思考

2017年2月 7日 (火)

『佛教藝術』休刊

 『佛教藝術』が1月30日刊行の第350号で休刊になりました。創刊が昭和23年(1948)8月ですから、私ごとですが、私の生きてきた間、ずっと刊行されてきた研究誌でした。

Butugei

私がはじめて、『佛教藝術』を購読したのは、71号からでした。大学の2年の時だったと思います。この雑誌を定期的に買おうとおもった、ということは、この道に進もうと覚悟したからだったかもしれません。
結果的には、叶いませんでしたが、その後、1冊も切らさず手に入れてきました。

350号の末尾には、 『佛教藝術』休刊のお知らせ が掲載されていますが、休刊の理由として、

  • 専門的内容の研究誌を取り巻く状況が厳しい
  • 研究誌としての高い質と誌面編成を維持しつつ継続することが困難

を揚げていますが、要は、仏教美術の研究者が減少していることに尽きると思います。
研究者の数が少なければ、それだけ論文の数も少なくなるのは自明の理でしょう。

では、美術史の分野の中で、なぜ仏教美術の研究者が少なくなったのでしょうか。もともと、仏教美術という分野は、他の分野と違って、難解であるという先入観があるようです。前提となる仏教(宗教)の教義を理解することに躊躇するのでしょうか。

今、書店の美術関係の書棚を見ると、仏像の入門本が、常に数十冊並んでいます。この数年、静かな仏像ブームだそうです。いわゆる団塊の世代を中心とした中高年が、その知的好奇心を満たすのに、絶好のテーマだからなのでしょう。

それなのに、若い世代は、美術というと、西洋絵画か、日本美術では、近世・近代絵画に興味が向いているようです。

仏教美術という、せまい分野を研究テーマにするメリットは、今は、もうなくなってしまったのでしょうか。

たとえば、1980年~2000年ころ、日本各地の自治体では、文化財の悉皆調査を実施していました。その調査を実施するため、若い研究者が、実際に作品にふれることができる実体験の場が提供されていました。しかし、バブルがはじけると、真っ先に予算を削る分野となりました。そのために、仏像の調査ができる研究者が、一人もいない都道府県がまだ存在している結果となりました。

仏像研究者の数をふやすことが急務なのに、それができない状況になってしまいました。
『佛教藝術』の休刊は、その現状に対抗できなかったためでしょう。

現状では、この衰退現象はなにもしなければ、ますます加速することは目に見えています。では、この現状を打開するには、どうしたらいいのでしょうか。

少なくとも、今の現役の仏教美術研究者にその危機感が感じられません。研究者は、自身の論文執筆のためや、もろもろの雑仕事で、いそがしくて、学会のことなど、考える暇もないのでしょう。

学会は、単なる、研究発表の場を提供するだけの機関ではないはずです。研究者の研究できる環境づくりに、力を注がなければならない機関なのです。

どこの業界でも業界団体はあります。その団体の構成員は、それぞれが、仕事上のライバルであると同時に、業界全体の発展のために、さまざまな手を打って団体を運営しているのです。

それが、美術史の学会でも充分機能しているのなら、こんなことにはならなかったのではありませんか。外から見ると、学会というものが、このように見えてしまいます。

「春秋堂文庫」を2年ぶりに、更新しました。
350号休刊に会わせて『佛教藝術』図版論文総目録を上掲しました。

項目数は、図版4442件、論文2259件 になります。
号数順、編著者別、分野別にそれぞれ、分けて掲載しました。
このデータベースが、仏教美術研究者の研究の手助けになり、また、新たに仏教美術を研究する人の支援になることを期待いたします。

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2012年9月17日 (月)

余呉湖

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40年ぶりに、賎ヶ岳の山頂に上りました。あの時とほとんど変わらない風景でした。

大学院の2年の時だったか、小浜で調査旅行がありました。今の季節と同じ夏の終わりだったとおもいます。午前中に解散した後、私は、長浜にいる友人に会いに行く約束をしていました。卒業して以来の再開でした。

その友人は、長浜の工場勤務で、独身寮に住んでいました。平日だったので、夕方に会う約束をしていました。それで、時間つぶしに、賎ヶ岳に登ったのだと思います。でも、賎ヶ岳のリフト乗り場までは、木之本からかなりの距離があるので、自転車を借りて行ったのだろうとおもいますが、記憶がありません。

リフトをおりてから、山道を汗かきながら登ると、そこに、静かな山の中にひっそりと余呉湖がありました。雲の影がところどころ水面に影を落としていました。水面は波ひとつなく、鏡のようでした。

この小さな湖を眺めながら、ひと夏の終わりを実感したと思ったのでしょう。

その夕方、長浜で待ち合わせた友人は、長浜いちのホテルでステーキをご馳走してくれました。といっても、その当時の長浜は、何の観光施設もないような単なる田舎町でした。ホテルのレストランといっても、平日は閑散としていて、しかも窓ガラスもろくに磨いていないようなところでした。

せっかくのもてなしに、彼はちょっと不満化でした。そこをすぐに切り上げて、なじみの飲み屋へつれてってくれました。

カウンターとちょっとした座敷しかないような飲み屋でした。近くの工場労働者が帰りにちょっとひっかけるような店でした。

彼はその店に毎日のように通っているようでした。というよりも彼の人なつっこいキャラクターならば、すぐになじみの客になってしまうのは自明でした。

カウンターには、我々とおなじ位の年の妹と姉の姉妹で切り盛りしていました。もっぱら我々の相手をしてくるのは、妹のほうでした。

東京からきた、大学出の人の相手ですから、その飲み屋のオネエちゃんも、他の人とはちょっとちがった待遇をしてきます。

また、友人も調子にのって、その妹をからかうと、気が強いその妹は反論してきます。すると、さすが、近江商人の県だけあって、すぐお金の話をするといって、またからかいます。そんなこんなで、友人と妹のかけあい漫才のような会話で、もりあがっていきました。

宿舎は、わざわざ独身寮の接待用の部屋を取ってくれ、朝、工場の始まる前に、駅まで車で送ってくれました。

それから、何度か再開はしましたが、ある時、年賀状に‘からだには気をつけろよ’という書込がありました。そして、その2、3年後突然、彼の訃報に接しました。

もうあれから10年位経ったのでしょうか。何時という記憶は薄れていきますが、長浜の飲み屋での楽しかった時間は、いつまでも覚えています。

いや、その記憶を甦らせるために、あえて賎ヶ岳に登ろうと思ったのでした。

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2011年12月12日 (月)

2つの同窓会

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 7月に、40数年ぶりに、高校のクラス会に行ってきました。場所は新宿の中村屋でした。確か、大学を卒業してからは、何度か会を開いていたようですが、その間、一度も参加しませんでした。というのは、私の高校生活には、あまりいい思い出がなかったと思いこんでいたのと、何かクラスの仲間とは会うことに気後れがあったからでした。

今回は、幹事が自ら連絡をくれたりして、義理でも出ないわけにはいかなくなってのことでした。また、クラスの仲間が病気でなくなり、その偲ぶ会をかねてということもあって出席することにしました。

会場につくなり、やはり、予想が的中しました。顔をみても、名前が浮かばないのです。今回は、故人の友人のほかのクラスの人も出席したりしたので、50人近い出席者でしたが、その半分も思い出さないのです。

時間の経過とともに、すこしづつ記憶がよみがえってきましたが、それでも、隣の人と何を話したらいいのかその話題がでてこないのです。

おそらく高校2・3年の2年間に、それほどの濃密な関係を持つ人がクラスにはいなかったのかもしれません。昔の話が途切れてしまうのです。

もう、出席者は功なり名を遂げた人が多いので、それなりの余裕を持った年代になったためでしょうか、その雰囲気が、私にとっては、非常に居心地の悪さを感じてしまいました。

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もうひとつ、先日、大学のサークルのOB/OG会がありました。この会は、単なる同窓会ではなく、現役も出席して、現役とOBの交流の場としての機能を持たせた会でした。

2年に1回の開催ですが、準備はすべて現役の学生にやってもらっています。もう2~30年も続いているでしょうか、よく現役生は、継承して開催をしてくれています。ほんとに、現役の諸君には感謝のしようがありません。

これが、卒業生が主催する卒業生だけの会だったとしたら、もうとっくに0B/OG会は消滅していたでしょう。

サークルの性質から、運動部のように何かひとつの目標をもって活動していた団体ではなく、まとまりができにくいのは、いたしかたないことなのですが、結局、上下2~3年の間の顔見知りがいなければ参加できないことになってしまうのです。

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つまり、共通の話題が少ないと、見知らぬ出席者と話ができないのです。

そんな、不安定な会であっても、30年以上も続いてこれたのは、現役生との交流があったからだと思います。現役生にとってはOB/OGのおじさん、おばさんと話を合わせなければいけないのは、苦痛かもしれませんが、いずれOB/OGになるので、予行演習のつもりでいただければと思っています。

それと同時に、OB/OGにもすこしづつですが、変化が見られるようになりました。最初の頃は、OB/OGも、現役生に声をかけることもできませんでした。また、現役生もOB/OGに変な遠慮があって、ぶつかっていこうという勇気もないようでした。もっとも、OBも現役生に真正面からぶつかってこられたら、それに堂々と受けることはできなかったでしょうが。

OB/OGにとって、単に昔の仲間に会えるというだけが、OB/OG会ではないということが、すこしづつですが、理解されてきたのかなと思いました。

つまり、共通の話題がない同窓会は、結局、長くつづかないのです。昔のことを語り合う会は、仲間うちでやればいいことです。でも、話は尽きてしまいます。その後は、どうしたらつづくのでしょうか。

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OB/OGのするべきことは、昔の仲間との交流だけではなく、いかに後輩諸君に、その経験を伝えることだと思うのです。

また、見知らぬOB/OGであっても、積極的に話をすれば、それだけ人脈がひろがります。それだけでも価値あることだとおもいます。

こういう世代を超えた交流の機会がある同窓会は、何か新しい発見の場であると意識して、ふるって参加してほしいとおもうのですが。

2011年11月21日 (月)

退院しました

 先週土曜日(19日)無事に退院することができました。様々の読者の皆様には、ご心配とご迷惑をおかけして、誠に申し訳けありませんでした。

ブログのコメントにも書きましたが、旅行中に突然、救急車に乗車するという経験をしまして、新潟の病院に1週間ほど入院の後、東京の病院に転院して、治療が終わり、晴れて退院することができました。

病因は、総胆管結石ということで、いわゆる胆石でした。その石を取り除けば、もう治療が終わりという、あとから考えれば、至極単純な病気でしたが、突然の発症なので、多少とまどいましたが、これも運命の定めに従って、淡々と治療に専念してきました。

というわけで、入院前に新潟の市内を見て回った報告をまずしなければいけません。

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29日朝新潟に到着して、最初に“みなとぴあ”にいきました。そこには、近代建築が4棟ほどあり、そのうちの旧第四銀行住吉町支店に、ステンドグラスが嵌っていました。建物は、昭和2年竣工の建物ですが、移築の際、かなりの改修が施されているようです。このステンドグラスも、補修がかなりされているようで、当初の硝子がどれほど残っているのかわかりません。

 

 

 

 

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つぎに行ったのは、石油王の家である新津記念館です。ここは、窓のほとんどにステンドグラスが嵌っており、かなりの量がありましたが、内部には、カーテンがかかっており、そのデザインの全体像がわかりません。おまけに、非公開の窓もかなりあり、全体にどういうデザインの配置をしたのかがわかりません。おまけに内部は写真撮影禁止では、ステンドグラスの技法の詳細の検討もできませんでした。

とくに、2階の広間のステンドグラスは、花のデザインで、他とは違った東洋的な図柄ですが、色の使い方に洗練さがなく、あまりインパクトはありませんでした。

外から、窓硝子を見ると、透明硝子を入れて、それなりの補強をしてはいますが、その硝子の清掃がされていなくて、そのためか、内部から見ると、ステンドグラスの色鮮やかさが出ていないようでした。 ちょっとがっかりな建物でした。

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その後、旧小澤家住宅、燕喜館、新潟県政記念館をまわって、電車で村上に到着。旅館の送迎バスで、海岸沿いの旅館へ。部屋から見る夕焼けにしばし感動していると、仲間が到着し、私を見るなり、おかしいと騒ぎだし、とうとう救急車に乗車する嵌めになりました。

病院は、田園地帯にあり、まわりは、低い山々に囲まれた、実に環境のいい場所でした。

病室から見る風景は、毎朝、山の表情が変わり、時には、朝霧が山裾にひろがったり、飽きの来ない風景を毎日楽しんで、ひとときの何も考えないという時間を持つことができました。

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これが、いいことなのかどうかはわかりませんが、人生の一コマとしては、これもまた、ひとつの経験が加わったということでいいのかもしれません。

読者の皆様には、大変、ご心配とご迷惑をおかけしまして、再度感謝と陳謝をしたいとおもいます。

2011年11月 6日 (日)

ただいま入院中

10月29日、旅行中、突然具合が悪くなり、救急車で現地の病院に入院してしまいました。

しばらく入院して検査し、原因が判明したところで、東京の病院に転院してきました。

もうしばらくは、退院できませんが、読者様には、ご心配をおかけしますが、本人はいたって元気です。

退院まで、ブログの更新はできませんが、いずれ、詳しくその経過などを書かせていだいきたいとおもいます。

よろしく、お願いいたします。

2011年10月 5日 (水)

ボランティア

 東日本大震災では、数多くのボランティアが活躍していました。これほどまでに、ボランティアの役割が世に知られるようになったのは、社会の在り方として、いい方向にいっているなと、実感します。

昔、はじめてボランティアなるものを経験したのは、高校1年生の3月でした。その当時、“ボランティア”というと、“奉仕”という言葉が頭に浮かびました。

ボランティアをしている人は、キリスト教の精神に則って活動する、といっても一般人には、布教活動としか映りませんでしたし、また、お金持ちのヒマ人がやる上から目線の道楽としか見えませんでした。それは、“蟻の町のマリア”北原怜子の話が、世間の記憶にあったからだと思います。

友人に誘われて、ボランティア活動に参加するにしても、そういったまわりの偏見と立ち向かわなければならなかったのです。というよりも、理解してもらえないので、誰にも話すことができませんでした。

参加した、ボランティア団体は、“よりよき社会を建設する”という実に、漠然とした目標で、集まった人々でした。高校の時は、いはば入門程度で、それほどの思考力は必要ありませんでしたが、大学に入って、主力が大学生になると、その社会的矛盾と対峙しなければならず、また、学生運動の最盛期で、常に、社会の矛盾とどう向き合うのかを迫られていました。

学生運動の理論的脅迫の嵐に飲まれないためにも、実際に体を動かした“ボランティア”活動のほうに、力をいれて、凌いでいたというのが本当のところでした。

しかし、もう一つの文化サークルと、ボランティア活動の二股は、時間的にも限界にきていました。両方とも、もうただ上の人について行くだけではすまなくなってしまったのです。

責任ある行動をするには、いずれひとつに絞らなくてはならなくなりました。“ボランティア”活動は、私にとって大変魅力的な集団でした。しかし、集団とは、個人が自らの責任で行動するということです。一度行動をおこしたら、最後まで責任を追わなければならないのです。

と、その当時考えていました。実際、この団体では、自らの手で建物を建てていました。この建物が完成すると、その運用から維持管理まで、最後まで責任を追わなければならないと、思いつめていました。

一生“ボランティア”にかかわらなければならないという覚悟を求められたのです。それは、あまりにも、荷がおもすぎました。

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結局、ボランティア活動から遠ざかることになってしまいました。大学の先輩だった、阿木さんに、説得を受けましたが、もう自信がなくなってしまいました。

しかし、自身の言い訳としては、今は、この団体で、新しい行動を起こすアイデアが自分にはないので、いずれ、仲間をつのってこれをやろうという提案ができるまでの充電期間にしよう、と自分に言い聞かせました。

なにか、仲間を裏切っているという気後れと、申し訳けなさが、その後も続きました。いつか復帰しようと思いながら、どんどん時が過ぎていきました。

今、それでは、できる状況か、というと、まだまだ、充電期間がおわりません。

でも、“いつかは”という気持ちだけは持ち続けていたいとおもっています。

追、もうひとつのサークルW大の○美研のOB・OG会は、12月10日の予定だそうです。

2011年7月10日 (日)

negotiation

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 私は、中高一貫校だったので、クラブ活動も、中学高校とも同じ、陸上部に所属していました。別に、足が早かったわけでもなく、中学に入ったとき、先輩連中に、必ず運動部に入れ、と半ば強制的な指導があったからです。

ボール競技は得意ではないし、体がぶつかる競技もいやだったので、必然、体操部か陸上部しかありませんでした。

なんとか、高校2年まで、続けていくうちに、部長になってしまいました。この学校は、クラブ活動はほとんど生徒の自主性にまかせられていました。一応顧問の先生はいますが、練習や合宿にはほとんど顔をみせませんでした。

そんなこんなで、部長になると、まずやるのは、部費の予算折衝でした。今年度の予算要求を生徒会に提出し、まず査定がおります。そして、生徒会の役員との復活折衝を経て、予算が確定し、使えるようになるのです。

まるで、国家予算の決定方法と少しもかわりません。それをすべて生徒がとりしきるのです。

最初の予算提示は、私達の部の要求よりも下回った額でした。そこで、生徒会の役員との一対一の復活折衝です。

その時の状況は、新しく部に昇格するクラブがあり、当然、前年度より減額される雰囲気でした。それで、いろいろと理由を考えながら、折衝に臨みました。

相手の生徒会役員はY君で、一応予め考えてきた理由を述べて何とか金額を上積みできないかと訴えました。Y君はただその話を聞くだけでした。

どうもその場の雰囲気は、厳しそうなようすでした。というよりも、すでに我々はあきらかにY君にのまれていました。

それで、何とかならないかと、御願いする態度になってしまいました。

最後にY君は、“それで、いったいいくらほしいの”と最終回答をせまってきました。

私  :“何とか現状維持で去年の額になりませんか”

Y  :“じゃあ、それで決めましょう。”

私  :”-----”

しまった! ヤラレタ! というのが、そのときの感想でした。

 

 

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そのY君は、クラスが同じだったわけでもなく、親しくもしていませんでしたが、去年の同窓会で、講演をしていたのが、同窓会誌に載っていました。

彼は、東大で博士号をとって、ハーバードに移り、教授を勤め、その後東大に帰ってきた経歴を持っていました。

彼の講演の中で、ハーバードの教師はどこから給料をもらっているのかについて、書いてありました。契約期間があるのは当然としても、学部長からの通達書には、「雇用期間中、あなたの給与の源泉である外部資金が停止した場合、12ヶ月間は、大学はあなたに給与を支払います。」

つまり、自分で外部資金を調達できなければ、雇用期間中でも給与はナシですよ、ということのようです。

それで、外部資金獲得のために研究提案書を一生懸命書くのだそうです。

いはば、自分の給与をかせぐためには、そういうプレゼンテーション能力と、ネゴシエーションの能力が必要なのです。これは、日本の中学高校大学では、教えてくれません。自らが身につけて獲得する術のようです。

彼は立場が違っても、高校の時の、ネゴシエーション能力が役にたったのでしょうか。

Y君は、東大を定年で退職した後、今年4月、わが母校の校長に就任しました。

いまの日本の教育状況のさらに先を見据えてのことでしょうか。

2011年4月21日 (木)

フローチャート

全くもって、歯がゆくてしようがありません。

福島の原発事故のことです。

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4月18日の新聞には、東電が原発事故収束のための“工程表”を示した、と報じています。

オイオイ、これが工程表?

現状の把握もできなくて、何で工程表が組めるの?

“工程表”というのは、さまざまな作業をどう順番に行うかの交通整理をするためのものです。したがって、作業内容は、確定していなければなりません。

新聞を読むと、あくまでも計画で、復旧のために考えうる、すべての方策を示したのに過ぎない。と書いていますが、これって、“工程表”ですか?

こんなわかりきったことを、東電は何故発表しなければならなかったのでしょうか。

東電の幹部、および、現場の指揮者は、あきらかにパニクっています。

工程表でもないものを、発表しなければならないというのは、現状の冷静な判断が出来なくなっている証拠でしょう。

東電の示さなければならないのは、“フローチャート”です。そのフローチャートを作るためには、リスクアセスメントの基本に忠実に行わなければなりません。

建設現場をはじめとして、生産現場では、作業前のKY活動はもう、末端の作業員にまで定着しています。

1 どんな危険が潜んでいるか

2 これが危険のポイントだ

3 あなたならどうする

4 私たちはこうする

この4段階が基本です。

原発事故の収束には、まずなにをやらなければならないか、をリストアップします。

そして、それぞれに、その問題点をリストアップします。そして、その解決方法もそれぞれ予想します。

こうした、あらゆる場面の想定をした上で、その作業内容、その評価をフローチャートにして、公表すればいいのです。

東電だけでは、その予想がつかないものもあるでしょう。これを発表することによって、外部からの意見をとりいれ、その度ごとに修正していけばいいのです。

すくなくても、現場で、作業の会議をしている場所に、大きなパネルに書き込んでいって、それを、毎日、テレビが映していれば、状況の共有ができ、東電も情報隠しの汚名を着せられずにすみます。

原発の事故に対する基本は、“とめる” ”ひやす” ”とじこめる” と専門家は言っています。

しかし、この事故では、“ひやす”ができないと、いとも簡単に、“どじこめる”を放棄してしまいました。

いわゆる技術者の、ひとつの問題を解決するために、全体が見えなくなってしまった実例です。

そこには、基本を守ろうとする重い判断力を持つ管理者の不在も見えてきてしまいました。

危機管理とは、何かをもう一度、確認してほしいと、ただひたすらに願うばかりです。

2011年3月 1日 (火)

謝意

 ブログ『春秋堂日録』の10万アクセスにあたって、アクセスしていただいた読者の皆様に感謝いたします。

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3年前のちょうどこの日にブログを立ち上げてから、わずか3年で、10万アクセスを達成してしまいました。

こんなに、早く達成してしまうとは予想もしないことでした。ブログは、いはば、「日記」のようなツールとしてできたもののようで、どんな素性かもわからない人間の個人的な日常の話題が、さまざまな人に読まれるのだろうか、どうせすぐ飽きられてしまうのではないか、というのがブログを始めた時の不安でした。

それで、ブログを始めるに当たって、一応基準というか、心構えをつくっておきました。それは、

  1. ブログは継続が命ですので、目標としては、週2回程度の更新を心がけること。(実際、このところ守られていません)
  2. 内容は、日々の事柄だけでなく、日頃論じたいことも題としてとりあげること。
  3. 不特定の人にも理解できる題と内容とすること。(あまりにも個人的な仲間内の話題はできるだけさける。)
  4. 論じるにあたって、その論拠を明確に提示すること。(参照した文献などを明記する。)
  5. いわゆる伝聞情報は、はっきりとその旨を明記すること。(いつのまにか、伝聞が本当の話になることがあるので。)
  6. 挿入する写真はできるだけ著作権に考慮すること。(論題の性格上、どうしても写真で示さないと伝わらないことがあります。その辺の兼ね合いが難しいところです。)
  7. いわゆる権力には堂々と立ち向かうこと。(権力は絶大な力を持っています。しかし、それにひるまない覚悟をもつということ。)

 ネットで、誰でも情報を発信することができるようになったのは、歴史上画期的なことです。いままでは、権力者しか、その情報の発信ができなかったのです。ここでいう権力者とは、たとえば、マスコミなど、一定の関与がなされている情報発信機関も含まれます。これらのフィルターを介さずに、ネットはダイレクトに発信者の意見を公開することができるのです。

しかし、その情報の受け手は、わけのわからない馬の骨の意見など、そう簡単に受け入れるはずもありません。
しかも、ネットの発信者は、ほとんどが匿名ですので、今までと違って、読み手には、純粋にその情報の取捨選択能力が問われるようになってしまったのです。

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発信者にとって、読者に読んで納得してもらうためには、論考の質が勝負の分かれ目になるのです。実際的な裏付けのない意見や、すでに、存在している意見の焼き直しは、すぐにバレ、飽きられて、無視されてしまうのです。

しっかりとした事実に基づいたもので、オリジナリティーを持った論考でないと、ひとりよがりや、狭い視野でしか見られない論になるのです。自戒しなければなりません。

ブログの質を高めるためには、読者の批判のコメントが必要になるのですが、発信者にとって、その反響が一番気になるところなのです。

是非、コメントをたくさんいただきたいと切に願っています。

2011年2月27日 (日)

ヤバイ!!

ブログの更新をさぼっていたら、なんと、あと300アクセスで、10万に達しそうです。

このところ、毎日平均100~150アクセスがあり、あっという間に、近づいてきました。

予想では、早くても3月中旬かな、なんておもっていたらとんでもないことになりました。

別に、10万ちょうどに当たった人に景品がでるわけはありませんが、御一報いただければ、感謝の言葉のみお贈りいたします。

こんなにアクセスが増えてきたのは、なんで更新が遅れているのかと次の更新の催促をしているためでしょうか。

ますます更新圧力がかかってきます。

なんで、更新が遅れているのかの言い訳をしなければなりませんが、ネタ切れではなく、着々と、取材をしてはいるのですが、今一つ、ひっかかることがあると、なかなか筆(いやキーボード)に手が届きません。

また、『春秋堂文庫』の文献目録の更新もなかなか、おもうように進んでいないこともありますが、先月から、集中的に「文献目録」のレイアウトの変更作業に入っています。要は、いままで、かなりいい加減に、文献の配置をしてきたのを、さらに調べやすくするために、一定の法則に従って並び替えの作業をしています。

具体的には、文献の識別番号を「あいうえお」順にも対応できるようにしたことです。いままでの番号はアルファベットを使っていたために、「あいうえお」順に並び替えられませんでした。これで、目的の文献にたどりつきやすくなります。

これが、また単純作業でいながら、神経をつかう作業です。ひたすら、時間を消費する作業ですので、どうしても更新する時間がありません。

という言い訳です。

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