からみれば、”半跏趺坐”と認めてもいいとおもいます。

5月1日

奈良に泊まり、まずは、興福寺中金堂の「阿修羅 天平乾漆群像展」へ。これも以前言及していますが、中尊の前に華原磬を置くならば、当然、婆羅門がその馨を打つ動作をした像を配置すべきなのでしょう。

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奈良国立博物館には、まだ時間があるので、東金堂へ。ここには、仏頭がありました。まさにこの須弥壇の中から発見されたものです。

奈良国立博物館「快慶」展へ。

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さすがです。カタログもすばらしい資料です。その中で、随心院 金剛薩埵坐像を確認することが出来ました。

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奈良博の学芸員の山口隆介氏が調査した報告では、この像を“半跏趺坐”と書いているのに、今回のカタログでは、岩井共二氏の執筆です。当然、坐法についてふれていません。

なら仏像館

この館に展示している半跏趺坐像を列挙してみます。

京都 観音寺 菩薩坐像

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文化庁 銅造薬師如来坐像

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この像は、キャプションによると、新薬師寺本尊の宿模だと書いていますが、そうすると、新薬師寺像も“半跏趺坐”と認めるのでしょうか。

金剛寺 降三世明王坐像

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鎌倉時代ですが、もうひとつの脇侍、不動明王坐像とともに、“半跏趺坐”に造っているのは、図像から参照したものと思われます。

その他

  • 見徳寺 薬師如来坐像
  • 当麻寺 宝冠阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 阿弥陀如来坐像
  • 奈良国立博物館 五大明王像のうち不動明王坐像

が“半跏趺坐”像と認定できます。

ひさしぶりに、国会図書館関西館へ行きました。

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東京の本館と比べて新しいせいで、いやな思いもせず、大変心地よく使えました。

5月2日

まずは、京都へ。去年開館したばかりの「旧三井家下鴨別邸」へ。ここは、下鴨神社の糺の森に入る手前にあります。

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明治13年、木屋町三条にあった別邸を大正14年に移築、更に増築した建物です。

残念ながら、旅行社用に2階を押さえられて、1階しが見せてもらえませんでしたが、手吹き円筒法とおもわれる板ガラスを見つけました。

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京都非公開寺院の公開で仁和寺へ。

霊宝館で、阿弥陀三尊像を拝観。
金堂、経蔵を拝観。

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そして、ひさしぶりの広隆寺へ。

足が遠のいていたのは、あまりいい評判を聞かないので、躊躇していました。
案の定、講堂は、金網がしてあり、おまけに、扉をほんのちょっと開けて、中の三尊が覗ける程度の開き方をしていました。

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ずいぶんと、ふざけた対応です。ちゃんと、人を配置して、何で堂々と拝観させないのでしょうか。新霊宝殿の真っ暗闇は、どうしようもない。

島原へ。角屋もてなしの文化美術館へ。
2階部分は、説明付きで、別料金。もっとよく見せてほしいところですが。

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龍谷ミュージアムから、京都国立博物館へ。

京都国立博物館は、「海北友松」展をやっていましたが、平常展の彫刻だけ見たいを思っていましたが、なんと、全て、特別展の料金でないと入場できないということで、パスポートでの入場を断られました。
今回の「海北友松」展の会場が本館ではなく、新館で行われたためでしょうか、それにしても、平常展の見学者を切り捨てる態度は、もとの役所仕事にもどってずいぶんと態度がでかくなったなという印象です。平常展のみの入場ができる、装置はいくらでもできたはずです。

そして、平常展で見たかった仏像は

金剛寺不動明王坐像

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高山寺 薬師如来坐像

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神護寺 薬師如来坐像

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特に、高山寺像、神護寺像は、俯瞰で見ることができ、“半跏趺坐”であることを確認しました。

今回の旅では、多くの“半跏趺坐”を実見することができました。なかなか以前の写真だけでは、その撮影者が、坐法について意図して撮影していないので、実見するしかないのが実情です。
調査者が、ちゃんと、坐法についての知識と判断能力がなければ、これからも、仏像の形状の記述は、まゆにつばをつけることが続くことになります。、

2017年3月20日 (月)

安土・神戸・姫路の旅

 3月18日19日と旅にでました。
まずは、米原から東海道線で、安土駅へ、今回は初めてレンタサイクルで安土城考古博物館へ。「大湖南展ー栗太・野洲郡の風土と遺宝ー」の見学です。このシリーズは、滋賀県の仏像の紹介としては何回も開催してほしい展覧会です。

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その中で、注目したのは、真光寺聖観音菩薩坐像です。この仏像は銘文があって、1036年には完成していた仏像です。今回、膝部分を俯瞰して見てみると、半跏趺坐です。

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この仏像は、『基礎資料集成』にも掲載されている仏像です。それには結跏趺坐と書いてあります。

自転車の機動性を生かして、安土駅の近くにある「旧伊庭邸住宅」へ。

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大正2年(1913)ヴォーリズ設計の住宅です。内部には、結霜ガラス、色型硝子が嵌まっていました。

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東海道線にゆられて、神戸六甲道駅で下車。歩いて、“武庫の郷”の甲南漬資料館へ。

ここは昭和5年(1930)年竣工で、創業者の高嶋平介の自宅を資料館としています。
壁に2箇所ステンドグラスがありました。このステンドグラスはオパールセントグラスを使わない手法で作られています。

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JR住吉駅からバスで、白鶴美術館へ。ここは、初めての訪問です。収蔵品のすばらしさに感動です。関西のコレクターのすごさを実感させられました。

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泊まりは、姫路市内で、翌日、山陽電車で、山陽網干駅で下車。歩いて、ダイセルへ。ダイセルは、明治42年日本セルロイド人造絹糸として創業。明治43年にイギリスから技師長を呼び、その居宅として建てられた洋館が2棟、工場内に残っています。

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こじんまりとした洋館ですが、ガラスも古そうです。

さて、今回のメインは、そこから歩いて10数分の住宅街の中にある「山本家住宅」の見学です。山本家は、メリヤスの製造で財をなし、網干町長、網干銀行頭取を務めた家です。

建物は、明治初期に建てられた主屋と、大正7年(1918)の洋館、和館があります。

まずは、玄関から。

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望楼付きの黒壁の洋館ですが、和様折衷の意匠を採り入れています。

書斎とサンルームの間の窓にステンドグラスがありました。

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このデザインは、他のステンドグラスと違うデザインコンセプトを持っています。その横の出窓のステンドグラスは、すばらしいデザインです。

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このデザインは、きっとその作家は明らかになるだろうと思いますが、かなりの上級レベルです。

廊下と洗面室の壁取りつけられたFIX窓は、

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これも、どこかで見たデザインに似ています。

廊下の天井に同じ図柄の六角形のステンドグラスのトップライトがあります。

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これも、丸い半円形のかたまりのガラスを使っているところは、どこかで見たような気がします。

そのほか、窓ガラスには、結霜ガラスを多用していました。

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残念ながら、模様入りケシガラスは、ここでも見当たりませんでした。関西で、模様入りケシガラスの例がこれほど少ないのは、どうしてでしょうか。大阪の硝子問屋、篠原善三郎商店では、「硝子板意匠摺見本」というカタログをだしているのが、判明しているのに、何故普及しなかったのでしょうか。いまだに、その疑問が解決できません。

数十年ぶりに、改修なった姫路城の内部を見学しようと、お城に行ってみると、天守閣は1時間待ちだそうで、そうそうに引き上げました。

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もう1回すべてを見尽くしたいと思ったのですが、しかたなく、バスで太子町へ。

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「斑鳩寺の文化財ー庫裏の仏さまたちー」展へ。庫裏の解体修理に伴って子院の仏像の展示を行っていました、殆どが近世の小像なのですが、その中で、一面六臂の不動明王立像を発見しました。実に珍しい仏像ですが、残念ながら、カタログはなく、資料としての写真が手に入りませんでした。

今回の旅では、やはり、網干の山本家住宅が、一番の成果でしたが、こういった住宅がこれから、長い間維持できるのか、不安がのこりました。

2016年11月13日 (日)

九州、滋賀、京都の旅(その1)

ひさしぶりに、3泊4日の長い旅行にいってきました。
例によって、板ガラスと仏像探訪の旅です。
11月3日
羽田より久しぶりの飛行機で、鹿児島へ。飛行機はどうもなじめません。まずセキュリティで必ず引っかかります。そのたびに、ベルトから財布まで外に出し、何回もゲートを通らなければならないからです。さらに、機内では、常にアメをなめないと耳の気圧を抜くことができません。おまけに、新幹線とくらべて、座席は狭いし、ガマンの2時間でした。
鹿児島は、鹿児島歴史資料センター黎明館で開催されている「八幡神の遺宝」展を見学。
目玉はやはり、大分・奈多宮の八幡三神像です。以前にみたことはありましたが、伝神宮皇后像の、“無眼” をもう一度確かめることができました。ほぼ同時期の,伝比賣大神像、僧形八幡神像の眼の彫り方と比べてみても、あきらかに、眼を彫っているとは思えませんでした。まして、眼をつむっているとするには、あまりにも無理があります。

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そして、歩いて、鹿児島第一の百貨店山城屋の7階にあるレストランへ向かいました。ところが、その日は鹿児島市内は“おはら祭り”で、主要道路を封鎖して、各町内の踊り手が行進するという大イベントの最中でしたので、レストランは、中に入るのに、大行列で、レストラン入口は人でごった返していました。
このレストランの入口に最近、松本ステンドグラスが製作したステンドグラスが嵌まっている、というのをNETで見て、行ったのでした。鳳凰の模様のなかなかいいデザインのステンドグラスが入口の両脇のFIXに嵌められていましたが、写真もとることができず、すぐさま退散。この山城屋のオーナーの岩元家には、小川三知の作品がはまっているのですが、非公開。この食堂のステンドグラスも小川三知風にデザインしてつくられたようです。
鹿児島中央駅から、新幹線で久留米へ、さらに鹿児島本線で、原田へ、そこからタクシーで、九州歴史資料館へ。

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「八女の名宝」展を見学。仏像は、谷川寺の仏像が展示されていました。9世紀の薬師如来立像が注目です。
住宅造成地の中を三国ヶ丘駅まで歩き、西鉄で、博多へ。

11月4日
博多より、電車で、新飯塚まで、およそ50分、そこからバスで10分ほどで、“旧伊藤伝右衛門邸”へ。

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玄関に入って右には。書斎、左に応接間があります。両方とも、窓のランマに同じ図柄のステンドグラスがはまっていました。中央に四角の透明ガラスに面取りし、各隅には、四角垂のガラスをはめています。色ガラスは蛍光のはいった黄緑色をしています。イギリス製といわれていますが、確かにオパールセントグラスを使っていません。

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博多にもどって、地下鉄で、箱崎九大前で下車、九州大学箱崎キャンパスへ。このキャンパスはほぼ移転がおわっており、古い建物のみ残して、あとの建物は取り壊している最中でした。その残す建物のうち、旧工学部本館の建物を見に行きました。玄関ポーチの天井にステンドグラスが嵌まっていました。ただ、ほこりをかぶったままで、クリーニングをしていないので、きれいにみえませんでしたが、

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玄関のランマのステンドグラスは、なかなかのものでした。

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地下鉄で、馬出九大病院前で下車すると、すぐに、九大病院にはいります。一般の患者は、病院のほうに向かっていきますが、九大医学研究院基礎研究A棟は、反対の方角にあります。この建物は実際に研究室として使われている建物です。研究生が出入りしていました。その建物の玄関に入ると、2階まで吹き抜けになったホールがあります。そのホールの2階の壁にステンドグラスの嵌まった開口部があります。

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また、多少デザインが違いますが、1階入口の両脇の窓にもステンドグラスがありました。

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しかし、このステンドグラスの嵌まっている部屋は使われていないようで、部屋の照明をしていないので、色がよくでていません。折角のステンドグラスなのに、そのよさを見せないのは、もったいない。ここのステンドグラスは内部ということもあって保存がよく、また、すばらしいデザインをしています。

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博多にもどって、特急ソニック号で、別府へ。駅から歩いて10分ほどのところに、別府市公会堂があります。ここの階段の踊り場にステンドグラスがありました。夜空に雲というデザインです。

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電車で大分に着き、今日はここで、泊まり。

その2に続く

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