崇福寺塔址狸堀事件
原田仁は明治41年、宮崎県児湯郡妻町(現西都市)に生まれた。家業の印刷所を手伝いながら、測量技術を営林署で学んだという。その技術が濱田耕作に認められ、昭和9年から11年にかけて、西都原古墳群の実測をした。その成果は濱田耕作と共著という形で『西都原古墳の調査』日本古文化研究所報告 第十 に出版された。その後、濱田耕作は、京都大学に関係した遺跡の測量技師として原田に仕事を依頼していた。原田の調査方法は、トランシットと平板測量を併用するやり方で、その当時はかなり画期的な方法だったようで、その後京都大学ではその方法が受け継がれたという。
昭和13年8月頃から、柴田実は、大津京址の発掘調査をはじめていたが、2つの遺跡のうち、まず南滋賀廃寺から発掘調査を主に行っていた。その最中の昭和13年9月下旬に、崇福寺跡付近で山崩れがあり、その土砂から、軒丸瓦や塼仏の破片が地元の塚本権右衛門によって発見された。そのため、急拠、10月から12月にかけて、断続的に崇福寺跡の調査をしていたが、柴田は、崇福寺跡の本格的調査を行うために、実測調査の必要を感じた。そして、昭和14年3月頃京都大学の梅原末治に実測担当者の推挙を依頼した。梅原は、原田仁という人物を推薦した。しかし、梅原はこの人物は普通の人とは違った性格の持主であることを知っていたので、そのことを柴田に充分に注意し、監督するように付け加えた。
昭和14年4月から、原田は、崇福寺跡の実測調査に着手した。調査中、原田は塔址に心礎がないのに製図上に不満を感じた。それで、柴田に塔址の発掘調査を再三にわたって進言していた。柴田は南滋賀廃寺の発掘調査に忙殺されており、どうも簡単に許可してしまったようだ。あるいは、昭和3年の肥後和男の調査では、もう心礎は取り出されてないという報告だったので、掘ってもないだろうという先入観があったのかもしれない。
原田は、地元の塚本権右衛門一家とともに、塔址の発掘を開始してしまった。5月14日から発掘をはじめて、15日に表面下4尺の処で、心礎を堀り当てた。その頃、梅原は原田から一週間も連絡のないのを案じて、16日、京都大学の学生の、今井富士雄、岡崎卯一の両人を現地に派遣した。その日の夕刻、両君の報告は、原田が心礎を発見したこと、そして、その発掘を手伝ってきたという報告であった。梅原は2人に発掘の重要性を説いて、素人の発掘に考古学徒が手伝うといったことに反省をもとめるとともに、すぐさま、柴田に連絡をとるように手配した。しかし、翌17日は、柴田と連絡がとれず、その間、原田は、17日には舎利奉納孔を発見して、遺物をとりだしてしまっていた。
18日、梅原が大学に出勤すると、思いがけず、原田が舎利容器と銀銭を示し、私かに賛辞を得ようとする様子だった。梅原は原田を叱責するも、ただ唖然とするばかりだったようだ。翌19日に、梅原は柴田氏をはじめ、小林行雄、羽舘易など、人員を整えて現場に赴き、発掘者を立ち会わせて再調査を行ったのである。
原田は、もとより発掘の専門家ではないが、京都大学での実測調査の仕事で、ある程度の知識をもっていたようである。塔の心礎も、昭和9年四天王寺の心礎が地中深く位置していたのが判明したこと、昭和9年から11年にかけて梅原が担当した高麗寺址の調査で、塔心礎は横に舎利孔があったことを事前に知っていたため、いわゆる“タヌキ堀”をしたのである。その証拠に、心礎を発見すると、その心礎の南側を堀りすすんでいる。これは、高麗寺址の塔心礎の舎利孔が南側にあったのを知っていたからなのであろう。“タヌキ掘”とは、いわゆる盗掘屋がやる手口である。ある程度見込みをつけて効率よく掘って、お宝をゲットできる方法である。
実際の、発掘調査は土層を丁寧にはがしていくのを基本とする。したがって、発掘場所の断面の土層を記録としてのこさなければいけないのである。決して、見込みで集中的に掘ってはいけないのが、常識である。
この再調査では、発掘者の聞き取りから、ある程度の納置状況は判明したが、心礎のまわりの土層など、もうすでにわからなくなってしまったものもあったようだ。しかも、梅原は、この問題の徹底的な究明を進言していたが、聞き入れられなかったようだ。これが、梅原をして、大きな禍根を残すこととなった。
原田が示した発掘品は舎利容器と銀銭9枚だったが、舎利容器の痕跡から銀銭は12枚あったと後で判明したため追求すると、発掘者が一部をネコババしたのが発覚した。原田と塚本は警察で追求をうけ、塚本は鏡1枚と銀銭2枚をネコババしたのを白状し、返却をしたが、原田は頑として追求をはねのけ、ついには釈放された。
昭和15年になって、水野清一は原田を雲岡石窟の実測調査につれていった。その時の打ち上げの席で、酔った原田は、「実は崇福寺の秘宝はまだ残っている」と口走り、それを羽舘が聞いてしまった。つぎの日、原田はことの重大さを感知し、北京から行方をくらましてしまった。羽舘はすぐさま梅原に「ジンニゲタテハイコウ」と電報を打ち、捜索を依頼した。そして、京城で有光教一が発見し、「ジンツカマエタ」と電報がとんだ。それでまた大津警察署に連行されたのである。
警察で原田は、京都の疎水の川の中に銀銭を捨てたと証言し、そのために疎水の川ざらいをやったが、銀銭は発見されず、結局原田は釈放され、宮崎にもどった。
昭和18年、坪井清足は、九州の岡崎敬の家に遊びにいった折、牧師で教誨師であった父君から考古学者の囚人が宮崎県新田原の刑務所にいることを聞かされた。刑務所のガリ版刷の雑誌には「宮崎刑務所構内遺蹟及び遺物に就いて」という原田が書いた論文があった。
戦後、東京に出てきて、数人の考古学者とかかわっていたようだが、また刑務所にはいり、昭和25年死去した。享年42才。
原田が発見した、舎利容器などは、昭和19年国宝に指定されたが、結局指定件数は無文銀銭11枚となった。ネコババした残りの1枚は原田のみぞ知ることとなってしまった。
- 参考文献
・濱田耕作・原田仁『西都原古墳の調査』日本古文化研究所報告 第十 昭和15年11月
・柴田実『大津京阯(下) 崇福寺阯』滋賀県史蹟調査報告 第十冊 昭和16年3月30日
・梅原末治「近江滋賀里崇福寺の塔阯(上)(下)ー特に心礎と其発見品ー」『宝雲』33・34 昭和19年12月10日・昭和20年8月20日
・梅原末治「崇福寺問題とその経緯」『史迹と美術』173 昭和21年10月1日
・坪井清足「原田仁さん」『古代追跡ーある考古学者の回想』 1986年5月31日 草風館
・日高正晴「原田仁の思い出」『宮崎県史叢書 宮崎県前方後円墳集成』「宮崎県史叢書しおり」 1997年3月31日
・齋藤忠「原田仁」『日本考古学人物事典』 2006年2月28日 学生社
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