人物

2022年12月24日 (土)

板谷波山、吉澤忠、小川三知と田端文士村

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 陶芸家板谷波山は、茨城県下館の生まれで、東京美術学校彫刻科に明治22年入学している。その翌年、小川三知は同日本画科に入学。まだ開校間もない美術学校は少数の学生で、専攻科は違っても交流があったようです。木彫科の同級生には、後に美術院で彫刻の修理を手がけた新納忠之助がいました。板谷は、卒業後、石川県工業学校木彫科教諭として金沢に赴任。7年程勤めた後、学校を退職し、陶芸製作のために東京に移住しました。転居先は、田端512番地という台地の斜面の土地でした。そこで、窯を築き本格的に陶芸製作にいそしみました。

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 一方、小川三知は、橋本雅邦を師とし、日本画の制作に励みました。板谷の一年後卒業すると、日本画教師として、山梨県尋常中学校、神戸市兵庫師範学校などで、教鞭をとり、ハウ女史の紹介で、アメリカシカゴ美術院の日本画教師として、明治33年渡米しました。
 その頃、医学生だった吉澤亀蔵は、まだ生まれたばかりの忠とともに板谷邸の裏に引越してきます。そこで、幼い数年間、板谷家との交流が行われました。

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 小川三知は、明治44年、アメリカから帰国後、すぐに最新のステンドグラスなるものに注目をあび、建築学会特別会員となり、世界のステンドグラス事情についての講演を行うなど、帰国後から忙しくしていました。板谷は、田端の地を小川三知に紹介し、田端に住居と工房を作りました。小川の住居は台地の上にあり、南側に下っており、大変景色のいい場所だったようです。

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 板谷波山と小川三知はお互いに、それぞれの仕事で忙しくしていましたが、小川三知の日記によると、煎茶の稽古などを一緒に受けていたことが記されていて、三知が死ぬまで、田端文士村で交流を続けていたようです。

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 吉澤忠は、田端から引越した後も、よく板谷邸に遊びに行っていたようです。板谷の双子の男子と2つ違いだったこともあったのかもしれません。忠が中学2年生のとき、関東大震災がおきます。板谷邸は無事だったのですが、横浜の吉澤邸は全焼。それで、そのまま中学卒業まで板谷邸で下宿することになったということです。忠は浦和高校から、東京帝国大学文学部美術史学科に入学しました。

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吉澤忠の父親亀蔵は震災後に家を建てることにし、板谷の友人の小川三知に玄関扉の額、ランマや、洗面所の窓などに、ステンドグラスを製作してもらいました。建物は京浜急行日ノ出町駅から野毛山公園に向かって坂と階段を登っていったところにありました。2015年に行ってみましたが、空き家でした。その後、建物が取り壊されたという噂を耳にしました。ステンドグラスが無事に残されていることを願うのみです。

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 美術史学者吉澤忠は、南画研究を専門とし、『国華』に30余の論文、170余点の作品の紹介をしています。東京帝国大学では滝精一に師事し、卒業後は戦争に突入していったために、実績にあった職業につけませんでしたが、戦後、東京国立博物館の文部技官に39才にしてやっと就任しています。ところが、1年余りで依頼免官となります。戦後の文化財行政の混乱、新旧勢力の確執があったのかもしれません。戦後、吉澤は、東博勤務中にも、舌鋒するどい行政批判をしています。おそらくそれが免官の原因だったのかもしれませんが、美術品の見方、博物館での公開のあり方、美術品所有者との対し方、学界の封建性、文化財行政への批判など、いまでも議論しつづけなければならない基本的なテーマを、さまざまな雑誌に投稿し問題を投げかけています。それらのテーマに対して、今の美術史学者はどれだけ共有して発言しているのでしょうか?

吉澤忠論文の一部
 「行方不明の國寶」『東京新聞』 1946.10.30-31 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「御物と博物館ー皇室財産の處理についてー」『古美術』181 1946.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術史の封建性ー美術史學をはばむものー」『日本評論』21-12 1946.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術界の列侯會議」『サンデー毎日』 1947.1.26 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「日本美術の窓」『美術運動』3 1947.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「學問以前のこと」『美術と工藝』9 1948.3 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術品の公開」『國立博物館ニュース』8 1948.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「民族文化のためにー博物館のあり方と美術の見方ー」『東京民報』 1948.5.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術品の再評價」『美術運動』4 1948.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「繪畫の見方ー初めて畫をみる人にー」『國立博物館ニュース』12 1948.8 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「社寺見學禁止の問題」『國立博物館ニュース』14 1948.10 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「法隆寺金堂の火災」『新教育タイムス』12 1949.2 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「法隆寺はなぜ焼けたか」『アカハタ』600 1949.2
 「法隆寺」『教育と社會』4-5 1949.5 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術の世界」『BBBB』創刊号 1949.11 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「社會教育施設への入場料」『國立博物館ニュース』25 1949.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「参議院文化財保護法批判」『日本歴史』19 1949.9 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術を見るためにー博物館見學の場合ー「『社會科教育』31 1950.6 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「専門審議會への期待」『國立博物館ニュース』45 1951.2 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「眞物と僞物 美術についてのさまざまな感想(三)(四)」『ケノクニ』6-7.8 1951.7-8 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「美術と複製 美術についてのさまざまな感想(六)」『ケノクニ』7-4 1952.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「時評・美術品の海外輸出」『歴史學研究』160 1952.11 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「模倣ということ 美術についてのさまざまな感想(八)」『ケノクニ』7-12 1952.12 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「剝落模寫と復元模寫 美術についてのさまざまな感想(十)」『ケノクニ』8-1 1953.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「國立近代美術館に問う」『美術批評』1月号 1953.1 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「國寶をめぐって」『改造』34-4 1953.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「時評・畫は描かなければわからないかー近代繪畫の一つの問題ー」『歴史學研究』170 1954.4 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)
 「古美術と現代ー傳統と創造との問題ー」『日本讀書新聞』751 1954.6.21 (吉澤忠『古美術と現代』所収 1954.8.25 東京大學出版會)

参考文献
板谷波山と吉澤忠
 吉澤忠「板谷波山先生の思い出ー出光美術館の講演からー」『陶説』290 1977.5.1
 吉澤忠「波山の人柄と日常生活」『目の眼』14 1978.1.1
 吉澤忠「大正時代の板谷波山」『炎芸術』4 1983.10.1
 田辺千代「美術史家 吉澤忠と波山ー波山さんのおくりものー」『没後50年 板谷波山展』図録 2013.10.4 毎日新聞社

板谷波山
 吉澤忠・中川千咲『板谷波山傳』 1967.3.26 茨城縣
 松田典子「板谷波山伝」『美学・美術史学科報』1 1973.3 跡見学園女子大学美学美術史学科
 『炎芸術』4 特集ー板谷波山・現代陶芸の原点に還る 1983.10.1
 『陶説』493 1994.4.1
 『常陽藝文』187 特集板谷波山 1998.12.1
 荒川正明編『板谷波山ー陶芸とその生涯ー』 2010.10.16 財団法人波山先生記念会
 『生誕一五〇年記念 板谷波山の陶芸』図録 2022-2023

吉澤忠
 『古美術と現代』 1954.8.25 東京大學出版會
 『渡邊崋山』 日本美術史叢書 1955.11.15 東京大學出版會
 『池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術』26 1973.3. 小学館
 『日本南画論攷』 1977.8. 講談社
 「物故者(昭和63年)」『日本美術年鑑』平成元年版 1990.3.30
 吉澤忠 年譜・著作目録編纂会『吉澤忠 年譜・著作目録』 1993.12.12

小川三知
 藤森照信「明治・大正・昭和のステンドグラス」『彩色玻璃コレクション 日本のステンドグラス』 2003.6.10
 田辺千代「小川三知ーアメリカ系スティンドグラス技法を伝えた稀代の芸術家」『日本のステンドグラス 小川三知の世界』 2008.4.20
 田辺千代「日本のステンドグラスー宇野澤辰雄と小川三知」『民族藝術』28 特集 ガラスの東西 2012.

板谷波山・吉澤忠・小川三知年譜

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2012年4月16日 (月)

神奈川仏教文化研究所HPの再開

今日(16日)、朝田純一様よりメールをいただきました。

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神奈川仏教文化研究所のHPを、高見徹様の後をついで再開するとのことでした。

去年4月18日を最後に、HPの更新が途絶えてから、およそ1年、朝田様が、高見様の遺志をついで再開することになったということです。

高見様の突然の訃報は、おそらくまわりの人々に多くの衝撃を与えたことだろうとおもいます。

高見様のHPでは、じつに多くの人に、仏像のすばらしさと感動を教え、しかも、わかりやすく解説していました。このHPに数々の恩恵を受けてきた人は多いとおもいます。

その思いを受け継いでくれたのが、新管理人になられた朝田純一様です。

とりあえずいままでのコンテンツをまたアクセスできるようになりました。

いままでの膨大なデータがまた参照できるようになるようです。

また、新しく掲示板「観仏日々帖」を創設して、読者とのコミュニケーションの場も設けられました。

神奈川仏教文化研究所のHPがまた再開されるのは、仏像ファンにとって、よりどころができるということです。以前のような活発なコミュニケーションの場になるように、読者ともども応援をしていきたいとおもいます。

神奈川仏教文化研究所:http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/

リンクブログ観仏日々帖:http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/

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2011年7月 2日 (土)

ある縁

 記憶があまり確かではないのですが、昭和53年頃だったか、ある土曜日に例によって、茶房早稲田文庫で、後輩2人とグダグダしていると、マスターの日下さんから、ちょっと奧座敷に来てと、3人が呼ばれました。

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そこには、オーナーのオバサンと、中年の男性がなごやかに話をしていました。

と、紹介されると、その中年男性は上原昭一氏でした。

その当時、奈良国立博物館に勤務していたとおもいます。ちょうど、早稲田大学で、美術史学会があったので、その合間に、茶房に寄ったようでした。

上原氏は、私以外の2人が美術史学科の大学院生だと聞くと、何でも聞きたいことがあれば答えようと、言ってくれました。

私は、すでに大学院を卒業して、目標がなかった時で、ひたすら遠慮しましたが、後輩2人はここぞとばかり、それぞれの思いをぶつけていました。

どうして、上原昭一氏が冨安さんと知り合いなのか、その時はわかりませんでしたが、2人の話を聞いていると、オバサンが戦前に、長野で下宿屋をしていて、その時の下宿生が上原昭一氏だったようでした。

上原氏の経歴を調べてみると、旧制長野中学から、松本高校へ行き、東北大学を卒業しています。おそらく、長野中学の頃だったのでしょう。

しかし、オバサンは、その頃の姓は冨安ではなかったのに、上原氏はどうして茶房のことがわかったのでしょうか。

その疑問は、すぐにわかりました。その当時の1・2年前に、奈良国立博物館でバイトをしていたのが、あの故平木収氏だったのです。

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例によって人なつこい平木氏は、上原氏と話をなんとなくしながら、茶房のご主人冨安さんのことを、上原氏に話したのではないでしょうか。

それで、学会という機会に茶房に訪れたのだとおもいます。なつかしそうに、長野時代の話をオバサンとしていました。

上原昭一氏の話題は、私が大学院のころ、佐々木剛三先生からも、一度聞いたことがあります。それは、ハリー・パッカードが奈良国立博物館に銅造蔵王権現像を持ち込んで、上原氏に見てもらいたいと来たときでした。

上原氏はこの仏像が指定物件にも匹敵する秀作であると、看破しましたが、海外に流出するのを阻止するため、パッカード氏には、たいした仏像ではないと話したそうです。

しかし、パッカード氏は上原氏の表情を見抜き、ついにこれを購入し、最終的には、メトロポリタン美術館に収蔵されることになってしまったのです。

上原氏は地団駄ふんで悔しがった。ということだったそうです。

ハリー・パッカードのほうが、美術作品よりも人間の目利きがあったということでしょうか。

東北大学の雑誌『美術史学』31・32号を見てみると、2010年7月9日、上原昭一氏は逝去されたそうです。

2011年5月18日 (水)

2つの訃報

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 昨日、さる有名な葬儀所で、同業者の社葬に行ってきました。かなりの人が参列していました。その業界ではそれなりの実績を作った人ですので、かなり盛大な式典でした。

葬儀の進行は実にスムースに執り行われていました。故人は、大震災の2日前に突然倒れ、帰らぬ人となりました。その後の会社の立て直しや、大震災もあって、やっとくぎりをつけたということでしょうか。

会社のトップが突然こういうことになると、おそらくさまざまな問題がおきたのだろうとおもいます。残された人の負担と、ご苦労が察せられます。

もうひとつ、先週金曜日に、メールで訃報をお知らせしていただいた人がいます。

神奈川仏教文化研究所の高見徹様です。

あまりにも、突然のことなので、正直おどろきました。なんて返事をしたらいいのか迷いました。

というのも、私は、高見様にいまだ会ったことがなかったのです。

私がはじめて高見様と、メールを交換したのは、数年前、『春秋堂文庫』を立ち上げて、3ヶ月ほどしてからだとおもいます。小生も病気から退院して、たまったメールを見ていると、その中に、拙HPを「神奈川仏教文化研究所」のリンク集にのせてたい旨の、メールがありました。

それまでは、「神奈川仏教文化研究所」は、仏像好きの同好の集まりで、単なる仏像めぐりサークルかな、とおもっていました。

それから、そのHPの掲示板「訪れ帖」を覗くようになりました。そして、何度か投稿もさせてもらいました。その頃は、掲示板の書き込みもさまざまな人からあって、活況を呈していました。

高見様はその管理人として、実に丁寧な対応をしていました。投稿者には、必ず返事のコメントを入れていましたし、それが、実に中立的な立場で適格な答えでした。それにもまして、投稿者の質問には、ちゃんと調べて返答をしているのがよくわかりました。それなりの調査能力と、知識を持ち合わせている人だと、想像がつきました。

神奈川仏教文化研究所のHPも、週はじめの月曜日には必ず更新していました。こんなきっちりとすることは、仕事で業務としてやらないかぎり、いわゆるボランティアでは、なかなかできないことです。

掲示板はこういうふうに運営するのかという、管理人の典型的なお手本をみせてもらっているようでした。

はじめて、メールをいただい時、高見様は、このHPで、仏像の研究者と愛好者との橋渡しをしたいと書いていたような記憶があります。

まさに、このHPで、それを具現していたようにおもいます。それが途絶えてしまうとしたら、大変残念なことです。

これから、どういうことになるのかわかりませんが、どういう形であれ、こういうコミュニケーションの場が確保されることを、切に望みたいとおもいます。

くしくも、昨日の同業者も高見様も、そして、小生も団塊世代です。

なにか、よりどころが、すこしずづ崩れていっているような寂寥感がただよいます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

注:高見様の訃報を実名で公表したことに対して、ご家族、お知らせいただいたA様には、もしご迷惑だということならば、陳謝の上、即削除いたします。

2010年4月24日 (土)

早苗のおばちゃん

夢さんのブログに「早苗のおばさんの訃報」という題で、早苗のおばちゃんが去年なくなったことを書いていました。

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私が麻雀をおぼえたのは、おそらく大学に入ってからだとおもいます。父が麻雀をやっており、家庭でもやっていたので、少しは知識があったかもしれません。雀荘でクラブの同輩や先輩のやっているのを後ろで見ながら、おぼえたのだろうとおもいます。その頃の大学生の遊びは麻雀が全盛でした。面子が集まれば、すぐに雀荘へ直行でした。

いつも行っていたのが、大学の門の前にあった『早苗』でした。『早苗』はご主人と息子とおばちゃんの3人家族で、息子がまだ中学生くらいだったとおもいます。旦那は朝から酒を飲んでいたりして、ろくに仕事もしていないようでした。雀荘の切り盛りから、家族の食事の世話など、すべておばちゃんがてきぱきと仕切っていました。ときには面子が足りないと、いっしょに雀卓を囲みました。

おばちゃんの麻雀は、格段にうまいというわけではないのですが、時には大勝したり、また負けることもあって、いわゆる接待麻雀ではなく、いっしょに楽しんで打ってくれました。

雀卓が満杯のときは、2階の居間まで使わしてくれました。もう家庭のありのままをすべて解放しているようでした。

そこが、おばちゃんの人気のあったところだとおもいます。何か母親のような暖かさと、友達のような気楽さを持ち合わせていました。おばちゃんには、ずいぶんと無理を言ったり、わがままをしましたが、すこしも嫌な顔を見たことがありませんでした。

我々が麻雀を打っていてお昼になると必ず、「メルシーのラーメン」か「尾張屋のランチ」を出前で取りました。とくに「尾張屋」の出前のあんちゃんは、出前にくると、我々の仲間だった鎌田がランチを食べる間、そのあんちゃんに麻雀を代わりにさせていました。

雀荘は、我々の大事なコミュニケーションの場でした。バクチですから、多少の金銭のやりとりもあるので、それぞれの性格がでてきます。また、同級だけではなく、先輩や後輩とも卓をかこみましたから、上下関係のコミュニケーションも取れました。私が2年のときは、大学がロックアウトされて授業がほとんどなく、時間をもてあそんでいた時期だったこともあったので、思う存分やっていました。

5,6年前でしたか、クラブのOB会の始まる前に『早苗』に集合しようと声をかけると、お昼ごろ三々五々、昔の仲間が集まってきました。おばちゃんは、昔の雀仲間をひとりひとりおぼえていてくれました。もう昔とちがって、雀卓が埋まるほど、お客はきていないようでした。おばちゃんは昔と少しもかわらず、よろこんでくれました。

もう麻雀のブームは去って久しいのに、昔の客が尋ねてくれるのを待っているために、雀荘を開けているようでした。

その後、OB会の始まる前に、『早苗』によると、鍵がかかっていました。去年の11月に行われたOB会のときも、誰かいる気配がありませんでした。

どうしたんだろう?と気になっていました。

2009年3月10日 (火)

平木収君

 平木君にはじめて会ったのは、茶房早稲田文庫でした。たしか、私が大学院に入った年だから、昭和47年だったとおもいます。いつものように茶房へ行くと、店長の日下さんといっしょにカウンターの中で仕事をしている人がいました。日下さんが新人だと紹介すると、実は二文の学生で美術の専攻に行きたいのですが、と私に相談を持ちかけてきたのが最初だったとおもいます。あとで、わたしと同様に茶房の常連だった齋藤君がじつは平木君の高校の後輩だったことがわかり、大学では先輩で、高校では後輩になるといったややこしいことから、打ち解けていきました。平木君は茶房には1年位しかアルバイトはしていなかったと記憶していますが、持ち前の人づきあいのよさから、やめたあとも、茶房にかかわりをもって、オーナーの富安さんや我々常連と話をしたり、飲みにいったりしていました。Photo_5
 ある時、私が研究室で仏像の調査をしたとき撮った写真の焼付を平木君にたのみました。調査のとき撮った写真は6×9のネガだったので、それに対応する引伸し機がなく、当時写真部に籍を置いていた平木君にたのんで、写真部の引伸し機をつかわしてもらったのです。5~60枚をてなれた仕草で、焼き付けをしてもらいました。そして、乾燥ドラムが美術史研究室にあったので、それを使いに研究室にいくと、バッタリと佐々木剛三先生に出会ったのです。先生は平木君を学部の授業で知っていたらしく、「なんだ君は写真をやるのか」とおっしゃったのです。その後、先生はいろいろ写真のことで、平木君にたのみごとや、相談をしていたようです。
 私が大学院の修士を卒業して、家の商売をはじめた5月の連休に平木君と、大学院の美術史にいた齋藤君、仲嶺君の4人で京都旅行をしました。平木・齋藤君は京都出身で、仲嶺君は大学が同志社だったので、私が京都を案内してもらうということでした。宿は平木君の伏見の実家に泊めさせてもらいました。平木家の父君は会社勤めながら、趣味で篆刻をやっている人で、それも趣味の域をこえた実力の持主で、たのまれて書を揮毫したこともあったようです。ものしづかな御尊父で、子供を遠くからあたたかくみまもっているといった風情でした。しかし、本人はじつに調子よく気配りの人生をあゆんでいました。
 旅行中、私が京都でそばのうまい店があるのか尋ねたところ、まかせてくだいと胸をはって言うのです。その店にいくと、何やら老舗のお茶屋という玄関のつくりです。平木君はようようと、玄関にはいって空いていますかと尋ねると、そこの女将は、彼の風体をみて「すみません。あいにくと満員でおことわりしているのです。」というのです。あの格好で、京都の老舗にいって予約なしで入れるわけがありません。京都人が京都のしきたりを知らなかったのです。
 そうこうしているうちに、平木君と齋藤君の伏見高校の先輩後輩は、既定の学年を過ぎていってしまいました。そんなとき、佐々木先生か加藤先生の紹介だったかは定かではありませんが、二人そろって図書館の特別資料室でアルバイトをすることになりました。その時の室長は柴田光彦氏、その下に松本さんというユニークな人がいました。特別資料室に遊びにいくと、和本の修復の手伝いをしていました。紙に古色をほどこしたり、とその中でも、実に要領よく仕事をしていたなという印象でした、というよりも、松本さんに二人ともよくかわいがられていたなという印象でした。
 その後、佐々木先生の紹介で、京都の光村推古書院で仕事をしていたようです。奈良国立博物館でもアルバイトをしていたようです。そして、ヨーロッパに単身旅行をして、いよいよ写真で生きる覚悟ができたようです。それからは、写真雑誌のコラムや、展覧会の企画などをやり、着々と写真評論家の地位をかためていったのです。
 平成10年の秋だったか、突然、私の会社に電話が入りました。じつは、佐々木先生の古稀のお祝いの会があるので、来ませんかという誘いでした。私はこの業界(学界)から遠ざかっていましたので、情報が入ってきませんでした。平木君は私と佐々木先生の関係をじつによく知っていました。彼の気配りに感謝しました。先生はその一年後に亡くなり、これが最後の対面でした。Photo_4
またその翌年だったか、私のゼミの先輩だった多摩美のヨコチューこと横田忠司さんの葬儀の時に会いました。そのときは、昼食をともにしながら、今やっていること、これからのことなどを、じっくりと二人で話しました。その当時は、大学の非常勤講師や、雑誌にコラムなどを書いていましたが、もうそろそろおちついたらどうだ、というようなことを私が言うと何となくうなづいているようでした。さらに、これから、もうそろそろ体系的な写真史の本を書いたらどう、とけしかけると、まんざらでもなさそうでした。
それから、風のたよりに平木君が九州産業大学に就職したのを知りました。やっと落ち着いてくれたか、というのが私の印象でした。きっとこれからは、腰を落ち着けて研究にとりくんでくれるだろうと思っていました。
平木君は、平成21年2月24日なくなりました。 残念です。

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